心地よい火照り


   熱を帯びた帰路

 機材を詰めた鞄が重い。白く乾燥して照る街路に時折洗濯物の影が落ちる。雨後の過暑は蒸し暑く、肌に絡みつく風は潮を含んだようにべとついた。絶え間ない人いきれに息が詰まる。一度でも足を止めたら歩きだす踏ん切りさえ覚束ない。むやみに歩く葛の後ろからついてくる葵は遠慮もせずに文句を並べ立てた。彼も手荷物を持っていて時折重たそうに揺すった。写真館に訪う客ばかりではなく乞われれば機材を抱えて出張もする。大口の顧客であればなおさらそういう融通が将来に影響した。葵も葛も本業は別にあるので熱心ではないが塒がつぶれて街路を彷徨う有様になっては困るので我慢をする。
「暑いな。少し前までは梅雨かと思うほどの雨だったのに何なんだこの暑さ。しかもどうして二人揃って出かけるんだ。あの程度なら一人で済むんじゃないか」
葛は返事をしない。そもそも葵は話すことが好きでそれを発散の手段にしている節があるから葛の返答自体はさほど重要ではない。げんに葵は葛の返事など待たずに次々と文句を垂れ流す。荷物を抱え直す軋み音が時折呼吸のように葵の声の狭間に聞こえる。葛は耳だけは傾けながらそれ以上の積極性は見せずに歩いた。歩く速さを緩めて葵を待ったりしない。葵が街路で姿をくらましても困らぬように荷物は振り分けた。
 雑踏のざわめきは意識を滑る微音として馴染む。不意に聞こえなくなった葵の声に足を止めて振り向く。案の定いない。嘆息すると荷物が殊更に重く感じられた。葵の奔放さは彼の個性であってそれは葛には望めない。型どおりにしか動けぬ己が矮小に見えるときがある。負荷と同時に利益さえ忌避している気がした。雑踏のざわめきに身を委ねて茫然と立っていると人の流れに押される。流れがうねり、葛の体は徐々に隅へ追いやられしまいには流れからはじき出される。発展にわくこの都市は土地独特の厚かましさとあいまって貪欲に変化を続けている。小狡く計算高い性質が垣間見える。雑踏で呆けていても詮無い。塒へ帰ろうと壁から背中をはがしたところで朗らかな声がかけられた。
「いた! 葛、こっち」
機材の音を立てて人ごみをかき分ける葵の姿はこの土地に馴染んで見える。厚かましいのか人懐こいのか判断しづらい。
 「…買い食いか」
葵の手には剥き出しの果物があり、荷物が紙袋一つ増えている。
「喉が渇いたんだ。綺麗だろ、ほら」
パクリと口を開けた割れ目から紅玉がぎっしり詰まっているのが見える。甘酸っぱいその味は知っている。口の中にじわりと潤みが生まれた。
「柘榴は嫌いか? だったらマンゴスチンとか。探せばあるもんだな」
紙袋をがさごそ言わせる葵を止める。二人して人の流れの端にいる。壁に背を張りつけるようにしてもなおまだ人いきれは熱く、無節操な性質をあらわにする。露店の軒はそういう潜在的な罪悪感を感じていないかのように堂々と居座っている。流れが狭まれば密度は上がり、解放の時の熱量もそれなりになる。店を通り過ぎた時に膨らむ人の流れは冬でも熱い。
 その熱量にあてられてじりじり後ずさる葛と違って葵は何とも思わぬらしく動かない。平気な顔で柘榴の割れ目に指を突っ込んでは紅玉の様な粒を取り出して口へ放りこんでいる。人の流れに気を取られていた葛の手が不意に引っ張られる。鞄をひっつかむのが咄嗟に出来たことでそれだけだ。引っ張られるままに他家の玄関先や庭先を抜け、狭い路地を導かれていく。河とも海ともつかない濁りを浮かべる岸の縁を歩くそれはまるで猫だ。洗濯もののはためきさえない路地裏は街路の日照りが嘘のように湿って暗い。それでも気温の上昇だけは免れていないらしく、蒸し暑い。動かずとも皮膚に汗がにじんだ。
「葵?」
葵は荷物を下ろすと壁際に葛を追い詰める。二人の位置取りについて葛が警戒を怠ったのは明白だった。
「葛…シたい。しようぜ?」
葛の柳眉が跳ねる。葵とは交渉も含んだ関係であることは承知しているが行為の決定権は葵だけが有してはいない。
「渇いてるんだ。すごく。お前が欲しい」
気温の高さは意識の弛みでさえも引き上げて葛を投げやりにさせた。塒に戻ったところで涼しさが待っているわけでもない。寝床で持つ交渉と変わらぬ不快さをこの気温は感じさせるだろう。葛も荷物を下ろした。それが返事だ。葵は満足げに口元を弛めて笑んだ。
 ゴトンと重みのある音がする。目線を投げれば支えを失った柘榴が紙袋の上を転がった。衝撃で破裂した粒の水分がにじんで紙袋に染みを残す。葵の唇は葛の唇と喉を丹念になぞる。きちんと締めていたタイが緩められて釦を外されていく。あらわになる肌が気温の高さにつられて紅い。外的な要因とはいえ酷暑は否応なしに体温を上げる。その性質が変更されても関係なく体温は上がっていく。にじんだ汗が互いの皮膚をつないで火照りを帯びる。葵のしている腕時計の盤面がちかちかと反射して葛の白い皮膚の上に雪白の影を投げる。ぼんやりと気怠げなそれは葛の警戒を解いていく。
