始まりの瞬間
馴れ馴れしいんじゃなくて、好きなんだ
都庁が帳面に文字を書きつけていく。報告書は六本木のように機械で打ち出してもよいのだが草稿は手書にするように心がけている。機械で打ち出せば文字も一定で読みやすいのだが改変の痕跡が残らないので思わぬ無限ループに嵌まることがある。取捨選択の痕跡があればどこがどう変わったのか判りやすいので面倒でもペンを持つ。車掌に提出するものを機械で打ち出し、その前段階は手書であるのが都庁のパターンだ。年少の汐留などには面倒じゃない? と不思議そうに言われるがやりなおしができるのだと都庁は納得の上でこの方法を選んでいる。座席の端に陣取って不規則にペンを走らせる都庁の隣にどさりと腰を落とす気配がした。投げ出されるように長い脚が視界に入りつられたように顔を上げる。
揃いの制服を可能な限り着崩しているが見苦しくないのはその整った顔立ちのなせる業か。一見して軟派な新宿はそれを裏切らない軽薄さを隠しもしない。緩めたタイや襟から覗く鎖骨の造りなど、体つきや顔立ちは案外堅実に美しい。けれど新宿はそうした堅実さを嫌うかのように外見を繕った。言動にもそれは影響していて、悩みを抱えてここを訪うお客さまに対しても万事その態度だ。引き締めろという都庁の小言はことごとく無視された上での返事は、お前名前可愛いな、であった。
「新宿?」
同僚たちは都庁が報告書を書きあげる過程を知っているから作業の邪魔にならぬよう心を砕いてくれる。騒ぎ立てるのを隣の車両へ移ってくれたりうるさくないかと訊いたりしてくれる。都庁が路線の起点として背負うリーダーの責任の負担さえ考えてくれる。月島や六本木はよく気を使ってくれる。
「しん」
「なぁ、前」
新宿は不慣れや気負いを感じさせずに下の名を呼んだ。都庁の顔が燃えるような速さで紅くなっていく。駅名がある以上どうしようもないのは名前で、都庁とて己の名前が女性名であることに気付いている。下の名を呼ばれるのはひどく据わりが悪い。都庁が可愛らしく愛らしくあったならここまで避けなかったろうが、あいにく都庁は仲間うちでも上位の長身であり立派な男性としての領域に所属する顔立ちと体つきだ。身形に似合わぬ名前であればこそ気にもする。都庁のそうした葛藤は大抵、相手に名字を呼ばせるという行為で相殺された。久しく忘れていた衝撃に手が止まって硬直している都庁に新宿は執拗に呼びかけた。
「前、真面目だな。そんなの後にしてさ、ちょっと」
「…都庁だ」
「は?」
「下の名を呼ぶなッ、皆と同じく都庁と」
訂正を求める都庁に新宿は口の端を吊り上げて笑んだ。軽薄と一見で印象を決め得る新宿はその奥深さを悟らせるような性質ではない。揶揄するように目を眇めて唇をゆがませて微笑む。
「いやだね。俺が前をどう呼ぼうと俺の勝手だ。前、さき、サキ?」
座席の端にいたことが裏目に出た。都庁は逃げ場もなく新宿の声が奏でる名前に口元を引き結んで耐えるしかなかった。眼鏡の奥の双眸がしだいに濡れていく。新宿にもそれが伝わっているらしく、前と名前を呼ぶ声音が愉しげだ。
「俺のことも凛太郎って呼んでいいから」
「…――いらんッ、そんな譲歩…ッ!」
都庁が話題を切り上げて帳面に目を戻す。新宿も深追いはしない。けれどその紫電の眼差しは執拗で都庁の手元や首筋を舐める。新宿の視線は明確に感じられ都庁のペンは震えて止まる。ある程度まとまっていたはずの文章や構成は消え去っている。次に記す文字さえ判らずペン先は紙面をつつく。都庁は報告書を書きあげる姿勢を前面に押し出しておりそれが逆に首を絞める。新宿は優位に立つ者の笑みを口元にさえ浮かべて都庁の苦境を眺めている。あえて手助けしないのが新宿の意地の悪さだ。
ふぅと漏れる吐息の微笑に抗議しようと顔を上げた隙を捕えられた。頤を抑えられてそのまま唇が重なった。ことごとく座席の隅を陣取った判断が恨めしい。逃げ場さえなく、都庁は新宿の唇や舌の感触を覚えこまされるほど長く唇を奪われた。離れた舌先を銀糸がつなぐ。ぷつんと切れるその糸を新宿は妖艶な仕草で舐めとる。都庁の唇さえ舐めるそれは明確な目的をにおわせる。都庁は忙しなさを増していく呼気に追いつけず茫然と新宿を見つめた。ペンはいつしか床へ落ち、帳面は膝から滑り落ちていく。ばさばさとした音はどこか遠くで響いた。
「ば…――馬鹿っこんな! こんなところで、何をッ」
好奇心旺盛な汐留やさりげなく見逃さない月島の追及を覚悟した都庁はその時になって初めて新宿と二人きりになっていたことに気付いた。
「出費次第でどうにでもなるもんだよな」
それが新宿の手まわしであることは明白だった。それを裏付けるように新宿は悪びれもしない。
「なぁ、前?」
都庁の体が追い詰められていく。逃げ場のない都庁は腕を引き寄せるのが精一杯で打開策はない。新宿もそれを知っているからリスクを負うような乱暴はしない。それでいて逃がす気もないようで指先は都庁の頤を離さない。目線だけを伏せると新宿が笑う。
「前、睫毛が震えてる。俺が怖いか? 平気だよ、優しくしてやるから。どうしてほしい? 痛めつけるようなのがいいならそうする」
