耐えがたい、痛みだ
意識が灼ける
写真館の屋内がひどく蒸した。潮を含んだ空気は重く四肢に絡み皮膚をべとつかせる。客がいないのをいいことに葛と葵は互いに好き勝手している。窓を開け放つ程度では効果があるのかさえ判らない。それでも一つだけ備えつけられている扇風機が軋むように音を立てて温んだ空気をかきまぜた。葵が苛立たしげに席を立っては座る位置を変える。どこへも落ち着かずしまいに窓の方へ行って襟を開いた。室温と外気に差はあまりなく雑踏の温んだ香りが鼻先をかすめただけだった。葛は変わらぬ態度で割り当て分の作業をこなす。白い皮膚や涼しげな容貌は暑さで崩れることもなく冷たく整っている。
「暑いッ」
ヒステリックな葵の不満が噴出した。葵はバタバタと乱暴にシャツを揺するがジワリと汗をにじませただけだった。暑さの不快による苛立ちは連鎖する。ただの悪循環だ。そうと判っていればなおさら決まり悪く腹立たしい。
「もうちょっと風くらい吹いたって罰は当たらない、そう思わないか。だいたい雨が降っていたのになんで暑いんだ。冬の雨は寒いくらいじゃないか」
葛は何とも答えない。葵も罵って鬱憤を晴らしたいだけなので葛の返答など気にしてしない。バタバタと足音も荒く居住区域へ駆け込んでいく。水流のほとばしる音が聞こえて葛は嘆息した。
案の定、葵は濡れ髪のまま膨れ面で戻ってくる。シャツの襟や首を透明な雫が伝う。きょろりと肉桂色の双眸が葛を睨む。見つめるなどという好意的なものではなくむしろ悪意さえ感じるそれに葛も口元を引き締める。
「葛ちゃんは暑くないんですねェ」
上着こそ脱いでいるが襟の釦をきちんと留めている葛を葵が揶揄した。
「仕事が欲しいならそう言え。外の空気が吸いたいならばそうしろ」
「お前ができるような仕事出来ないぜ、オレ。それと、外の暑さ感じてないのか? この暑さで雑踏なんか歩いたら蒸し鶏だ」
葛の手の中で筆記具が軋んだ。震える柳眉を何とか抑えこんだ漆黒の双眸は堪えきれない苛立ちを窺わせた。書きつける手を止めた葛の顔は葵の態度を責めた。
無言で睨みつけられた葵がびくんと怯んだがすぐにふんと鼻を鳴らした。睥睨程度でおとなしくなるほど葵は素直ではない。葵への対応にようやく腰を据えた葛を葵は馬鹿にしたように見る。
「さっきから何なんだ」
葵は基本的に明朗であるから冷淡に対応しきれぬ感がある。人が好いので侮蔑や冷笑といったたぐいも苦手にしている。葛の態度の方が余程冷淡だ。馬鹿にしたような眼差しはすぐに消えて唇を一文字に引き結ぶ。それは不快というより決まり悪いという照れだ。
「…別に」
「そうか。今日はひどく暑いからな。何度も何度も座る位置を変えては頭から水を浴びるのを少なくとも三回は繰り返す。当然だな」
つらつらと論う葛の声は冷静で、それが余計に血の上った頭を冷やしていく。針のむしろだ。葛の言葉の一語一語がちくちくと葵の皮膚を刺した。したり顔で頷いて仕事に戻ろうとする葛に葵がついに音をあげた。
「あぁもう判ったよオレが悪かったオレが全面的に悪いです!」
うわーん! とその場にしゃがみこんで丸まろうとする葵を葛が小突いた。
「邪魔だ」
「うゥッ冷たい…」
ぱちりと大きな双眸が過剰に潤んだ。
葛は取り合わない。言わぬなら聞かぬとばかりに机に向かう肩口に葵の恨めしげな視線が刺さる。筆記具を握り直すものの葵の眼差しは執拗に葛の手元を追う。見られていると意識した程度で動作に変化はないが据わりが悪い。今出来なかった分は後へ回すことにして葵に向き合った。案の定葵は丸まりながら葛やその手元をじっと眺めていた。のびやかな性質のままの四肢を折り曲げているのは窮屈そうだ。膝の上へ顎を乗せた格好は拗ねて唇を尖らせた子供のようでもある。葵の唇は健康的に紅く、しっかりとしたものだ。くるくる変わる表情やのびやかに表現する四肢の動きなど、葵に抑制や抑圧といった言葉は見つからず似合いもしない。肉桂色の短髪から滴が散った。先刻浴びてきたのだろう水滴がきらきらと煌めく。
「話がしたいならそう言え」
