言葉なんかじゃ足りないよ
わからずやにはオシオキだ
適当に掃除されている玄関先は綺麗だ。鉢植えで飾り立てないがさりとて吹きこんだ砂利が溜まっているわけでもない。都庁は意を決して呼び鈴を鳴らすと聞き慣れた新宿の声で応答があった。突然の訪いの詫びと名乗りに新宿は今行くと返事をして通話を切った。扉を開けた新宿は砕けた服装であり、感じた不自然や不慣れはその所為のようだ。普段ミラクルトレインの中で会うときは揃いの制服であるから、着崩されていてもある程度の連帯や類似感は感じる。新宿は短く入ればと促してから引っ込んだ。都庁は慌てて挨拶を述べて上がり込む。
「そっちの奥で待ってろ。今、お茶でも淹れるから…インスタントで好ければコーヒーもあるけど」
コーヒーを好んで贔屓の店もある都庁に新宿が訊ねる。都庁はおかまいなくと返答してから示された部屋へ入った。呑みさしのカップが置いてある小卓のところへ座った。新宿の流行に明敏な性質を示すかのように雑誌が多い。家具もシャープなものが多く、ステンレスやアルミフレームを好んでいるようだ。同僚の月島や両国は浴衣を持っていて和風のきらいがあるが新宿はそうでもないらしい。
「ほら、インスタントだけどな。期待するなよ」
ことんとカップが置かれて、ようやく腰を落ちつけた新宿に都庁は手土産を差し出した。つまらないものだが、と断って差し出すのを新宿が礼を言って受け取る。
「なに、これ」
「…菓子だが。美味いと聞いたから」
「どーも」
新宿は菓子折りを横へ置いてしまうと興味なさげにカップを取りあげた。都庁は居心地悪くそろえた膝に視線を落とした。自然と正座をしてしまうのは都庁の折り目正しさだ。よく揶揄されたが近頃の新宿にそうした親しみは感じられなかった。
都庁があまりとれない休みに新宿の私邸を訪ったのはそれが原因だ。新宿が冷たいような気がする。揶揄されていた頃はひどく鬱陶しかったのになくなると何故か寂しい。新宿の揶揄は悪意から来るものではなくむしろ親しみの度合いに比例した。だから揶揄されなくなったと同時に他人行儀に壁を作られていることに都庁は驚愕した。お客様を迎えるうえで必要であれば言葉もかわすし、意見も譲歩もする。だが都庁が私的に関わろうとすると敏感に感じ取ってするりとぬけ出す。自意識過剰なのだろうか思い違いであろうかと悩み抜いた末に同僚に新宿おかしくないか? と訊けばあっさりとどこが? と問い返される始末だ。からかってこないだろう、と言えば汐留は頬を膨らませてそんなことないよ、すごく子供扱いされるよ! と不満を高い声でぶちまけた。他のものに訊いても万事その調子で、都庁への親しみだけがどうも下がっているらしかった。仕事を連携でこなすこともあればこそ、まして同じ路線の駅なのだ、仲違したりそういった要因を作ったりしてはいけないと、路線の起点としての責任感で新宿を訪った。それでも電車を乗り継ぎ最寄駅から歩く間に意気込みは消えてなくなり、拒否されたらどうしようと懸念ばかりが募った。
都庁は出されたカップを取って傾ける。熱すぎも温くもないちょうどいい温度だ。インスタントであると言われているが美味いと思う。窺い見る都庁の視線を感じていないように新宿の目線は伏せられて揺らぎもしない。会話もないから居心地は時を負うごとに悪くなる。
「…し、しんじゅく、その、私は何か気に障るようなことをしたのか?」
「俺なんかかまうなよ」
新宿の声が投げやりだ。苛立ちさえ含んでいるらしい声音に都庁は首を傾げたが退かなかった。リーダーとして障害があるならばなんとかしなければならぬ。
「なぜだ? 私は」
「仕事はしてる、文句は言わせない。…俺がお前から離れようとしていることに気付けよ」
「離れる? 私たちは同じ路線の」
「いいか責任はとれないぜ。俺は忠告している。自己責任で付き合うっていうなら」
「待て新宿、話が見えない。私はお前のことを軽んじたり不要だと思ったことはない、一度も!」
新宿の紫電の双眸が瞬いた。色を抜いたような髪を揺らして新宿は都庁を見据えた。
「私はお前を大切に思っている」
新宿の目が眇められる。余裕綽々といった常態である新宿のすがりつくようなそれに都庁の言葉が途切れた。新宿の指先がおそるおそる都庁の方へ伸ばされる。新宿との接触は久しぶりかもしれないことに都庁は唐突に気付いた。
「同じ仲間だ。仲間を大切に思わぬものなどいない」
びしっと新宿の指先が痙攣した。口元や目元がぴくぴくひきつっている。ん? と首を傾げる都庁に新宿は顔をうつむけ低い声で問うた。
「あぁそう、仲間。仲間なぁあぁあ?!」
声が笑うように震えている。大丈夫かと問おうとした都庁の襟がぐいと掴まれた。そのまま押されてドンと押し倒される。正座していたのが仇になって都庁の四肢がしびれで思うように動かない。
「しっしんじゅく?! 一体なんだ、いたい…」
掴まれた襟がバリッと乱暴に開かれる。新宿はにっこりと女性に人気のある甘い顔立ちで微笑んだ。都庁の紅い双眸がしぱしぱ瞬く。
