知らなくていいことと
知らない方が良かった?
好きより前に終わる恋
葵は元来人懐こくてそれは態度だけではなく仕草や行動にも見える。拒否しない器量を他者にもあると信じて疑わない。一度手ひどく痛めつけてやりたくなる。葛の漆黒が隣で作業する葵の手元を眺める。鼻歌さえ口ずさみながら作業する葵に気後れはない。葛が席を立てばオレもそっちに用があるんだ、と立ち上がり自室へ引っ込もうとすればお茶でも淹れるよと顔を出す。葛が不満を顔に出さぬ性質であると知っていて気付かぬふりをしている感は否めない。多ヶ国語を話すような留学経験さえある葵が機微に疎いわけもなく、婉曲に避ける葛の意図にも気付いているはずで、それなのに葵は幼子よろしく葛の後をとことこついて回る。葛の限界を知っている所為か飛びついてきたり抱きしめたりはいないがそばをちょろちょろされて鬱陶しい。元来の性質であれば関係しないように歴然とある差を葵は知らぬふうに踏み越える。
「鬱陶しいッ」
癇癪を破裂させた葛に葵が一瞬萎れたがすぐに口を開いた。
「腹でも減ってんの?」
葛は帳面を机に叩きつけて椅子を蹴立てて自室へ向かう。運のない日というものは確かにあってそういうときはとことんまで厄がついて回る。折り悪く客足も途絶えて隔離されたような写真館には二人しかいない。外部からの横やりも助力もなく、つまりは雰囲気を区切るようなきっかけさえない。発された重い空気はそのまま残って転換の糸口さえない。葛は手早く机を片づけると後ろも見ずに自室へ引き取った。葵がついてくるかどうかまでは感知しなかった。特殊能力を使って鍵をかけた部屋に閉じこもりたいくらいだが、葛が能力を使えば葵にも手加減をする理由はなくなり悪循環しか生まない。同居の際に双方どちらからともなく諍いに特殊能力を持ちこまぬことを暗黙のうちに了解していた。
靴音も高く階段を上る。募る苛立ちに動作が乱暴になる。ただの威嚇であると判っているのにそれが余計に気を煽る。
「葛」
葵の声は表情が豊かだ。躊躇と気後れがわずかに垣間見えてそれに思わず足を止めてしまう。振り向いた先で葵は笑んだ。それは彼がよく浮かべるような得意げなものでも楽しげなものでもなくただ、詫びたいようなやるせなさが満ちたものであったから葛は余計に目線が外せない。葛の知る情報では葵を倦ませる素因はない。出生に多少の厄介があるらしいとは聞いているが平素から葵はそんなことを気にさせないし当人も気にした素振りさえ見せない。葵は己が抱える負の要素を見せない分、不用意な同調や憐憫は嫌った。訴えぬ分、乞わない。その葵が見せた懸念のように切ないような笑みはどこか癇性的で葛の気を怯ませた。葛も己の経歴のとおりに同情や侮蔑には敏感だ。互いに利害の一致を見せて上手く運んでいるはずだ。それでも葵の眇められた目やわずかに上がる口角は葛の不備を責めているようだ。
「言いたいことがあるなら聞く」
階段の途中から降りも昇りもせず葛は言葉を発した。葵の目蓋が瞬いたがすぐに肉桂色の双眸が見上げてくる。髪も瞳も葵は色素が薄く、それはどこか遠い異国情緒を呼んだ。手を加えずとも色の薄い髪を葵はバサバサ切り落として短髪にしている。襟足はごく短くうなじが照るのを葛は知っている。
「そばにいたら駄目かな」
日が落ちると辺りはすぐさま暗くなる。葵の表情の微細さが見えなくなる。朗らかで人懐こいという評判をとる葵はそのように振舞う。時折見せる憂いのような表情は例外的であるらしくうわささえも聞こえてこない。葵は葛よりよほどうまく装い、それでいて世間と折り合いをつけている。黙り込む葛に葵の肩が落ちた。腰へ手をあてるようにして重心をずらして立つのは葵の常態だ。葛が気を張り詰めているなら葵は気を抜いている。葵が口を開くたびに覗く舌先がちろちろと紅く燃える。
「一緒にいたいんだ。…だめか?」
降りはじめた薄闇で不意に葵の双眸が玉眼のように煌めいた。
「オレが抱かれてもいいから。だから…だめ?」
煌めきは雷のように葛の体を刺し貫く。駄目かと問いながら葵はただ一つの返事しか受け付ける気はない。交渉の立場に関わらず、葵の態度としてしばしばこうした強引さが窺い見えた。我儘を言える葵と命令を享受することを覚えた葛の性質とははからずもうまくかみ合う。
「…理由は」
「訊くなよ、そんな野暮」
葵の口調はすでに砕けている。きしりと段を踏む音がした。そろそろ軒灯や明かりをつけなければ手元さえ危うい。葛は明かりをつけずに階段を上がり自室へ入った。扉は閉めない。枕辺の卓上灯をつけると橙の灯りがぼわりと辺りを舐める。軋む音がして影が入り込む。扉へ体を預けるように立っている葵は酔漢のようでもある。酔っているとしてもその性質の悪さは見れば判る。同時に厄介も孕んだ。
「めぐりあった者同士が同じ屋根の下でしかも寝台まで共有するなんて、まるで夫婦だ」
