好きでいるうちは何をしても人間であると思えたから
たくさんの言葉が話せても、言えない感情がある
言葉に意味なんてあるものかと思う。雑多な街路を行きながら葵は適当に小銭を放り、剥き出しの果実や揚げ菓子を口に運んだ。同じような格好の人々の流れは蛇のようにうねりながら拡散と凝縮を繰り返した。売人の売り声に足を止める人で狭まる通路の熱量は一気に上がり、誰しもが速やかな進路の確保と譲歩をこなす。港が近ければその頻度は上がって得体の知れぬ露店が堂々と連なった。賃金の低さは同時に購入の際の真っ当さも低める。扱い商品さえ固定されず、不揃いの煙草を指先で丸めているかと思えば次の日には軽食を当然の顔で給仕する。蜜菓子や揚げものの香りに混じって潮風が吹く。傷めつけられた建物の壁は補修さえされずにゆっくりと朽ちていく。壊れれば取り除かれて新しく接がれる。新旧の材料が混合して一枚の壁を成し、またそれが当たり前のように溢れた。
喧騒を抜ければ世界が切り替わるように壁と門を備えた家屋の並ぶ地域が見える。路地裏と広い範囲を総称されるぎりぎりの位置を取りながら葵は高級住宅街を眺めた。必要がなければ素通りするだけだ。富裕層を客質として持っているが顔が売れては不味い本業もあるので人付き合いはあくまでも抑制されている。書生として高位に紛れることがあれば、人足として身をやつすこともする。港に近い地域は人の出入りが激しく治安も低いから、驚くほど近くであっても住民たちに交流はない。知らぬ顔をして潜り込む家同士の近さに葵の方が呆れた。食べきった揚げ菓子に唇を舐め拭いながら指を舐めた。油紙を放置されているゴミ溜めへ放り、煙草に火をつけた。豊富な資産の急激な上昇は人柄までは引きあげてくれない。成金と羨望と嫉妬の混じった蔑称で呼ばれる住民は手段を選ばぬ面がある。上流の仲間入りのために必要なことに、金に糸目をつけないのもその一つだ。書生を抱えたり家庭教師を雇ったり、それにも流行り廃りがあるらしく毎年のように新しい顔が出入りする。
葵は煙草を咥えて目線を虚ろに投げながら、玄関先へ葛が出てくるのを見つけた。葛のなりと雰囲気は格式があるから、歴史という重みを欠くなり立てには魅力的に見えるだろう。葵と葛は同じ写真館に寝起きし経営もする。隠している本業の所属も同じだ。それでも本業の性質として横のつながりを断つから情報はほとんどない。互いに休暇の日付をあわせるなどと考えるのも馬鹿らしいくらいに無理な話だ。葵は葛が今どんな仕事を抱えているのか知らないし、潜り込むために帰ってこない正確な理由も知らない。またそれは同時に葵も同じで、葵が抱えている仕事や帰宅しない理由を葛は訊ねない。出すぎた真似は処分理由でしかなく、その際の組織の取捨は冷淡だ。
葵は襟の釦を外しながら短くなった煙草を靴底で消した。安煙草は長くもたず使いきりだ。葵の視界で葛はどこかへ出かけていく。見送りがないということは下層として潜り込んでいるのだろう。使用人程度であれば前歴や身上を偽るのは簡単だ。それでも洗濯を怠らない白いシャツやズボンに階層を感じる。シャツの裾を出してはだけたまま葵は路地裏を伝い歩いて葛を追った。葛の姿の好さは遠目でも目立つ。芯を入れたように伸びた背筋や肩、体のつくりがよいのだと思う。整えられた黒髪は短くうなじの白さが際立った。葵は何度か視界から葛の姿を外しながら後を追った。声をかけるようなことはしない。