「俺がお前をどう思っているかその体に教えてやるからな。俺はこんなことにならないようちゃんと避けたし警告もしたからな? お前の方が俺のところへ来たんだ。判るか、自己責任だよ」
「だから私は最近のお前がおかしいから様子を見に。何か支障があるならば善処しようと」
都庁は飽くまで己の正当性を主張する。それがどうも新宿の苛立ちを呼んでいるらしいことに気付いたが理由が判らない。都庁はあくまでも退かぬ構えを見せる。
「そこまで鈍いと逆に罪だな。なんか罪悪感なくなってきたぜ」
くいと膝を割り開かれる。ベルトに指が伸びた段になって初めて都庁は新宿の目的を悟った。
「――は? なッこのッこの馬鹿ッ、何をしている!」
「だから自己責任だって言ったろう。俺はこういうことにならないように逃げていたのにお前が来るんだからな。お前の望み通りにしてやる」
のしかかってくる新宿の体が退かせない。丈で勝っている分、都庁にも油断があった。思わぬ場所を抑えられては抵抗を封じられる。新宿の濡れた舌先が都庁の皮膚を撫でていく。都庁に出来るのは体を震わせて嬌声を堪えるくらいだ。
「しんじゅく…!」
「凛太郎だ。前、って呼ぶぞ。いいよな? さき、サキ?」
新宿の唇が都庁の首筋を食む。冷たい手がズボンの中へ滑り込み、都庁は背をしならせて耐えた。
「どこまで我慢できるかな?」
新宿の声は愉しげに響いた。
「あー…コーヒーも美味いなー…」
新宿の目線が都庁の方を眺めていることくらい感じられた。都庁は奪い取った毛布にくるまったまま背を向けて膝を抱えていた。ずずっと洟をすすって紅く泣き腫らした目で睨みつける。
「飲む? 濃いの淹れてやろうか」
「――いらん、要らないッ! あんな、あんなことをしてッ」
賢しげにあらわになっていた額には前髪がちらほらと散っている。都庁の乱れた髪形とずれた眼鏡はどこか間抜けで愛らしい。新宿はすっかり機嫌を直したように朗らかに笑った。
「なんだよ、最後の方は前ものりのりで可愛い声上げて」
「馬鹿ッ」
ばしんと床を殴りつける拳と痛みに都庁が呻いた。耳や首まで真っ赤になって羞恥に耐え、その紅い双眸には新しい涙が溜まりつつある。都庁の鎖骨や胸に紅い鬱血点が散っている。新宿は満足げにそれらを眺めてから、乾杯と言祝いでカップを傾けた。
「やってみるもんだな、案外出来る。やっぱりやってみないとな」
「かっ帰る…」
立ち上がりかけた都庁がぎしっと硬直した。新宿はにやにや笑って剥いだ衣服を残らず都庁と反対の方向へ放った。ベッドの上にバサバサ落ちるそれは新宿の前を通らずに取りに行くのは不可能だ。
「せっかく来たんだからゆっくりしてけ」
「服を返してくれ…!」
都庁はずれた眼鏡を直しながら頼んだ。恥を忍んでいることを示すように目元が赤らむ。新宿も感じ取れないわけではなくわざとである。聞こえぬふりで呑んだコーヒーにああ美味いなと感想を述べる。
「新宿ッ!」
「凛太郎。案外学習能力がないな、前は。もっとよく教えてやろうか」
ちろりと流し見られる紫雷の視線が嫌らしく都庁の腰のあたりを移ろう。感じ取った都庁は胸のあたりでかき合せる毛布の端を持ち直し、膝を丸めるように体を守る。後ずさる都庁に新宿はにやにやと意地悪く笑う。
「前、そのまま帰るのか? そっちは出口だ。もっとも前に極端な薄着で出歩く趣味があるなら」
「しん」
「凛太郎だって言ったろ」
都庁の隙をついて毛布を掴む手ごと引っ張られる。重心の揺らぎに耐えきれなかった体がどさりと放られた先はベッドだ。剥ぎ取られた衣服の上に押し倒される。毛布まで奪われて都庁は羞恥に顔を火照らせた。女性じゃないんだ恥ずかしがる必要などない、と言い聞かせても感情や感覚として羞恥を感じてしまう。潤んだ双眸や赤らむ皮膚に新宿は口元を弛める。
「ほら、言ってみろ。凛太郎だ」
都庁は引き結んだ唇を開かない。好きにされてたまるかという負けん気と同時に腹いせも兼ねて口が堅くなっている。新宿もそうした機微を知っているから執拗に責めた。
「言わないなら裸のままそうしてるんだな。俺としては大丈夫だしむしろ望むところだ。前の裸体が見れるなんて願ってもない。あぁ、性欲が限界迎えるかも」
途端にじたばたもがき始める都庁を新宿は余裕で抑えこむ。
「いやなら全力で拒め。前は俺のこと気にしてくれるんだ? ちょっと避けただけで心配してくれるんだもんな、こんな隠された違いに気付いてくれて嬉しいぜ。すごい愛のチカラだなー」
うぅ、あぁ、と呻いていた都庁が観念したかのように動きを止める。
「俺のこと好き?」
「…――きだ、好きだッこれでいいのか服を返せッ」
「最後の一言は要らないな」
都庁の気恥かしさの要因は必ずしも新宿の横暴の所為ばかりではなく、都庁自身も気づいている。だからこそ余計に始末悪く性質悪く。素直に認められない程度にはプライドがある。
「前、俺のこと好きなら凛太郎って呼んで」
吐息が触れるほど近い位置でささやく声が低く耳朶を打つ。
「……り、ん…たろ…ッ」
潤みきった双眸を眇めて絞り出すようなそれは不慣れな響きに恥じ入っている。新宿は褒美のキスを与えてから融けそうに火照る都庁の体を撫でた。
《了》