お願い言わないで、それでもオレには判るんだ


   言葉にしなくても、君が

 どこかしたたかな性質を秘めた人の流れは絶え間ない喧騒を生んで、靴音や排気音も高く舞い上がる砂埃は薄い煙幕にも似た。経営する写真館の気質と機器の取り扱いの関係で換気はやや悪い。現地で調達できる家具では出入り口を開け放しておくと同時に砂塵まで舞い込む。多少過ごしづらくても商売道具が駄目になっては不味いから住人が我慢をする。夏になれば暑いし冬になれば冷える。常時適温に保つような機器を備えるほど繁盛してはいないから上着の枚数で季節をやり過ごした。
 葵は来客用の長椅子に腰かけたままやや背後に位置する机へ向かう葛を眺めた。来客予定もないし飛び込みのふりも多くないから葛も何も言わない。
「なぁ葛、オレ、お前のこと好きだよ」
葛は表情を崩すことはおろか相槌さえ打たない。さらさらと走るペンの音だけが流暢だ。葛は見た目のままに厳格な筆だ。格式を求める客や見栄として、人目に触れるものは葛が書いた。葵より字が上手いし手ぬかりもないために自然と振り分けが行われた。
「なぁ本当だよ。オレ、葛のことが好きだ」
眉一つ動かない。怜悧に整った顔立ちは端正で、通った鼻梁や白い額が印象的だ。濡れ羽色の黒髪に黒曜石の双眸とは出来すぎでもある。ぬばたまの闇は蠱惑的に葵を誘う。それでいて調子に乗れば容赦なくはねつけられる。手酷く扱われても葵は葛から目線を外せない。見かけなければ気になるし、帰りが遅くなれば心配もする。好きだという好意が生まれれば体が欲しくなる。漠然とした好きが形を帯びるように葛の情報を得ると欲望が膨らんだ。白く照るうなじや釦が外れて覗いた鎖骨や、体つきが気になる。男は割合感情と体としての欲望が直結しやすいからなおさらだ。罵倒覚悟で好意と欲望を告げた葵に、驚くべきことに葛は了承した。
 それでその後に蜜月が待っていたかというとそうでもなく、葵がしたいと申し出ても拒否されることも少なくない。死にそうだと泣きを入れたところで動じる性質ではないから厄介だ。結果として葵は日常的に葛に好きだ好きだと言い、言葉の重みが薄れつつあることに葵自身も気づいている。それでも言わねばあっさりと遠のいてしまいそうで怖いから言う。悪循環である。出口がない。好きだという感情が少なくともゼロではないんだと思うことで保っているがそれもそろそろ辛くなってきた。
「かずら」
流れる指先が止まり、話を聞いてくれるのかと振り返った目の前でページがめくられて筆記が続いた。何事もない葛に葵は目に見えて萎れた。来客もないから鬱憤を晴らすすべさえない。
 肉桂色の双眸が恨めしげに潤んで葛を見つめる。葵の髪や目は色素が抜けていて明るめだ。脱色や染髪はしやすい方であると思うが試したことはない。黒く染めたらと言われたこともあるが断った。手入れの大変さ以上に、葵は己を偽ることを嫌った。ありのままをさらし、それでだめなら構わないと思う。姿を偽らねばならぬ付き合いなどいつか破綻すると葵は思っている。それでいて、現在の在り様はそんな気持ちとは矛盾することも知っている。三好葵という葵の名は仮初めで、経歴や生い立ちなどの立ち入った話は葛としていない。葵と葛の双方が属する本業の性質として、求められたのは迅速さと確実さ、それに及ぶ特殊能力であり、感情的な結びつきは忌避された。むやみに首を突っ込んだり独断での行動は明確に嫌われ、叱責や処罰の対象になった。その流れを汲んで葵と葛は同じ屋根の下で暮らしても人物的な情報はほとんど得ていなかった。だから葵は葛が葵を好きではないとしても仕方がないと思っていたし、好意を告げた際に拒否する理由になることも考えた。
 「構わないって、言ったくせに」
それなのに了解しておいてこの態度では余計に冷淡な気がする。うらみがましい独り言くらい赦されると思う。呟いてすぐにびしっと後頭部を固いものが直撃して葵の目が泳いだ。ころろと転がるのは蓋だ。見れば葛がわざわざインク瓶を必要とする付けペンなど使っている。かえりみるにそれはその瓶の蓋だ。ぶぅっと膨れる葵にも葛は動じない。
