どうにもできない
困ったことにそれがオレの本当だ
弛みきった気配に葛の柳眉が跳ねた。不得手な外回りを終えて戻ってきた葛にその弛みは不快でしかない。それでも感情の矛先を外へ向けるほど幼稚にもなれず、腹に重たいものが溜まるのを感じながら扉をあける。無人の受け付けに目が瞬く。ある程度の訓練を受けたものとして多少気配は読めるつもりだ。窓硝子の閉め切られたそこは外気の上昇につられるように蒸した。扇風機の動作を確認しながら暗室を確かめる。受付にいないならと思った暗室は空で現像を終えた写真がひらひらと乾燥していた。画像を落ち着ける段階は終わっているようで乾燥待ちだけのそれに少し安堵した。念入りに扉を閉めて振りかえるそこで初めて視界に入った場所にそれが転がっていた。
「…葵」
長椅子の上に行儀悪く寝そべっている。背もたれに引っかかった腕にされている時計の盤面が煌めく。葛の声など知らぬげな葵に苛立ちもあらわに近寄る。寝ている。言葉も出ない葛の目の前で葵はむにゃむにゃ唸って眠っている。懸念の空振りに安堵しながら怒りがわいた。そのまま眠って腹でも冷やして難渋すればいと思う。腹いせだ。それでも葛は葵を起こさぬように物音をひそめて事務作業を開始した。
書付や帳面を繰るかすかな音が満ちた。客足も途絶えて葛の仕事は次第に減っていく。予約の訪問もなければ唐突が常である本業の連絡もない。不意に訪れた安息に久々に羽を伸ばす。ひと段落した作業に帳面を閉じて筆立てへ筆記具を戻す。葛が立ち上がっても葵は目を開けない。葛は長椅子の脚を蹴りつける心算で歩み寄った。規則正しい寝息に葵の胸部が上下した。緩められた襟から覗く喉はのびやかな彼の性質の様におおらかだ。
「葵」
かける声は小さく肩さえも揺すらないそれに返事があるわけもない。膝をついて屈むと目線が下りて葵の頤が見えた。形の良いそれは葵の評価を損ないなどしない。こうして眺めてみれば葵は整った造作をしていて見栄えがいい。闊達な性質を示すように息づく皮膚は適度に焼けて見苦しくもない。血の通ったぬくもりが目に見えるようだ。強い力を帯びる眼差しは目蓋の奥に潜んでいるが、頑固さを有することは凛とした眉筋から知れる。伸ばした指先が葵の目蓋に触れる。どんなに頑強に見えても眼球は柔らかく、認識との差異にたじろぐ。思いのほか柔らかい感触にびくりと震えてはじかれたように引っ込める。微細な動作音を立てる扇風機が軋んだ。
「んン」
葵の目蓋がぴくぴくと震える。茶褐色の睫毛の奥から覗く双眸はトロンと葛を見つめた。見据えられた葛は却って気が落ち付いていつも通りの辛辣さを吐いた。
「眠るなら自室に引き取るなり引き継ぎをするなりしろ。こんなところで眠って」
目覚めたなら用はないのだと言い訳して立ち上がる葛の首に葵の腕が絡みついた。そのまま長椅子に引き寄せられる。背もたれに額をぶつけそうになるのを何とか回避する。不服を述べようとして開いた唇から温く濡れたものが潜り込む。
避けようと思えば避けられた口付けを葛はあえて拒否しなかった。ついばむように繰り返し食む葵の唇は柔く、仔犬の甘噛にも似ている。口付けはすぐに終わり、葵の頭部は肘かけに不自然な姿勢で落ち着いてしまう。葛の指先が葵のタイを解き、釦を外す。喉から胸部へのなだらかな湾曲は彼の健康な体つきをあらわにする。規則正しい呼吸に上下し、息づく艶めかしさで皮膚は蠢く。肉桂色をした葵の短髪を葛の指先が乱した。蒸された室内の気温は上がるばかりだ。扇風機はただ流れを生むだけでその流れは冷えてくれたりはしない。手の平を這わせれば葵の鼓動が響く。屈託ない葵の体は隠しごともなく全てをさらす。汗ばんだ皮膚は葛の手の平にしっとりと馴染んで同化する。
「葵」
葛の手が襟を掴んでがくんと揺さぶる。ごちんと音がして直後に葵の口から悲鳴が漏れた。
「いって…!」
目の奥でかるく火花が散っている葵の唇を奪う。葵は眼前に見える葛の顔に息を呑み、葛は閉じようとする唇を強引にこじ開けた。喉を締めれば喘ぐように口は開く。忙しない呼吸に開きっぱなしになるのを狙う。
「待ッ…は…!」
忙しない葵の呼吸は胸部ではなく肩を揺らした。葛が手を這わせている胸部は嘘の様に鎮まり返り、にじんだ汗が冷えていく。
「んゥッ」
びくびくと葵の体が震え、葛の口元が笑う。桜色の爪先がわざとらしく離れた。つねられて紅く腫れた皮膚が熱を帯びる。
「痛い…」
「それは、悪かった」
葛の朱唇が葵の唇を食んだ。逃げ場もなくその熱りに慣らされた頃に離れていく。慌ただしく息をつく葵に葛は笑んだ。
「わざとだろ」
「知らんな」
