影響しあう、絶え間のない
優しい世界
じりじりと灼けつく暑さが続いている。葵は窓辺に四肢を放り出して襟を弛めた。潮を含んだこの地に特有の暑さは土地のものでも切りぬけることに手を焼く。不慣れなほどに短くはないが受け入れられるほど長くもない。葵は葛とともに必要であるからこの地に居住しているのだ。
「暑いなー溶けそうじゃないか。さっき通ったら飲み物を扱う露店がさ、品切れだとかほざいててさ」
葵は意味のない世間話を続けた。黙っていると暑いから話しているだけだ。葵と葛の本業は同じ所属だが綿密な連携を求められた次には別々の仕事を任されたりして慣れは生まれようもなかった。そして仕事を与えられる間隔さえも不定期で、不要と判じられればいつまででも放っておかれ、必要であれば目の回る忙しさを迎えることになる。休みがあるなら休んでおかねば身が持たない。我儘も言いたいときに言わねば結局は堪える羽目になる。
「一体何なんだろうな、この暑さ。溶けるよ。水が湯になるよ」
葵は書類でばっさばっさと風を起こす。団扇が懐かしい。しばらく葵の話し声だけがこだまし、蝉のうるさい声がする。葵は胸がすくまで散々に不平を述べたが諫める葛が静かだ。書類を杜撰に扱っても文句さえ言わない。葛は日常生活にさえ手ぬかりなくことを進める所為か、他者のそれにも厳しい目を向ける。その葛が葵の垂れ流しの不平に対して一言もないのはおかしい。
「なぁ、かずら」
机に向かっている葛の頸部の角度がおかしい。なにもしていなくとも汗ばむ陽気の中で葛の肌は蝋のように白い。動いている手はペンを走らせるというより震えているかのようだ。
「かず」
ぐら、と葛の体が傾いだ。葵が窓辺から体を引き剥がすのと同時に葛の体は床へ倒れ込んだ。
「葛ッ」
倒れ込んだ際に打ちつけた個所が痛むのか柳眉をわずかに寄せる。
「か、かずら、葛ッ」
葵は無為に葛の名を呼んだ。まとわりついて暑かった熱気は感じられない。肩を揺すって呼び掛けたいが頭部を打っていたらと思うと手が出せない。中途半端な知識は中途半端な対応になり葵は結局なすすべがない。葵の脳裏は真白に染まる。気ばかり急いて何をしたらいいかが判らない。何かしなくてはいけない、だが何をしたらいいのか判らない。葛の気がつくのを待った方がいいのか、と中腰になったところへ顔を出したのは棗だった。
「…本当にありがとう…」
葛の顔色が少しずつ戻り始めているのを見て葵がその場にしゃがみこんだ。棗は葵から状況を聞き葛の状態を見ててきぱきと指示を飛ばした。普段が物言いの少ない棗であるから発言や行動に信頼が置け、葵は言われるままに動いた。指示は的確で効果はすぐにあらわれた。葛の襟を弛めれば胸部が緩やかに上下して息を助ける。互いに記憶と知識をすり合わせておそらくは軽い熱中症であろうと見当を付けた。ここのところ続く暑気は湿度も高く知らぬうちに体力を削り取った。そう言えば葵の周りでもどこそこの誰誰が暑さにやられてね、という世間話を思い出す。近親者が倒れる経験は葵にはなく動揺と混乱を呼ぶばかりであった。
棗の処置は新たな費用もかけずに家にあるものを使った。よくできるな、と感心する葵に棗は変わらぬ表情のままで、もののない地域に住んでいたからなと短く答えた。棗は症状によっての対処法をいくつか葵に教えてから帰って行った。残った方がいいかと問うた棗に葵は断りを入れたのだ。秘密裏な仕事に従事する立場にいる以上、交友関係を悟られるようなことは避けた方が無難だ。幸い葛の顔色も戻り始め、苦しげに眉を寄せる強張りも消えている。棗も葛を看てから問題はないと判じたのだろう、何度か葵に注意と処置を繰り返して口頭で伝えてから出て行った。棗は出入りの用聞きにしては不自然ではない所要時間で葵と葛の写真館を後にした。棗の背中がちゃんと街路へ消えるのを見てから葵は葛のもとへ戻った。
襟や留め具を弛めて猶予のできた布地が葵の仰ぐ風邪で緩やかに揺れる。白いシャツの襟が掠れたように日の光で日溜まりのように揺れる。葛の細い喉や白い皮膚が見える。不自然に汗のない蝋じみた白さは消えていっそ官能的な白さだ。確かに息づいているように微細に蠢く。
「……もののない地域、か」
葵に冷静さは驚くほどない。それは常からそうだ。日常生活や与えられる仕事に対する態度にさえそれがにじみ、葵自身は気づいても直そうと思ったことはない。だがそれはひどく甘えたものであったことを実感する。葵には葛のように堪えて悟らせなかったり、棗のように冷静な処置を行える技量は自覚できない。予兆があれば訴えたろうし、葛が倒れておろおろするのが精一杯だった。挙句に様子見という名目の放置をしようとしていたのだ。葵の肩がすとんと落ちて目線までがうつむく。情けないと思う。落胤であっても結局は恵まれた位置にいるものの油断が充満していただけだった。生まれに伴わなかった正当性を跳ね返す心算で大雑把に振る舞い、蔓延した油断で葵の化けの皮は一気に剥がれた。結局何も出来ぬ温室育ちだ。生まれが正当でないと拗ねる要素すら与えられている。
「…泣きそうだな」
掠れているが玲瓏とした声に葵がはっと顔を上げた。葛の双眸が弱ったものにありがちな潤みを帯びて葵を見ていた。葵はへへ、と笑ってひらひらと葛を扇ぐ。