「言いたいことがあるなら言えッ」
言葉と同時に身ぶり手ぶりが長椅子の縁や肘掛けを揺らす。葛に変化はなく葵は余計に萎れた。
 ガタリと席を立つと葛が慌ただしく帳面を片づける。不思議に思って足早に駆けよれば隠しきれなかった手元は急ぎでも何でもない。それに普段より震えや乱雑さが目に付いた。葛の筆は気を張っているのが判るほど流麗であるから差異にはすぐさま気付いた。時折集中力が切れたかのように程度の乱高下が激しい。
「葛?」
「…――なッなんでも、ない別に」
付けペンの先から落ちた黒い滴が染みになる。拭おうと反古紙を充てる葛の手を包むように葵が手を乗せた。
「葛、オレ、邪魔だったか」
葵のうなだれた言葉に葛の白い肌がすぐさま桃色に火照った。切れあがった眦の目元が紅い。紅をさしたように色づくそれは珍しい。白皙の美貌が淡く色づいていくのは顕著で驚きと同時に悦びさえ起こす。葛の黒曜石が葵を正面から睨めつけた。
「笑ったような、顔をして!」
葵の口の端は引き結んでいても上を向いているから、笑うなと因縁をつけられる。葛の言葉は明らかに興味の対象を逸らそうとする目的が透けて、葵はますます笑んだ。
「わ、わらうな!」
「はは、ごめん。可愛いや」
凛とした眉筋が震える。葛の怜悧さが少しずつ崩れていく。
「急ぎじゃないのに、熱心だったな」
葵の眼差しに葛は目を伏せる。黒く密な睫毛が見える。葵の手の下から感じられた震えは少しずつ薄まっていく。
 下から見据える葵に葛が恥じるように目を逸らして伏せる。睫毛の震えや引き結んだ紅い唇が見える。手ごわい印象しか残さない眉でさえ雰囲気を和らげる。葛は厳格な分正直だ。駄目なものは駄目というし、その基準も明確に示す。感情を排除しようとするのは過敏でさえあるほどで、公明正大だ。
「…――…ッお前、が! 好きだ、好きだとうるさく…集中なんて、出来ない」
葵の瞳は葛を映し、言葉を待つ。葵はその纏う雰囲気から相談を受けることも多く、聞き上手であると自覚している。話す分だけは聞くという姿勢を崩さない。一方的に言いつけるのは性に合わない。
「ごめん」
「俺は、俺は好きだと言われて」
漆黒が潤んだように震えた。瞬くほどに目淵へ雫が溜まっていく。その潤みは余計に葛の双眸を蠱惑的に揺らがせた。何度も重たげに瞬きながら、睫毛を濡らすばかりで落涙はしない。それは葛の自負にも似て。
「何とも思わないほど、出来てはいない」
「それは出来てるとは思わないけどな、オレは」
葵は苦笑しながら机を回り込む。体の位置の所為で拘束が弛んでも葛は駆けだしたりしなかった。椅子に腰を落としたまま動かない。葵が近づけばされることは判っているのに逃げない。そういう真っ当さは時に葵にも忍耐を強いる。それでも葵は、葛のそういう幼さは嫌いじゃない。握り直した葛の手は温かくて、幼いころを思い出す。手が温かい、といわれる後に必ず眠いかいと問われる。不定期に訪う大人の問いを葵はいつも緊張と疲労による眠気を堪えながら感じた。家を訪う大人の役割は今思えば明白であるのに当時はなんとも思わなかった。無知であったのだと思う。
 「葛を好きなことは嘘じゃない。本当だよ」
反発するように葵は勧善懲悪を好んだし、己の位置や役割も明確にした。その己が今、偽りに身を寄せているのは皮肉でしかない。
「何も言えないし教えられない、でも葛が好きなことだけは本当だよ。でも」
葵の目が眇められた。不意に潤んでいたそれは視界をにじませる。
「葛が嫌だっていうなら、止めるよ」
見開かれていく漆黒に葵は、あぁ死ねる、と思った。この瞳が生きていくために必要ならきっとオレはオレなんか要らないんじゃないかな。反発するように外出を重ねる葵をそれでも受け入れた親の気持ちが少し判るように思った。人を好きになるってきっと、こういうこと。赦せないことがあるけどそれでも、赦せることもある。赦してほしい、受け入れてほしいと思う感情がある。

