雨の余韻
気怠い滴
窓硝子を伝う雨粒の流れを無為に追う。不穏な湿りを帯びた空気が流れて間もなく、叩きつけるような強い雨が降り出した。降ってくる雨の中を走り抜けて切り抜けるものが見当たらないほど、その滴は強く打ちつけた。葛は事務作業を終わらせる方向で進めた。写真館という身なりを最も気にする場所へ、悪天候の中駆けつけるものはいない。もとより客が引っ切り無しに訪れるような流行りというわけでもないからなおさらに客足は遠のいた。淡々と作業を進めながら何とはなしに時計を見る。何度か繰り返すその動作に気付いた葛は眉を寄せた。作業が終われば自室へ引き取るだけの身軽さゆえに時計を気にする意味が判らない。それでもしばらく手を止めて考えを巡らせる。
「…葵」
先頃に急な用事で飛び出したきりだ。共同経営者とは思えぬ身軽さで飛び回る彼は空を見て用事は自分が片付けると言いだした。葵は葛より余程愛想もよいし親しみやすい性質であるから客あしらいはたいてい彼が担った。近所づきあいに含まれるようなわずかな手間程度なら彼がこなす。形も性質も厳格である葛はわりあい格式を求める性質の客を請け負う。写真館は職種上、記念日に同席することも多く記念日に厳格でありたがるものは意外といる。
葛の目の前で雨粒はばらばらと楽器のように鳴り響く。吹き込む雨に商売道具である場所を汚されてもかなわないので窓硝子は閉めている。本腰を入れるわけにはいかない事情が二人にはあり、その分売り上げも減少する。潰れて住処がなくなるような憂き目を避けるだけなので、財政は常に潤沢とはいかない。ひとつだけある扇風機は熱く淀んだ空気を引っ掻きまわすだけで新鮮な風を起こすというわけにもいかない。じとりとまとわりつくような湿りはきちんと留めた襟の中で蒸す。客足は完全に途絶え、写真館は開店休業もいいところだ。嘆息して葛は一番上の釦を一つ外した。飽和した熱が捌け口を見つけて溢れだす。力の抜ける肩に促されるようにして吐息が漏れた。決まりごとの様に時計を見る。
本職の仕事は前触れなく入ることも多く、葛も葵も互いに連絡なしに外泊を繰り返す。葵は人懐っこく要領も良いから雨宿りと称して軒先でも借りているのかもしれないと思う。飛び出した先から帰ってくる葵が空手であることは案外少なく、何かしらの土産を携えてくる。それはちょっとした間食であったり小間物であったりした。女物の髪飾りを携えて戻った葵がそれを葛につけようとした時には容赦なく平手を見舞った。しょげた葵がなんだか叱られた仔犬のようで、葛はなんのいわれもなく罪悪感を感じてしまった。あの髪飾りはどうしたろうと柄にもなく階上の自室を振り向いているとがらんがらんと扉が乱暴に開かれる。
「ひゃあー、すごい雨だな」
ぴらぴらと降る指先から滴が走り、飛び込んできた葵が犬のようにぶるぶると水滴を振り払う。肉桂色の髪が雨滴を含んで栗色に重みを増している。上着の裾を絞り始める葵に葛は眉を寄せて口元を引き締める。
「そこで絞るな。部屋で着替えるなり風呂に入るなり――」
葵の目が葛を凝視する。パチリと開いて元気のよい眼差しがじっと見つめてくる。彼の賢しさの象徴のようにくるくる表情を変える双眸は雄弁な彼の口以上に働く。小首を傾げてからポンと手を打つ。
「珍しいな、お前が」
「…俺が、なんだ」
ぼたぼた滴る滴が床に染みを作っている。髪の先から伝う流れは彼のシャツを透けさせるほどであるから早く拭かなくてはと葛だけが焦る。当の葵はにやにやと性質の良くない笑みを浮かべてしきりに頷いた。
「拭くものを持って」