「倒れるからびっくりしたぜ。ちょうど棗が来てくれてさ、介抱してくれたんだ。今度土産でも持って行った方がいいかな。でも棗に持っていくと雪菜に流れそうだけどな」
わざと軽妙な語り口でおどける葵を葛の瞳は射抜く。
「手間をかけたな」
「オレよりも棗に言ってやってほしいかな、それ。雪菜にも伝わるだろうしな、あ、桜井さんには出来るだけ黙っておいてくれって頼んだんだ、余計だったかな」
葵が上司の名を挙げる。取捨選択に感情を伴わない性質であるから余計な情報は流さぬ。
「あおい」
葛の白い指先が風を送る葵の手に添えられた。
「ありがとう、すまなかった」
葛は恥じるように伏せた目線のまま言葉を紡いだ。葛は元々口数は多くない。病み上がりであればなお喋る言葉も少ない。それでも懸命に紡がれた言葉は葵の隅々まで行きわたる。葛と葵は同時に気付いた。葵の自覚の方が少し遅かった。ブツンと緊張が切れたように葵の双眸がみるみる濡れて鼻の奥がじんとしびれるように熱かった。唇が震えていることには口元を閉じて引き締めようとした時に気付いた。息を止めるものの何の足しにもならず葵は肩を震わせて落涙した。
「ごめ…かずら、やすん、で」
席を立とうとする葵の腕を思わぬ強い力が掴んで引き寄せた。葛の腕が葵を抱きしめる。目を瞬かせて驚く葵が動けずにいるのを葛の躊躇をにじませた声が窺う。
「…ち、違ったか。抱擁をする習慣がある場所に住んでいたと聞いたからしたんだが」
「…違いはしないけど。いいから、寝てろよ。元気なときにもう一回抱きしめて欲しいなー」
ずずっと洟をすすってへらりと言うと葛はふんと紅い頬でそっぽを向く。血色の戻りだしている皮膚に安堵した。葛を寝かせてから葵はタオルを取りあげた。
「冷たくしてくるよ。寝てろよ、倒れたんだから!」
びっし、と指をさせばさっさと行けと追い払うように手を振られる。それでも消耗があるのか、葛は葵の言う通りに体を横たえた。ふぅと息を吐いて休むのをこっそり確認してから水場へ行った。
機械的に動作を行いながら無力を噛みしめる。普段は気づかず思いもかけない油断が甘えと無力に直結した。同時にそれは葵の自覚さえも打ち据えて揺るがせる。タオルを冷やすために出した水でついでに顔を洗った。溜息をついて、とぼとぼとした足取りで葛のもとへ戻る。それでも部屋に入る前には精一杯の笑顔を繕って明るい声をかける。うるさいと叱られるくらいでちょうどいい。棗から教わった通りにする葵を葛は黙って見ていたが、ゆっくり寝てろ、と出て行きかけるのを引き留める。
「葛?」
「落ちこんでは、いないか」
葛の言葉が葵の体を瞬時に駆け抜ける。ざぁあと皮膚を撫でる感触は鳥肌さえ起こさせる。
「――ない、ぜ。オレは、いつも通りだし」
ただほらちょっと油断したらお前が倒れたから動揺はしてるよ。道化て言うことにさえ葛は騙されてはくれない。真摯な眼差しは葵に心情を吐露させた。葵が隠していることに葛は気づいている。取り繕えばそれだけ無駄だ。葵は心なしか顔をうつむけて目線を伏せた。睫毛さえも震えを帯びる。
「…オレって、もの知らないなって、思った…んだ…」
己を罵倒する言葉ならいくらも思いつく。呑気だった無知だった馬鹿だった。権利ばかり主張する、子供だった。与えられるものにばかり目を向けて果たすべきこともなしていない。義務を果たさぬものに権利を主張する権利はない。ふぅ、と葛が息を吐く微音がした。呆れられたかな、気づくのが遅いって。拳を握って耐えるのを葛が下から覗きこむ。
「何でも承知しているお前など気持ちが悪くて付き合ってられん」
葵の肉桂色の双眸が濡れたまま瞬いた。葛はどさりと楽な体勢になってから漆黒の瞳を向ける。
「俺は何でもしてもらう気はない。誰が相手でもだ。相手の知識や経験を頼るばかりに収まる気はない」
だから今のお前が落ち込む理由はない、俺が倒れたのは俺の落ち度だ。葛はきっぱりと言い切ると、もう用はないと言わんばかりに目を閉じた。
「休ませろ」
葛の言葉にはじかれたように葵がバタバタ出ていく。
「な、なんかあったら遠慮なく声かけろよ。…その、ごめん。でも、ありがとう」
葛からの反応はない。葵は鼻をすすって頬を拭ってからにィッと笑んで出ていく。葛が冷淡なのはいつものことであり、その対応ができると言うことは崩しかけた調子も戻り始めていると言う兆しなのだろう。
不意の落涙は葵の鬱屈を洗い流した。濡れた頬を拭いながらそれがひどく心地よかったことに気付く。抱きしめてくる葛の腕や皮膚に触れた体温は体の弛みと解放を呼んで、快感さえ帯びた。止まらなくなった涙や洟は情けなさを感じたが中途半端な堪えをすべて吐き出させて楽になった。極端な緊張によって爆発的に溜まったエネルギーはすべて溜まることなく発散されている。葛の不調に端を発した一連の出来事は負担もあったが何の利もないわけではなかった。葛を寝かせた部屋の方へ葵が視線を投げる。物音一つしない。疲れているようであったから休んでいるのだろう。葛は気を張って感じさせない性質であるから休ませられるときには休ませておこうと思う。
「…あり、がとう」
葵を打ち据えた世界はそれでもまだ、赦しをくれる
《了》