葵の肩がクックッと揺れる。昼間の朗らかさや恥じらいはない。気後れや躊躇もなく、ここが路地裏の袋小路であるかのように悪態をついて下品な言い回しを好んだ。
「言葉に気をつけろ。比喩であれば何でも許されると思うな」
睨みつけるような葛の黒い双眸に葵はむっと艶めいた唇を尖らせた。それでも葵はすぐに口元を弛めて襟を開きベルトを解いた。部屋へ入り込む目的は寝台へ真っ直ぐに目指してくる。釦を外しベルトを抜き取り留め具を外していく。葵の焼けた皮膚が橙の灯りに艶めかしく照った。葛は驚くほど白いが葵は健康的な色艶を保持している。
「かずら」
葵の手が葛の腕を引く。葵の手は生々しく明かりを吸って色を帯びた。
「オレを、抱いて?」
惹きこまれるように葛は葵を巻き込んで寝台に倒れ込んだ。噛みつくように唇を重ねて舌を絡め吸いあう。葵も応えた。裂くように開くシャツに釦が飛んだ。もどかしく脱ぎ捨てる葛に葵は口の端を吊り上げて笑んだ。二人の境界線がとろけて判らなくなる。触れる皮膚は熱く熱が行き交う。体内であればなおそうだ。好きか嫌いかの睦言はない。好悪に関わらず同居の状態は続くし、確かめても利がない。ことに男性体は性的な働きかけに応えやすく、情は後付けでしかない。さしあたっての手当てを必要とする体である証だ。快感を求めて体をまさぐりあい、肌を撫でて舌を這わせる。それ以上の意味も理由さえもない。
「どこにいくの」
寝台から起き上がった葛の手首を葵の手がとらえた。互いに裸身であり隠すものさえない。毛布さえどこかへ落ちている。乱れた敷布の上で身じろぎながら葵は葛の手首を放さない。
「なぁ、どこに、いくの」
ある程度の戦闘訓練を受けたものとして葛の体の方が葵より仕上がっているだろう。葵の体はまだ細く、厚みもない。長期的な戦闘に耐えられるとは思えない華奢さだ。
「そばに、いて」
葵はどこか危うさがある。位置を決めかねるそれは、路地裏のすれた玄人であったり育ちの良い坊坊であったりした。清濁の間を行き来しながら定住しない。葵の性質は玄人と素人が同居しているように不安定だ。その柔軟さは時に市井へ紛れる際には有効に対応する。葵を多忙にする一因であると思う。それでも慣れたように誘う葵を葛は拒否しきれないのも事実だ。
「葛、お願いだ、そばにいてよ。オレのそばにいて」
葛が良くも悪くも接触を好まぬのと同じくらいに、葵は体温を求めた。自分の領域へ他者が入り込むのも構わない。それを補うように葵は安堵を呼ぶぬくもりを好んだ。侵蝕を赦し同時に蝕む。
「葵」
「かずら、かずら」
葵のしなやかにしなう背が揺れた。肩甲骨のくぼみが虚のように影を生む。葵の体は細くて骨の在り処が判る。育ちの良さは彼がどの階級に属していたかを明確にする。葵は富裕層に属していたに違いない。華奢ななりと同時に倦むこともない、屈託なく動く四肢がそれを裏付ける。その無垢さを葛は知らない。葛は常に上部からの抑えつけの中で生きてきた。抑圧のない世界などなくそれがすべてだ。
葛の手が葵の指を解いた。触れる体は火照ったように熱い。卓上灯の灯りが染みのように散らばる衣服を映しだす。二人の裸身が蠢いた。葵は誓うように真摯に葛の手の甲や指先へ唇を寄せる。それが証であるかのように葵は熱心だ。
「キス一つで誓えるなんてそれは理想だよな。それでもオレはキスにすがりたいのかもしれない」
葛は応えない。一言も漏らさず、それでいて優しく言葉をかけもしない。葵の吐息がふふっと笑った。嬉しいような諦めのようなそれはどこか遠い。
「失くしたくないんだ、もう何も。誰かをなくすなんてもう嫌なんだ。実存かどうかじゃなくて、そばにいるかどうかなんだ。そばにいないならいないのも同じなんだ…だからオレはもう誰のこともなくしたりしたくないんだ」
泣きだしそうな声を絞り出しながら葵は泣かない。落涙さえもせずに葵はただ言葉を紡いでは嘆き、堪える。
「オレはその人の思想の在り処じゃなくて、オレのそばにいてくれるかどうかでしか判断できないよ。どんなに高い思想を持っていてもオレのそばにいてくれないならいないのも同じなんだ。貶めるつもりはないけど、オレにいないに等しい人なんてどうしたらいいかオレは判らない」
葛の喉が震えた。玲瓏な声を紡ぎながら葵に無理を強いると知ってなお、問う。
「ならば」
葛の声が低く響いた。
「お前は誰かにとって急にいなくならぬと、言えるのか」
葵は顔を伏せて泣いた。それが返答だ。葛は黙って葵の髪を梳くように撫でてやる。双方ともに地位の確証など持っていない。互いに吹けば飛ぶような位置だ。己の関わらぬ位置で存続は決定され、関係も持続された。
「いえない。急にいなくならないんて確証はないよ。それでもオレは、オレがいる間はお前にいてほしい」
葵は咽び泣いた。葛の白い指先が葵の髪を梳き、うなじをたどって肩を撫でる。
確証なんてなくて。
それでも私は君がいてくれることをひどく嬉しく、感じる。
「あおい?」
葵は泣きながら葛の手首を放さなかった。
《了》