椅子から立ち上がる葛が背を向ける、刹那にぎゅうと熱いものがかぶさった。濡れた腕が葛の目の前をかすめ、しっとりとした重みが背に触れる。首に絡みつく腕は中のシャツまで湿って重い。言葉もなく立ち尽くす葛の耳朶を葵の熱っぽい息が打った。
「釦。仕事中に外すなんて珍しいな。喉が見える。もう一個外す気はない?」
指先がぷつっと釦を外す。撫でられる喉元と緩められるタイに葛の体が熱くなった。振りほどこうとする動きさえ読んだように葵はしがみついてくる。
「離せ。濡れる」
「それだけ? もうちょっと色気があってもいいだろ」
「離れろと言っている」
葛の黒曜石のような目が後ろからかぶさる葵を睨む。葵も慣れたように受け流して無視する。葛の腕がすっと上がると動きを豹変させて肘鉄を葵の脇腹へ見舞った。どふっと不穏な音をさせて響く衝撃に葵の指先がぴくぴく痙攣した。拘束の弛んだそこから葛が身軽く逃げる。
「ちょ…葛、手加減て、知ってる…?」
葛は黙って服の濡れ具合を確かめた。葵の濡れ具合は見た目以上に酷くその被害は抱きつかれた葛にさえ及んでいた。客がないのをいいことに自室へ引き取ることを葛は早々に決めた。
「葛!」
滴を垂らしながら意気込む葵に嫌な予感がする。口元を引き締めているのは罵声が飛びだしそうになるのを堪えているからだ。葵は気にせず言葉を紡いだ。
「二人で濡れよう!」
素早い動きでしなった葛の腕が平手打ちを命中させた。手加減の一切ないそれに葵がぽかんとする。
「意味が判らんな」
打ちつけた手がびりびり痛んで葛がしきりに手を振った。温情の一切ない葛の態度に葵が目に見えてしょげかえった。肩を落とす葵をおいて葛は階段を上っていく。
葵はため息をついて本日閉館の看板を示し、戸締りをした。降り出しそうな空に雨宿りしていけば良いと気前のいい申し出をわざわざ断って帰ってきた。珍しく本業の知らせもなく葛と二人で過ごしたかった。本業の仕事が入れば何日も顔を合わせないことだってざらだ。互いに仕事を割り振られ、その休日を合わせるような小手先は通じない。まして突発的な事態に合わせて変わる仕事の予定日などないも同然だ。
「ちぇッ」
ぶたれた頬が脈打つように痛む。こういう色事を冗談にされるのが嫌いな性質であることを知っているから真正面からぶつかってみたが玉砕もいいところだ。冗談も本気も駄目では打つ手がない。これはもう明確に嫌われているのだろうかと落ち込んだ。だが葛は関係の解消は申し出ないし、素直に応じる時もある。共に暮らすようになってから自然と好意を抱き感情を擦り合わせて肌を重ねるようになった。互いに明日さえ知れぬ身の上であるから関係性は刹那的だ。
「いってー…」
葛は容赦しないから打つときはいつだって本気だ。それなりの戦闘術を覚えて体も鍛えている男の一撃はしびれるように重い。万事整える葛は閉館作業をしていたらしく葵がするべき仕事はない。とぼとぼと階段を上って自室へ向かう葵の視線の先で扉が開いていた。葛の部屋であると判りながら開いているぞと伝えるために手をかけた。振り向けた視線の先で葛が着替えていた。タイを解きシャツの釦を外しているだろうことが背中の動きから判る。引き締まった体が濡れたシャツに透けて艶っぽい。あぁまずい。それでも葵は目線を外すことさえできない。