そもそも葵がこんなふうに葛を追うことさえも組織に知られれば何らかの処断があってしかるべきなのだ。これで葛の仕事に障害でも起こそうものなら間違いなく葵の立場や生死は危うくなる。強制力を帯びる組織として抹消に手加減はない。ただでさえ血なまぐさい闘争の繰り返される地域であればこそ、暴力の始末もしやすい。
「馬鹿らしい」
葛が帰ってこないのは初めてではないのにどうしてこんなに気になるのか。葵はそれに唐突に思い至る。
「あぁ、そうだ、あんな。葛があんなことを言うから」
仕事が入って出かけると言う葛に入れ違いで帰宅した葵に、すれ違う玄関先で、葛が言ったのだ。
お前には及ばないかもしれないが俺もお前が好きだ。
葵の肉桂色の双眸が凶暴に眇められた。
なんでそんなこと言うの。普段、何日も家を空ける暮らしを何も言わずにこなしてきたのになんでそんなこと言うの、なんだか別れみたいでいやなんだよ。もう戻ってこないような顔をしてそんなことを言って、オレはどうしたらいいんだ。
「オレはあいつと別れたくなんてない」
葛は可愛くない。形は綺麗だし端正で顔立ちやたたずまいも優美で、それなのに葛の性質はひどくきつい。頑固だし言ったことを通す。それは不器用であると微笑ましく思えるし融通が利かないと疎ましく思える。葛の顔容は可愛いというより綺麗で、その冷淡が形を帯びたように葛は譲歩しないし、それでも葵は葛を嫌いだと言って切り捨てることができずにいる。この時世で葵は国外へ居を構えた経験をすることができて、それはとても恵まれているのだと判っている。だからこそ葵は頑固なくせに嫌いなことも堪えてしまう葛の態度はもどかしい。嫌なら嫌と言えばいいと思う。事実、葵は葛に直接そうぶつけた。結果としては無視された。数日間を葵は居所さえなくしたように漂うばかりに過ごした。葛の機嫌が直ってようやく相手をしてもらえた時には本当に嬉しかった。葵は手酷く扱われても葛を嫌いになれないと判っている。葛の頑なさも不器用さも葵にはないものでそれだからこそ惹かれる。好きってきっとこういうことなのだと思う。己にないものに強く惹かれる。それは磁石が引きあうように強力で、生い立ちだとか生活だとかそう言ったものを簡単に凌駕してしまう。
「好きなのに別れたいなんて、想うもんか」
葵の目線の先で用事を済ませたらしい葛が建物から出てくる。手荷物を携えてまっすぐに帰宅する。
なにも、ないか。考えれば当然のことで、それでも葵は葛から視線を外して帰ることができない。帰れば上等な寝台や柔らかな毛布、満足できるだけの食事がある。襟を乱して裾をひらめかせるような小細工も要らないし、きちんと着つけたシャツに折り目のついたズボンが揃う。それでも葵は葛から離れられない。肩の力を抜いた葵の投げた視線の先で、葛が諍いを起こしていた。慌てて葵は近づこうとする。相手は手慣れたように葛に因縁をつけている。新参者に目をつけては金品をたかる奴で、この界隈のものならある程度見知っているものだ。見かければ避けて通るのを葛はそうしなかったようだ。その相手の指先が葛の頤を掴む。葛は抗戦するべきかどうか迷っている。身分を隠して紛れていれば当然か。葵は駆けだしてその諍いに突っ込んだ。
「ごめん、こいつオレのなんだよ! だから手を出すなよ」
葛の手首を引いて葛を奪いながら葵の指先が紙幣を握らせる。金品が目的であれば紙幣の方に興味がいく。追及もないことを確かめる位置に走りながら二人きりになったのを葵は確認した。引っ張られるままであった葛が不満げに鼻を鳴らしながら袖や襟を直した。
「逃げる必要などない。そもそも正当性は俺の方に」