葛の手がバリッと音を立てて葵のシャツを肌蹴させていく。飛び散る釦の軌道を目で追いながら葵は情けなくなった。葛との関係に支障をきたすような不手際はしていないつもりだ。それでも迷惑をかけていないと言いきれぬところが情けない。葛は肌蹴させた襟を開いて唇を這わせる。葛の唇ははばかるような場所ばかり暴いていく。葵の呼吸が忙しないのは口付けの所為ばかりとも言えなくなってきた。
「ま…てッ、待て!」
葛の手が止まる。そういう正直さは嫌いではなく、嫌いでないことは事態を複雑にする。
「頭痛い」
「ならば寝ていろ。俺は好きにする」
返す言葉もない。打ちつけた場所が痛いのは事実だが、葛の好き勝手が葵にとって不利益ばかりではないのも頭が痛いところだ。葛の冷淡は氷のように冷たく、けれどその零下が心地いい。人肌に温もったあてどない塊ではなく、葵の体は明確に領域を分ける冷たさに快さの重きを置いた。葛の指先は冷水に浸していたかのように冷たい。それでいて潤みは損なわれておらず、葵の皮膚としっとり馴染んだ。
「好きにするってなぁ」
葛は本当に好きにした。葵の喉笛を舐り、唇を這わせながら指先を滑り込ませてくる。葵だって不感症ではないから動揺する。その揺らぎさえ知っていると言わんばかりに葛の口の端はつり上がる。
「人の前で眠りこけて店番も出来ない奴に言うことはないだろう」
葛は普段の物言いが冷徹であればなお含んだ刺が発揮する威力には限りがない。事実、葵は反論する言葉さえなく黙りこむしかない。
「だから好きに寝ていろと言っている」
「無理言うなよ」
葛の動作はけして動揺なしに見過ごせる類いではない。葛の指先は葵の体温を上げて体を好きにあしらう。葛の思うままに葵の体は跳ねたりすくんだりするだけだ。その強制はどこまでも友好の範囲内だ。
「嫌ならば」
「嫌じゃない嫌じゃない、か、ら…――」
咄嗟に止めてから葵はその言葉の意味を知った。かァぁッと顔が赤らむのを止められない。葛は己の行動を明確に示し、葵はそれを嫌ではないと、言った。
葛がふぅと笑いを漏らす。隅々まで行き届いている葛の綻びは珍しく葵は呆気に取られながらも見惚れた。黒曜石のように艶めく双眸は笑いに潤んでいる。
「馬鹿だな」
「…言うなって。判ってるよ」
葵は己のしくじりくらい気付いている。それが判っているから葛も笑いを堪えない。噴き出して笑うのを葵が苦々しげに見る。ひとしきり笑ったところで葛がゆっくり葵の皮膚を撫でる。
「退くのが嫌だと乞われれば、退くわけにはいかんな」
「うるせぇちくしょう」
葛の朱唇は照るように艶めいて黒曜石のような双眸は欲に潤んだ。葛が店番に立てば、間違いを詫びる一見が奇妙に増えた。その流れのままに写真を頼む者の目線はたいていカメラではなく葛に据えられていることを葵は知っている。
「お前が店番に立てばいいだろう、期待外れの眼差しはもう飽きた」
「知らん事だな。俺の所為ではない」
葵がぐぅと黙る。確かに葛の預かり知らぬところでことは起きているのだ。葛のなりに責任があるのだという話になれば世の中は立ち行かなくなる。葛のなりは控えめで殊更に強調したりもしない。
「だからお前が嫌ならば退くと言っている。ほら」
葛の指先は流麗に動いてベルトを解いた。するりと滑り込む柳のような細い指先の艶めく白さに葵は慌てた。
「なっ、ばッ…待ッ――」
言葉にさえならない制止に葛が笑う。バタバタ暴れる脚を葛は簡単に抑え込む。長椅子という不自由を感じさせない葛の動きはそこがどこであるかさえ忘れさせる。ガツンと四肢をぶつけてからその痛みに葵は場所を思い知る。
「いてぇ…」
「馬鹿、暴れるからだ」
葛の膝がグイと葵の脚の間を押す。
「ひッ」
「そんなふうに泣かれると続きが出来ない」
たじろぐ葵を見越したかのような葛の物言いに、葵も後へは退けない。うぅと唸って言葉を濁した。それでも活発な性質を示す双眸が潤む。目まぐるしく色を変える表情に準じるように葵の双眸は雄弁だ。
「だから、泣くなと言っているだろう。案外うぶだな」
うぶ、などと砕けた物言いに葵の方が呆気にとられた。だがすぐに言われた意味合いを理解してふんとそっぽを向く。堅実が体をもったような葛にうぶなどと言われては立つ瀬がない。
「うるさい、お前にうぶとか言われたくないな」
「事実だろう」
葛の唇がそっと葵の目淵を撫でる。浮かんでいた涙を舌先がさらっていく。びりりと染みる痛みで新たに涙があふれた。葛が眉を寄せる。怒っているのか困っているのか判別がつかない。
「泣くなと言っている」
「黙れったら」
葵は自分から葛に唇を寄せると、朱唇を吸った。葛の指先は絶えない流れで葵の皮膚を這う。奥底へ入り込むそれに身震いしながら葵は笑んだ。葛の低い体温は葵にとって快感だった。
《了》