座席に座ってしまえば身長差など影響しない。新宿は覆いかぶさるようにのしかかってくる。弛んだタイが揺れて都庁の手を胸を撫でる。
「こ…この、馬鹿ッこんな、こんなッ…こんなバカなことは止めてどけッ!」
きっと新宿を見据えて言い放てば新宿の顔が刹那に冷える。しなった腕が振り上げられて都庁が認識する前に頬を打ち据えた。男性であることを裏付けるように強い一撃に都庁の頬がすぐさま火照りを帯びて紅く腫れていく。
「乱暴はしたくなかったけど分からず屋ならしょうがないな。躾は必要だろ?」
新宿の冷たい声が意識を滑る。事態に追いつけず、まして明確な痛打を浴びてその痛みが殊更に情けなく惨めだ。落ちた眼鏡が軽い金属音を立てる。
「な、んで。なんでこんなこと…ッ」
「判らないか? 俺はお前が好きなのに」
都庁はこぼれそうになる涙を堪えた。人前で臆面もなく泣くほど厚顔でもなく、それでいて無感でもない。痛みはそれなりに感じるしダメージだってある。それでも人前で泣くことを良しとしない矜持はひどく都庁を追い詰める。震える唇を引き結んで都庁の伏せられた双眸が揺らめく。紅玉の震えるそれが蠱惑的に妖しいことに都庁は気づいていない。印象と性質を結び付けるように誘導する身なりの都庁のこうした仕草を新宿は好んでいる。
「ほら、泣きたいなら泣けって。知らん顔してツンケンされるよりよっぽどいいぜ」
ぼろぼろあふれる涙に情けなさを感じつつも決壊した堰は止まらない。唇を噛みしめて泣き声を殺すのがせいぜいだった。ぶたれた頬は感覚を失って腫れ、脈打つように痛んだ。
「俺はお前が好きなんだぜ?」
新宿の声は甘く顔はにっこり微笑む。
「――嘘、嘘だッこんな、こんなことして好きだと…ッ」
新宿の一撃に手加減は一切なかった。嘘だ嘘だと繰り返す都庁の頤をぐいと掴み直して新宿は真正面から都庁を見据えた。都庁が慄然として震えた。息を呑む蒼白な表情にさえ新宿が微笑みかける。
「好きだぜ?」
都庁の思考は完全に破綻した。新宿の好悪と行動の方向性はばらばらに感じられて一致せず、それでいて何とか手がかりを得ようとする都庁のことごとくは振り払われる。じたばたもがくだけの都庁の行動は一切実を結ばす、新宿の真意は不明のままだ。
「リーダーだからって気負う前も好きだけどこうして毀れていくのも好きだぜ。俺の前で何もかもさらせばいい」
新宿の手が襟を破るように開く。上着を脱がされべストの釦に手がかかる。おののく都庁を知らぬげに新宿は着実に手順を踏んでいく。
「じょう、だん、だろう…」
「冗談なら六本木や汐留を狙うぜ。オトしやすそうだしな。本気だ。本気で前を狙ってる」
新宿は線の細いなりの六本木や年少の汐留の名を上げる。新宿の声音においては忌むべき下の名前は馴染んだ。訂正することさえ忘れて都庁は茫然とした。
都庁の黒い髪を梳くように新宿は指を入れて撫でる。眼鏡を失くした都庁の顔は思いの外、幼い。紅く色づく双眸の煌めきは、新宿で瞬く広告塔のようにあざとい。それでいて効力や魅力は損なわれない。新宿は笑って都庁の額に口付けた。開いた襟から覗く鎖骨に触れてくぼみを指で押す。噎せる都庁に新宿の口元が笑んだ。
「本当に前は可愛いな。すごく愛らしい。守ってやりたくなるぜ」
「…嬉しくない。守られる、なんて、そんな…」
私は起点なんだぞ。ぶつぶつ呟く間に新宿は何度も何度も唇を寄せた。触れてくる新宿の温度は友好的に都庁の体に馴染んだ。それに都庁自身が驚きつつも受け入れている。いつの間にか下りていた新宿の手は都庁の両手を抑えている。上にかぶせるだけですぐにでも振りほどけそうなそれの拘束力は予想外に強く、都庁はなすすべなく新宿を受け入れた。貪るように深く口づけられる。舌を絡ませる感触や温度に慣れ、その感覚はしだいに融けあうように領域を曖昧にした。
「もう一度訊こうか。俺は前が好きなんだぜ? 受け入れてもらえるかな?」
新宿の唇が都庁の額やこめかみを移ろう。蠢く舌先が目蓋を割り、睫毛を揺らして眼球を舐めた。
「好きだぜ、前」
眼球への衝撃や痛手を減らそうと涙が分泌される。感情とは関係なく溢れ出る涙がこぼれて頬を滑る。打たれた頬の痛みは絶頂を超えて鎮まりつつある。腫れた頬を新宿の指先が撫でて唇をたどる。
「本当に前が好きだよ。俺の言う通りにならないなら壊したいくらいに好きだぜ」
新宿の指先が開いた襟から中へ入り込む。皮膚を撫でる指先に都庁の体が震えた。
「さき?」
新宿の声が奏でる下の名前は心地よくなっていた。都庁は震えるままに堪えず身震いした。仰け反る喉へ新宿は食むように唇を這わせてくる。熱く濡れた舌先が皮膚を撫で押す感触が明確だ。
「大好きだ。愛してるよ、前」
手はあくまでも友好的に都庁の従順を求める。都庁は自ら脚を開いた。新宿は体を滑り込ませながら思惑を感じさせない美貌で微笑んだ。紅い唇が灼きついた。新宿は垂れる髪さえ払わずに都庁の皮膚へ唇を寄せる。
「あぁ…」
都庁の吐息交じりの声に新宿は嬉しげに笑んだ。
《了》