「あのな、あれはあの界隈じゃあ知れた厄介者なの! 後についてこられて困るのはお前だろ! ある程度の損失ですっぱり切れるんだから切るの!」
どうせあれはお前の顔なんか覚えちゃあいないんだ、目新しいという基準だけで人を判じているのだから。それでも葛は不服げだ。紅い唇が不満げに尖った。紅玉の照りを帯びるそれに葵が目を奪われる。葛は皮膚が白いから透けて見えるような鼻梁や唇は蠱惑的でさえある。
葛は何も言わない。言い訳もしないし礼も云わない。それでいいと知っているし葵も殊更に求めない。
「なぁ葛、どうしてあんなこと言ったの」
葵の肩が荒い呼気に上下する。葛は呼吸さえ乱さない。白い肌もそのままに、葛は紅潮さえしない。どこまでも冷静でどこまでも穏やかでとても、冷たい。葵が好きだというほどに葛は冷めていくように反応しない。好きだと言っても動揺さえせずに葵のことは空に漂っていつか消えていく。証さえもない。同性同士の行為であれば、明確な証は成り立たない。男女であったならば子供という明確な証が持てるものを。葵の目が眇められて潤んだ。母親がそうであったようにたとえ真っ当な関係でなくとも子が成れば成り立つというのに。子を成す間柄であればたとえ何といわれても胸を張っていける。それが同性同士というだけでこんなにも気を払い世間と折り合いをつけ隠し、そして。後ろ指さされることさえも気にしないと胸を張らなければならないなんて。
「なんだかお前がもう帰ってこないようで、オレは、オレはすごく」
怖かったんだ
「これってオレは、お前を好きなんだって言うことなのかな」
葵の目が潤んで葛を見つめる。葛の艶やかな黒髪が不規則にさす明かりで照った。艶やかな黒髪も潤んだような黒曜石も、感情を映さない。瞬く睫毛が重そうだと思う。密に目淵を彩る睫毛は黒く、長さもある。両目を閉じれば葛の白い皮膚の上に黒い毛先が揃った。ゆっくりと瞬く動きに睫毛が揺れて、黒く透けた瞳が見える。
「ねぇなんであんなことを言ったの」
「お前が好きだから」
葛の答えは拍子抜けするほど明瞭だ。瞬くことさえ忘れて潤んだように揺れる葵の双眸に葛は見据えたままふんと鼻を鳴らした。
「好きであれば好きであると言えと日頃お前が言っている。だから言った。俺はこの想いを、」
睫毛が瞬いて視線が和らぐ。潤んだ漆黒は揺らぐ水面のように波紋を及ぼす。
「言わずに死ぬのは、嫌だったんだ」
葛の睫毛や潤んだ漆黒や、毛先まで手入れの怠りない髪や。葛がそんなに己を思っていてくれたなんて。言わずに死ぬのが嫌だった、なんて。そんな、それをオレはどうしたらいいの。
「…――ッ」
葵はこみ上げる嗚咽に泣いた。両手でくしゃくしゃと覆った顔がみるみる泣き顔に歪む。葛がそんなふうに気を遣ってくれたのが嬉しくて、必要があればすぐにでも死んでしまう立場が哀しくて、葵に誠意を見せる葛に本名さえ明かせない己がふがいなくて。ただ嬉しくて悲しくて辛くて葵が泣いた。
「…――ッ、ふ、ぅ…――」
ありがとう、ごめんなさい。ごめんなさい、でも、ありがとう。
「……な、なんだ、大丈夫なのか、どこか傷めたか」
葛が慌ただしくハンカチなど探し出す。備えのいい葛はいつでもアイロンを当てたようにしわのないハンカチを持ち歩く。ピンと締まる布地の感触は頑なな葛のようで葵はいつも汚す後ろめたさと、犯す喜びを抱える。
「ありがとう、嬉しい。オレはお前が大好きだ」
漆黒の双眸が辛そうに揺らいだ。潤んで眇める瞳は冷たく葵を見据えた。
「思ってもいない、くせに」