葛は躊躇することなくシャツを脱ぎ捨てる。形よく並んだ脊椎や頸骨が見える。湾曲した肩甲骨は葛の腕の動きに合わせて揺れる。横顔が覗いてはらりと落ちる前髪をかきあげる。秀でた額は葛の優秀さを示すように白い。通った鼻梁や黒曜石のように艶めく双眸は潤み、黒絹のあでやかさで髪が艶めいた。白いうなじへちらほらと散る髪の黒さは奇妙に浮き上がって見える。普段から露出を押さえる性質であるから葛の肌など閨でしか目にしない。遠目からでも葛の肌の肌理の細やかさが窺える。鋭い刃先を滑らせるだけで真紅をにじませるだろう白い肌は官能的だ。西洋人形のように無機的な白さではなく艶めかしい。ごくりと喉を落ちていく生唾を、葵は意識せずに呑みこんだ。
「見ているんだろう」
流し見る黒曜石は潤んだ。びくんと跳ねあがってから葵の気持ちは一気に決まる。はねつけられるならそれでもいいと極めて扉をあけると部屋に入りこんだ。
体の向きを変えた葛の肌が婀娜っぽく照る。白い皮膚は明かりの赤みを帯びて紅潮しているかのようだ。
「いいのか?」
葵は用心深く訊いた。葛は騙し討ちなど好まないが必要に迫られればという条件が付く。平手打ちされた頬はまだ痛い。痛みの消えないうちに痛手を被るのはごめんだ。
「駄目ならはねつける」
葛は融通が利かない分、装飾もなく率直だ。可か否かを相手に伝えることを躊躇しない。葛が結論に迷う時はいつだって言葉が濁る。その惑いは明白で、普段から接している葵には明瞭に判断がついた。躊躇する葵の前で葛はベルトに手をかけた。かちゃ、と外れる金属音が響く。同時に葵の自制をも外れた。寝床に葛を押し倒すのを、葛はされるままになる。
「今になって駄目とかいうなよ」
葛の白い指先が葵の濡れ髪を梳いた。桜色の爪先がひらめくのを葵は横目に見た。
「着替えないと風邪をひく」
「脱ぐから平気。一緒に風呂でも入ろうぜ」
葵は自ら服を脱いだ。濡れて張り付くシャツが脱ぎにくい。少しでも動作が滞れば行為を破棄されそうで葵はむやみに焦った。ひたひたとシャツが吸いきれなかった水分が葵の皮膚を覆う。葛の指先が吸いつくように皮膚を這う。濡れ鼠の葵に抱きつかれても軽装ではない葛はさほど濡れていない。
「…わざとか」
葛は葵が階上に上がってくる頃合いを見計らって着替えていたとしか思えない。まして日頃から隙を見せない葛であれば扉が開いていること自体疑ってかかるべきだった。葛はくすりと笑んだ。
「心配させたからだ」
「心配してくれたんだ」
唇をついばむのを葛は止めない。葵は気が済むまで味わってから離れた。
「お茶を断ってきてよかったな。長くなりそうだったし」
葛の表情が弛んだ。引き締めたそればかり見せる葛の堅苦しさは不意に解かれる。
「それでも構わないが」
「構うんだよ。お前が待ってくれているならなおさら」
「看板は」
「下ろしてきたさ」
葛が笑いを漏らした。吐息にまぎれるそれに葵はつられたように笑った。
「だと思った」
「だったら訊くなよ」
黒髪を梳いてやれば葛が葵の手を頬へ寄せる。葛の手が葵の頬を包みこんだ。
「腫れている。痛くないか」
「痛いさ。すっごく痛い」
ふんと拗ねたように唇を尖らせれば葛が声を立てて笑った。
「お前が悪い」
「なんでだって。抱きついただけなのに」
「人目がある」
葛はしれっと言い放った。葵はその正当性に唸るだけだ。葛の言い分はいつだって多数派であり正当性を帯びた。葵の言い分は我儘へ堕ちる。
「ちぇッ、案外融通利かないな」
「それは融通ではなくわがままというんだ」
葵の体は葛のそれに触れるだけで体温が上がる。葛も明確に拒否はしない。堅苦しい葛の拒否しないという態度は最大限の譲歩だ。葵は口元だけで笑うと唇を寄せた。
「嫌だって言われたら止めるつもりだったんだ。止めないお前が悪いんだからな」
二人の裸身が夜闇の中で蠢いた。硝子を震わせる雨滴の激しさだけが耳朶を打つ。
《了》