親しみの度合い


   君から見える唯一の事だから

 六本木はありふれたこの風景が嫌いだ。都庁の交友関係はけして広い方ではないから、話しかける用事を与えられるのは嫌なことではない。問題は、その広くない交友関係の中に新宿が含まれていることだ。もっとも新宿も都庁も六本木と立場を同じくする位置なのだから話しこむことは不自然じゃない。都庁はそのなりのとおりに生真面目であり、視野が案外狭い。話に夢中になると感覚が抜けるという障りが少しある。都庁もそれは自覚しているが、無自覚の領域にあるそれを直すのは難しいようでなかなか直らない。現にこうして六本木が車掌からのしばらくお客様がないので自由に過ごしていて構わないという言伝を触れまわっているのにも気づいていない。
 その原因を作っている新宿は身なりだけで分類すれば都庁とはタイプが違いすぎる。街中に放りだしたなら間違いなく交友関係は切れる。そのくらい接点がない。新宿は視野が広い、こうして六本木がじりじりしていることに気付いている。だが六本木の状況を都庁に伝える気はなく、それどころか優越に満ちた視線を投げかけてくる。外見で判断するのは良くないと判っているが、新宿のなりであれくらいの親しみを持つなら真面目というカテゴリにおいて同居しているような自分のことももっと親しくなってくれたっていいのに、と思う。あぁ、あれだ。先生って問題児を気にするよね、それだそれ。総括する立場から見ると毛色の違うものが目に付きやすいのだ。六本木はそう言い聞かせるように繰り返して溜飲を下げた。ふぅと息をついてから足音高く気配も殺さず近づく。さすがに都庁も気づいてその紅い瞳を瞬かせた。
「六本木。どうかしたか」
「しばらくお客様のご乗車はないので好きに過ごしていて構わないと車掌さんが」
「そうか。手間をかけさせたな」
「いいえ、全然」
 六本木が立ち去らない。都庁に一定以上の慕情を抱くものとして接触の機会は多いに限る。まして敵方が新宿であればなおさらだ。繁華街として名をはせる新宿は交友関係の築き方や親密度の深め方が上手い。それは認めている。繁華街などの華やかさの歴史は六本木の方が浅いのだ。だが確実に結果を得ようとする手堅さは軍街であった六本木の方が強い。諦めも悪い。あらゆる手段を試す。にこにこと笑みを絶やさない六本木に都庁は強く出られない。問題児でないことがここで役に立っている。問題を起こさぬ前歴があればこそ、その行動の意味を慮ってもらえる。
「都庁さん、僕も都庁さんと話がしたいです」
「…悩みでもあるのか」
「おい都庁」
都庁が手振りで新宿に待てと示す。六本木はふんと口の端を吊り上げ新宿の表情が渋くなっていく。
 「おい、前。俺のことは放っておく気か?」
食い下がる新宿のそれに六本木までが引っかかった。都庁の頬がみるみる紅く染まって火照る。ターコイズの六本木の双眸が見開かれていく。二人の反応に新宿は余裕を取り戻す。
「なぁ、前。サキ、俺のことは無視か?」
「――えぇッなんで。なんで、二人、そんな」
「ばっ馬鹿ッ新宿ッ」
「なんでだよ。馬鹿はないだろ、前。お前の可愛い名前」
新宿の笑みが真意を語る。六本木に当てつけているのだ。六本木もそれに気付いていればこそなお腹立たしい。都庁だけが巻き込まれた形で呼ばれ慣れない下の名前に泡を食っている。
 「嫌がっているのに呼ぶんですか?!」
「呼べない奴が吠えるなよ。うらやましいか?」
新宿は明確に六本木を挑発した。六本木が言葉に詰まる。情欲の絡む恋であることを伝えていないことが裏目に出た。都庁だけが訳の判らない顔をしている。呼べます! と叫んで六本木は都庁に向かい合う。都庁は訳が判らぬなりに六本木の緊張だけは察しているのか襟を正してくれる。
「…………っさ」
無垢に言葉を待つ超の顔は真面目だ。六本木の方が照れてしまう。下の名前で呼ぶような習慣に慣れてもいないから余計に堅苦しくなる。不慣れの不自然さは躊躇を呼んだ。
「駄目呼べないッ」
しゃがみこんで顔を覆ってしまう六本木に新宿は遠慮なく笑い声を立てた。
「き、気にするな六本木。私も人のことは名字以外では呼びづらい」
都庁が慌てて取りなした。
 「都庁さん…」
秀麗な顔立ちの都庁だが笑うと少し雰囲気が和らぐ。体は鍛えられても顔立ちは変えられない。女性じみた分類になる己とは違う美貌だ。六本木は名前も顔立ちも女性寄りだ。
「史」