お前が俺を好きだなんて思ってもいないくせに。葛の言葉は鋭利な刃物のように葵を裂いた。身動き一つ取れない葵に葛は冷徹な言葉を放つ。お前は誰にでも何にでも好きだという、そんな好きは要らない。本当に好きだなどと思ってもいないくせに、言うな。葵の肉桂色の双眸がみるみる身開かれていく。集束する瞳に瞳孔が収縮した。
「好きだよ。本当にオレは、おまえが好きだよ、それを要らないなんて、言うなよ。本当だよ。オレは本当にお前が好きなんだよ」
葛の双眸は冷たく葵を見据えた。どんなに冷たく見据えられても葛はどこかで葵を守ろうとしている。そのにじみ出る優しさに葵はいつも泣きだしそうになった。葛は己の存在が影響する領域を心得ていて、その余波が葵にいかぬように冷たくあしらった。そばにいるだけが守るすべではない。明確にはねつけることによって守ることができると葛は知っている。それでも葵、は。
「嫌だ! オレは、本当にお前が好きでお前のそばから離れなくないんだ、傷つけられてもオレはお前のそばにいたいんだ!」
本当の名前さえ明かせないオレを、そんなふうに優しく受け取らないでよ。せめてそばにいるだけの愚鈍さを示させて。たとえ滅んだっていいからお前のそばにいたいと愚直に思わせて。オレの位置なんてどうでもいいんだよ。潤んでにじむ葵の双眸を葛の桜色の爪先が抑えた。目尻を抑える爪は手入れがされている。皮膚を不必要に擦りもしない。葛がふぅわりと微笑んだ。
「お前がお前を要らぬと思うくらいには、俺も俺を要らないと思う」
ひゅうっと葵の喉が鳴った。葛の睫毛は雅に瞬いて白い頬に薄い影を落とした。墨でも引いたように鮮烈に白い皮膚を裂く睫毛や髪の黒さが際立つ。骨が透けるように薄く白い葛の皮膚が。唇だけが紅く照る。
「俺は、俺など要らない」
「――っ駄目だ、駄目ッ! お前が要らないなんて思わないっ生まれもしっかりしているって聞いたのに、オレなんかとは違うんだお前は、必要なんだいらなくなんかないッ」
葛は穏やかに葵を制した。抑えながら緩やかに紅玉の唇は音を紡いだ。
「きっとこれが、好きって言うことなんだと、想う」
言葉さえない葵に葛は穏やかに笑んだ。葛はただ玲瓏とした綺麗さで。冷たくて体温なんか感じさせない、それゆえに美しく。
「俺は馬鹿だから判らないけど、きっとこれは好きって言うことなのだろうと思う。お前の方がそう言うことは判りそうだな、でも俺には判らないからせめてこうして」
葛の白く秀でた額が、葵の額に触れた。コツンと骨が触れるような感触に葵の目が潤んだ。
「とても、嬉しい」
好きだと言えば結ばれるような環境ではない。それは葵も葛も承知している。だからこそこうして。
「受け流せ。いつもそうして、あしらってきたろう…」
葛の声が響く。玲瓏としてこれは何かに似た。あぁ、そうだ。陶器が触れる高い音に似て。りんりんと響く高い、音が。陶器の断面を撫でるような耳障りではなくきぃんと薄い先端が当たるように高い。それはひどく、体に響いて。
「かずら」
涙をあふれさせる葵を葛が抱擁した。それに応えるように葵も腕を回す。好きだと思った。全てを無くしてもきっとオレは葛が好きで、それを後悔したりなんかしない。好きになったことを後悔しない。たとえ嫌われてもオレは、葛を好きになることを止めないし、好きになったことを悔んだりしない。
「すきだよ」
それがすべてだ。
葵の双眸から涙があふれた。葛はシャツが濡れるのも構わずに葵を抱きしめる。葵の喉が痙攣した。泣き声に掠れるのを葛が抱きしめてくる。
繋がれないと知っている。
それでも君が好きだった。
葵は、泣いた。
《了》