 「………嫌じゃない」

驚くほど明瞭に響いた声に葵の方がぱちくりと瞬いた。伏せられた黒い睫毛が羞恥に震え、頬や目元、耳さえ紅く火照っている。葵は茫然と言葉を繰り返すことしか出来なかった。
「え、いいの。嫌じゃない?」
「そう言って、いる! 俺は嫌であれば、そう言う…ッ!」
確かに葛は孤立を厭わぬほど明瞭に自己主張をする。通るかどうかは別として葛には己の信念を曲げることを好んだりはしない。厳格である度合いは時に潔癖だと嘲られた。葛の漆黒は葵を射抜いた。
「気付け! 俺は嫌いなやつと寝床を共にする趣味はないッ!」
葵の口元が今度こそ弛んだ。湧き上がる歓喜に口の端や眉根の緊張が弛む。
「軟派な顔をするなッ」
鋭い叱責に葵は素直に謝りながらも笑みを深めた。愛しさや可愛げがこみ上げて堪えられない。今時分、女性でさえ軟派硬派など、と思うのに愛い感じに笑みがこぼれた。住居を全く違う文化圏へ置いた経験のある葵であればなおさらだ。葛は間違いなく頑なで、それは却って魅力的でさえある。
 「可愛いこと言うなぁ」
「馬鹿にしているのかッ」
葛の反応は早く噛みついてくる。打てば響く速さであるのは葛が聡明な証でもある。葵は謝りながら葛を窺い見た。調えられた黒髪は乱れもせずに先端を垂らし皮膚へひと筆の痕跡のように黒く走る。乱してやりたいと思うが乱す前に欲望が発露していつも見ずじまいだ。葛は考え方が潔癖であり、同時にそれは佇まいや服装にも影響した。葛のなりは隙がなく、ほころびも少ない。そのほつれは稀有で同時に愛しい。
「馬鹿になんてしてない。そう言うところも大好きだ。オレはお前の事なら大概、赦せるし好きだと思う。それにオレはオレが拒否してもお前にチャンスを与えてほしいと思う」
桃色に火照る頬に葵は手を這わせた。奥底から温もる熱さに体が融けていくようだと思う。夏場に感じるような湿り気や不快さは微塵もなく、その熱に融けてしまってもいいと思う。
「葛、オレにもチャンスを、頂戴」
震えて瞬き、閉じる黒い睫毛に葵は唇を寄せた。薄い皮膚である目蓋越しに眼球の存在さえ判る。
 葛の個人的な情報は皆無に等しく、それでも構わないと思った。それでいいのだとも思った。葵だってすべてをさらしてはいないのだから己だけ要求するなど筋違いだ。経緯や特殊能力や感情や、そういったものを全てくくって形を成す葛が好きなのだから真実なんてどうでもいいと思う。葛の名前が葛でなくてもいい。偽りでもいいから名前を呼びたい。葵の名だって偽りだ、お互いさまであると思う。それでも葛が、葵の偽りが嫌だと言うならば退こうと思った。
「だめかな」
「っ駄目じゃ、ない駄目じゃ…」
口走ってから気づいたように葛が赤面した。言葉の途切れと同じくして頬が熱を帯びる。
 堪え切れずに抱擁する。今の瞬間のために、オレは葛に嫌いだと言われてもいいからせめて抱き締めさせてほしい。葛がオレを嫌いでもオレが葛を好きなのは本当だから。
「ありがとう、好きだよ」
葛の目蓋が震えたが何も言わなかった。引き締まった紅い唇が固く閉じる。それでも抱きしめる腕から、葛の緊張が融けていくのが判る。強張りが取れて氷解するように体が弛んでいく。人肌の影響力を明確に見せつけられる。同時にそれが嬉しくもある。葛の体へ少しでも影響力があることを葵は喜んだ。誰にも何事にも怯まない葛の体が、己の体温なんかで弛むなんてなんて嬉しいことなのだろう。不慣れに弛む葛の体は控えめだが、時折大胆に身を任せてくる。慣れた手加減を知らない。初々しいようなそれはひどく愛しかった。
「本当に、お前が好きだよ」
葛の評価は今の葵しか見ていなくて。家柄とか血統とか、そういったすべてを失くした葵だけを見ていて、それが。それがひどく。

「嬉しいよ…」

葵の感情の起点を葛は知らず、執拗に追及もしなかった。そういうもの判りの好さは育ちがよいのだろうと思わせる。生まれついた位置に由来する妬みだとかそういうものを葛はきっと知らずに、だからこそ綺麗なんだと思う。葛の容貌は玲瓏と美しく、それは張り詰めた冬の朝のように冷たく綺麗で。温いような体温など感じさせずにいたいほどに冷たく、けれどそれゆえにとても美しい。それは冬の夜空が綺麗である理由のように。
「本当だ。オレはお前が少しでもオレのことを好きでいてくれれば本当にそれだけで」
人に想われるだけで生きて行けると。嬉しくて悲しくて切なくて。葵の閉じた目淵に涙がにじむ。落涙するほどひどくはないが常にあらぬほどに濡れた。冷たい外気に震えるように潤んだ目が瞬く。