都庁の玲瓏とした声音に新宿さえも固まった。動かなくなる新宿と六本木に都庁はカァッと頬を染めて目を伏せた。濡れ羽色の睫毛の震えさえ見えると六本木は衝撃の中ぼんやり思った。
「……前。お前、今、六本木の事」
新宿の確かめるような台詞に六本木はそれが夢ではないのを知った。
「都庁さん、僕の名前知ってたの」
「名前くらい知っているが」
「待て待て待てそこじゃない、そこじゃないだろ」
しゃがみこんでいる六本木と膝をついている都庁は目線が近い。立てばそれなりに身長差もあって目線の高さも違う所為かこうして見据える機会は少ない。都庁の眼鏡の奥の双眸は澄みきって紅い。
 「なんで俺のことは呼ばないんだ」
そっちこそそこかよ。六本木は心中で突っ込んだが言葉にはしない。六本木は女の子みたいと評される顔でにっこりと全開の笑顔を見せた。
「ありがとう、前さん」
新宿と六本木の優劣は今や完全に逆転した。新宿はしきりに何故呼ばないと訊き、都庁はだって長いだろうと不満を述べた。これぞ天の采配とばかりに六本木は感謝した。顔も名前も女の子みたいだがこの幸せの中でそれらは一切痛手を与えない。むしろ女名としてくくるなら都庁も同じなのだ。都庁さんと同じ分類…! 六本木はうっとりと都庁を見つめた。見つめられることに不慣れな都庁は伏し目がちだが頬の紅さが皮膚の白さを際立たせている。
「長いなら凛でいい」
「…仔犬じゃないんだぞ…」
いささか食傷気味であるのか都庁の眉根が寄っている。
「頼むぜ、前…」
新宿の方も倦んでいる。名前の論争は過去二人において執拗に繰り返し噛み合わない話題だ。
「どうせ太郎の部分は兄貴と一緒なんだ、凛の部分に俺の個性がある」
「意味が判らんぞ」
不満げな新宿に都庁が駄々っ子をなだめるように声音を和らげた。
 「諦めたら? 新宿、サン」
六本木の上に跳ね上がるような調子に新宿も愛想笑いが引き攣っている。
「悪ぶって気を惹くなんて流行らないよ」
「名前呼んでもらったくらいで浮かれるなんて、慣れてないんだな」
双方の舌鋒が唸る。愛想笑いを張り付けているのはともにこの場でおろおろしている都庁のためで、都庁さえいなければその悪感情を隠さないだろう。新宿は慣れた仕草で色の抜けた髪をかき上げ、六本木は目元にかかる前髪を気障に払う。苛立ちを隠す仕草の類似に互いに眉をひそめる。
 睨みあう二人に扱いを思案しかねた都庁がたまらず声をかけた。
「新宿も六本木も一体」
「ふみです!」
「凛太郎って呼べよ、前」
叫ばれて都庁はきょとんとする。眼鏡がずれた。眼鏡を直しながら都庁は周囲に人がいないのを確認した。外部からの助けを諦めざるを得ないことに肩が落ちる。二人はまだ睨み合っている。暴力沙汰に発展しないから良いようなものの、都庁が被るダメージはある意味で暴力沙汰より厄介だ。都庁がため息をつけばそれをネタに二人の毒舌が炸裂するのを繰り返している。都庁が意を決したようにきっと目線を上げた。
 「史! 凛太郎! 二人ともいい加減に――」
びたっと二人の動きが止まる。新宿の紫雷の瞳と六本木のターコイズの双眸が都庁をしげしげと眺めている。
「…な、なんだ」
食い入るような強い視線に声を上げた都庁の方がたじろいだ。新宿は口元が嬉しげに緩み始め、六本木は拝み倒しそうなほど潤んだ瞳を都庁に向けた。
「…さ、前さんッ」
「前に呼ばれるのもいいな」
二人の嬉しげな様子は、諍いの収まりで見れば嬉しいのだが都庁には照れと同等の恥ずかしさを呼んだ。そもそも都庁は下の名前を呼ぶことも呼ばれることも慣れていなくて照れが生じる。照れの躊躇は同時に羞恥さえ呼ぶ。
「――ッと、とにかく二人とも諍いは忘れて休め! ちゃんと報告書は期限内に出すように!」
都庁はその場つなぎの台詞を口走ってから身を翻した。車両の連結部に近いことしか覚えておらず、反転させた体の勢いのままに硝子張りの扉に正面衝突した。男が衝突したくらいでは割れぬ材質であるからいいが痛みと衝撃に都庁がうずくまる。額がじんじんと痛む。透明なそこが鏡面となってうずくまる都庁を映し出す。後ろできょとんとしている新宿と六本木まで見えて都庁はあたふたと退散した。眼鏡を直す指先が震えた。

 あぁもう名前なんて!


《了》

どうして視点を一点に絞れないのかね?!←直らない          2010年8月12日UP

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