何を考えている、と詰問口調になる葛に葵は微笑した。困っているのか憐れんでいるのかあいまった笑みだ。混じりあったそれはそれでしかないのに分離できない。快活な葵は時折その明るさゆえに底を浅く見積もられることがある。それを覆すだけの笑みを葵は有している。
「記憶ってさ。感情、とかでもいいけど」
葵の目線が茫洋と前方に据えられる。色素の抜けた薄い色合いは瞳孔が明瞭に見える。猫の目のように収縮をする動きが見えた。
「思考を読むことができるってことはさ」
そういう能力の少女がいる。声に出さぬ思念を読み取り話しかける手段をとれる能力の。
「書き換えることとか、出来る奴は…いるん、だろうな」
葵の双眸は憂いに濡れた。酷く不安げに揺らめくそれは泣き出す直前の子供のそれに似ている。
「もし、そういう思考とか記憶とか書きかえられちゃったら、どうなるんだろう」
葵の言いたいことがおぼろげに浮かぶ。葛はそれをあえて見つめてはこなかった。想定したところで太刀打ちできぬし、そういった類の能力は術者が使った時点で相手に対抗するすべはない。葛は無駄だと判じながらそれを口には出せなかった。葛や葵の特殊能力は強力だが同時に両刃の刃でもある。己が使えるという時点でどこかの誰かが使えぬわけもない。二人とも己をそこまで特別視していない。
「オレじゃなくなっちゃうのかな」
「知らん」
儚いような葵の声は聞くに耐えない。こうした薄暗い思考の泥濘に浸かるのは葛の役割であって、明朗快活な葵が不用意に嵌まる性質のものではない。憤りながらそれが理不尽で独断であると葛は知っている。
「だって、嫌なんだ」
駄々をこねる子供のように葵は繰り返す。
「オレは忘れたりするのなんか嫌なんだ。オレはッ」
肉桂色の双眸は過剰な潤みを帯びながら葛を不意に見据えた。予感のないそれは深く葛の喉元を抉る。
「オレはオレを忘れたお前が笑うのなんて、嫌なんだ!」
葵の頬がみるみる火照って赤らんでいく。
「オレは、お前の中にいるオレが消えるなんて嫌だ」
過剰な潤みを湛えた瞳が水面の様だ。紅い唇が不服と照れにとがっていく。嫌なんだ、嫌だ、と繰り返す。
せっかくお前の中に入れたのに
葵の唇が音もなく言葉を紡ぐ。引き結ばれた唇は葵の稚気と甘さを露呈する。
「…我儘だろう、それは」
「でも嫌だ。お前の中のオレが消えたら、オレは」
「俺がお前を忘れて笑うなら、お前も俺を忘れて笑えばいい」
「嫌だッ絶対嫌だッ」
がんとした強い拒否に葛の目が瞬いた。
与えられた痛みに葵の目が潤んでいる。小振りな頤や細い首が続くなだらかな線が見える。素直な性質のようにすんなり伸びた葵の首は案外細い。鎖骨やそのくぼみの陰りさえ見える。
「忘れない。オレは絶対忘れない」
忘れたくないという希望でさえない。断言である。書き換えられると案じていた同人の台詞とは思えない。だがそうした些細な矛盾を孕む稚気さえ葵の性質というくくりでは収まってしまう。
「オレは絶対にお前のことは忘れないッ」
強い断言はすがりついていることを裏に孕む。何度も繰り返すのは、繰り返すことによる補強や強調を求めているからだ。確かな証が欲しくて問うのだ。
「オレはッ」
「言うな」
葛の腰が浮く。しゃがんでいる葵に合わせるように膝をついてそのまま抱き寄せると口付けた。舌を潜り込ませる動きさえ葵は拒否しない。
「オレは、お前を忘れたりなんかしたくない。そんなのは嫌なんだ…」
熱く濡れた吐息が満ちる。葛は許容も拒否もしない。希わないし命令もしない。
「…甘ったれだな」
「悪かったなぁッ」
葵の双眸は濡れ光る。つやつやとしたそれは鉱石のように無垢で宝石のように艶やかだ。葵の双眸に貫かれながら葛は葵の肩を押して床へ縫いとめる。脚の間へ体を滑り込ませながら微笑みさえしない。葵も殊更に求めなかった。感情は求めない。暗黙のルールだった。葵の発露は明らかな失態だ。けれどそれさえも受け入れられるほど葛は葵を許容した。
夢が見たかったんです。
私がいなくなっても私のことを考えてくれる人がいてくれたらいいと思ったのです。
心得ているつもりです。
私が消えたならあなたの中の私も消えるのです。
消えてしまう私という存在を、私は。
それはひどく辛いことで痛くて痛くてけれどその痛みこそが私の理由です。
《了》