 「かずら、おれはおまえがほんとうにすきなんだよ」

白い肌がかっと染まったが葛は手をあげなかった。代わりに葵の頬に手を添えて引き寄せると唇を重ねた。
「お前が誰とでも愛を囁くような奴だと、俺が想うと思っているのかッ」
葵は頬を寄せて目を固く閉じた。内から溢れる涙が頬を伝う感覚さえ判るようで、葵はすべてを堪えた。泣きだしたいほど、葛は葵を抱擁した。抱いているのか抱かれているのかが曖昧なほどに葛の体温は葵を許容した。それはひどく心地よいものだった。人に好かれるという心地よさを葵は久しぶりに体感した。
 震えて開く目蓋さえ知らぬ葛は葵を抱きしめる。その緊張が想いに比例しているようで葵はひどく嬉しかった。縛りつけるほど強く想われるなんて。好きになってもらうというのはとても嬉しいことなの、と穏やかに言う母親が脳裏をかすめた。好きになっても、好いてもらえないなら意味なんてないと言い捨てた幼さが今なら判る。抱きしめてくる葛の体温が融けて、同時に葵の抱擁が葛の緊張を解いていく。言い表すならば、好きだと。それでしか言えずまたそれでしかない。好きな人が見つかれば判るという言葉はようやく葵の中で現実味を帯びた。
「葛、葛が葛でなくてもいい。名前なんかどうでもいい。本当に、葛が好きだよ」
抱きしめながら葵は泣いた。双眸から涙があふれて止まらない。人を好きになるということはこんなにも。
 しゃくりあげて震える葵に葛の体は強張りを解いた。
「…何を泣いている」
「泣いてない」
葵は葛の肩へ顔を伏せた。シャツへ涙が染みてくる。その冷たさに葛は泣けると思った。
「だったら顔をあげて見せろ」
「いやだ」
葛の手は優しく葵の頭や肩を撫でた。葵は明確に泣いていて、それを認めない意地さえも愛しいと思った。
 「葵、俺もお前が、好きだ。嫌いじゃない」
葛の言葉に葵の濡れた目がちろりと上がる。涙で潤みきったそれは愛しい。葵の眼差しに応えるように葛はぎこちなく笑む。それは感情の揺らぎというより不慣れの色が強かった。葛は笑むことに慣れていない。葵と葛の皮膚が触れ合うそこから融けるように思う。体温が行き交って皮膚感覚さえ失せる。触れているだけで交渉しているかのように体温が行き交い、交錯した。好きだと、想った。
「…それ、本当。本当にオレのこと好き? 葛、オレの事」
「お前が急にいなくなったら、戸惑うくらいには俺はお前を好きだ」
葛の戸惑いなど想像できない。葛はいつだって与えられる指令に忠実であり役割もこなす。己の位置さえ考慮しないそれに葵は何度憤ったか知れず、それを動揺してくれるなどとひどく嬉しかった。葵の口元が弛んだ。
「ありがとう。すきだよ」
ただ幼く好きだという。それが精一杯の限界であると互いに知っている。本業の指令が入ればそれこそ攻守厭わず任につかなければならない。その際の対立など上層部は考慮しない。それでも葛が己を殺すことに躊躇してくれたなら嬉しいと思う。殺されてもいい、ためらってくれるなら。それはきっと少しでも考えてくれるということだから。
「葛、好きだよ。本当に本当に。たとえ殺し合うことになってもオレはお前が好きだと思うよ。お前を殺さなきゃいけなくなってもきっとオレはためらうし、好きだと思い続ける。お前がオレを殺しても構わないしオレはお前を殺すかも知れない。それでもお前のことを赦すし好きであると思う。お前がオレを殺しても」
それでもオレはお前を好きだと思っていたいんだ。淡く笑う葵に葛はきつい抱擁で応えた。
「そんなことにならぬように手を打て。お前はどうせ事前準備が得意なのだから」
言い捨てながら葛は葵の好意をどこかで信じている。だからそんなことが言える。それでも葵は、甘ったるいような葛の好意を拒否できない。それが好きであると思う。

 「遅すぎてもいい。好きだというそれは、真実だから」

どちらの言葉であるかさえ定かではない。葵と葛は同じことを囁き唇を重ねた。体温さえどちらのものか判らない。君と一つになれたなら。君と。ただそれだけ。君と同じものでありたく思いながら君を救いたいと思うんだ。ただ君はひどくひどく愛しくて。その世間知らずさや真っ正直さや馬鹿らしさやすべて。すべてが。

お前が好きだと。

葵は唇から端を発する融解を受け入れた。葛の温度で融けていく己がそれでいいのだと思った。君に融かされていく。君にほどかれていく。それがすべてで、いいんだ。

君が好きだから。


《了》

たまらなく君を好きだと、思うから。
補足するな!(滝汗) 
葵×葛をリクエストいただきました!     2010年12月19日UP

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!