「…ぁ…」
胸を撫でたりつまんだりしていた葵の指先が下腹部へ下りる。器官を掌握されて思わず声が漏れる。暑さと仕事に忙殺された体は熱の発散を行っておらず、訪れた機会を体は逃しはしない。飛びつくように反応をする葛に葵は口元を吊り上げる。葵の指先は闊達な性質を示すかのようにしなやかだ。その柔軟さはおとなしくもなく時折牙をむいた。
 葵の指先は葛の体を好き放題に扱う。無垢なほどの残酷さと横暴でもって葛の体温を上げて交渉への準備を整えていく。葛の髪が乱れて額にはらりと前髪が散る。葛の指先は葵の肉桂色の髪を乱した。瞳孔が明瞭に見えるほど葵の色素は抜けている。葛の体がびくりと震えた。瞳孔をさらすほどにあけすけかと思えば同等の公開を望む葵に引け目はない。葵の眼差しは己をさらし、同時に葛の側さえ裸にしていく。強い力を帯びたそれには能力をもってしても逃げられないような気になった。肉体をその場から動かしたとしてそれはその場限りの逃避でしかない。葵の眼差しは執拗だ。相手が手段を選ばないとなれば抑制は利かない。葛が特殊能力を使えば葵も同じ手を使ってくる。なりふり構わぬ攻防は見苦しく痛手も残る。暗黙の了解として拒否権は互いが有した。それでもその拒否権はけして立場の優位を裏付けたりはしない。葛は葵の指先に促されるままに何度も喉を喘がせた。
 火照りを帯びた皮膚は境界が曖昧になって膨張した。際限なく広がっていく感覚を葵の熱源が押しとどめる。空気にとろけていくそれを異質な葵の存在がつなぎとめた。繰り返される抱擁はしだいに濡れ音を伴った。葵の皮膚も日に晒されて熱を帯びている。けれどのその暑さはけして葛と同化せず、異質なものとしていつまでも残る。葛の側がただ無意味にとろけた。葛は葵に屈服したかのように感覚を開放しているが葵のそれは確固たる形を保ったままだ。
「く、ぅあ…ぁ、あぁ」
葛の喉から喘ぎが溢れた。葵の器官が葛の体内で融ける。境界を失くした熱源は侵食を繰り返して主導権さえ奪っていく。
「ふぁッぁ、あぁ、ああ」
がくがくと葛の膝が笑う。自重を支えきれないそれに葵の腕が回される。同時に奥深くまで犯されて葛の背がびくびくと仰け反った。反りかえる動きのままに散る珠はにじんだ涙だ。目淵で堪えていた涙が体の動きに合わせるかのように飛び散った。葵はこと、交渉に関しては手ぬかりなくことを進めた。下準備も怠らないしきちんと小道具も用意する。同性同士の交渉は負担がどうしても生じる。それを軽減しようとする葵の気遣いは葛にとってはありがたいものだ。本業が唐突と機密や確実性を有する種類であるから、まさか交渉の負荷で使い物になりませんとは言えぬ。互いの将来のために手間暇を惜しむわけにはいかない。
「ん、ん、んゥッく…ふぅう…ッ」
葵の器官は手加減なしに葛を突き上げる。臓腑を突き上げられてこみ上げる澱を吐きそうになる。噎せるように不規則な震えを帯びる呼気が何度も葛の喉を枯渇させる。喘ぐように唇を開けば葵のそれがふさいでくる。潜り込んでくる舌の潤みに葛は飛び付いた。
 火照りを帯びた皮膚を葵の指先は何度も撫でた。あらわにした胸や腹を撫でては満足げに笑う。緊張を強いる本業を抱えているからか、葵と葛はともに弛みのない体つきをしている。まして葛は経歴をかえりみれば緩みなど生まれようもない経過を経ている。それは同時に女性的な柔らかささえ排除する。
「やっぱり好きだな、お前の体」
ぐぅと下腹部を押されて葛が嘔吐くと葵は酷薄に笑んだ。明朗とした彼の性質からは見えない強かさに葛が笑んだ。交渉は互いの秘された面さえさらす。葵は己をさらす分、相手の開示を要求するきらいがある。逆に葛は相手の開示を求めない分、己をさらすこともない。
「葛」
葛は続きを求めない。葵は語りたいから声をかけるのだ。
「お前が、好きだな」
返事をしない。葵は気にもせずに続きを語った。
「好きだよ。好きだ。冷たいと思うけどそういうお前が好きだ」
葵の声は心地よく葛の耳朶を打つ。屈託のない性質があらわな声は朗らかに明るい。無邪気なそれは相手の受け入れを無条件に信じている。なんの確証もなく無謀なそれは稚気のようで愛らしい。先々を案じない葵の性質に通じるそれは、その無謀さと比例するように無邪気で愛くるしい。
「馬鹿。続けろ」
目蓋を閉じて謳うようにつぶやく葛に葵は笑みを漏らした。


《了》

裏にいかせるつもりだったけど行かなかった!(お待ち)               06/21/2010UP

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