※前提は美猿と礼尊です
どうしてこんなことするの 微温い雨と冷たいもの 雨が降っていた。安物のビニール傘を雨垂れが打った。跳ね返る雨滴に裾を濡らしながら歩く。銀鎖の音さえ重たく凝る雨に視界さえも烟った。いつものバーへ行こうとしてその横道に目をやる。ぽつぽつと灯り始めた街頭の明かりが不意に黒くさす。何かがそこにあるのだと思って近づく。数歩も行かずに見慣れたそれが何であるかを知る。紅褐色の髪からは雫が絶え間なく滴る。短くした前髪がベッタリと額へ張り付いている。得意にしていると自慢げだったスケートボードもない。洋服は肌が透けるほど濡れて彼が長い間そこに居たのだと示す。袖や裾の糸のほつれさえもが頭を垂れて白露をこぼす。 「八田ァ」 俯いた美咲は返事をしない。尊を慕ってまとわりついてくるほどの明朗さや威勢の良さが完全に失せていた。 「みことさん」 唇の紅さが発熱のように目立った。まだ子供っぽい彼の体は熱を出すと端々が赤らんだ。 「猿が、青服、に」 猿というのは伏見猿比古という少年だ。八田美咲という女名の彼と同じくらい珍しい名前だと思う。美咲が嫌う女名を躊躇なく呼ぶ彼を、美咲も遠慮無く猿と呼び捨てた。同じ学校であるようで制服は揃いだったし、尊が二人を知ったのも同時期だ。たむろす仲間へ二人は揃って認められた。その猿比古が所属を変える話は聞いたかもしれない。結局人数が集まったところで尊たちの集まりは有志に近い。服装を揃えたりするような真似は金銭援助も乏しい現状では難しい話であるし、所属面子を分類するなら無頼が多い。伝説だろうがなんだろうがチンピラと言われてしまえば否定はできない。青服は反対に明確な立場と責任を帯び、ある程度の保障もある。青服などという別称で呼ばれていても彼らには真っ当な名前と立場がある。 「らしいな」 だから鞍替えしたいというならそうすればいい。何を選ぶかは結局当人の問題であると思う。選ぶ基準が周りの人間だとか金銭だとか言うだけだ。 「………知って、たん、ですか」 初々しささえにおわせる乱暴な口調さえもが鳴りを潜めていた。尊は返事をしない。それが返事だと判っている。あげられた目元が紅い。威勢のいい三白眼が閉じられる。瞬間に尊が体を滑り込ませて美咲の体を抱える。力の抜けた体躯が軽い。美咲が小柄であるのが改めて知らされた。触れる皮膚はすっかり雨滴にふやけて冷えきっている。背中へ背負うのを抵抗されなかった。子供を背負うようにバランスをとる。反射的に放り捨てた傘を拾い何とか肩へ引っ掛ける。そのまま踵を返した。尊のうなじへ顔を伏せた美咲は身動き一つ取らなかった。 なんとか工夫して自宅へ運び込む。部屋へ上げてから靴を脱がぜ、タオルを被せたが焼け石に水だ。 「八田、起きろ」 頬を叩くまでもなく目蓋が開いた。曇りがちな双眸を泳がせる美咲を引っ張って風呂場へ入れる。シャワーを浴びろ。湯に浸かりたければ溜めろ。把手を示してひと通り説明する。濡れた服はそのまま放っておけ。代わりを用意する。美咲は緩慢な動きで頷くと把手をひねった。濡れた服を脱ぎ始めるの見て、浴びているのが湯であるのを確かめてから仕切り戸を閉める。風呂場の水音が聞こえるように部屋の扉は開け放つ。何かあっても困る。 美咲を背負って濡れた上着を脱ぎ捨てて放ると端末を探りだす。美咲の荷物は全くない。携帯端末さえ持っていないようだった。もともと向かおうとしていたバーの店主へ連絡をつける。昔馴染みであるから言葉少なでも用が足りる。美咲のことを訊いた。あいつの荷物はねぇのか。八田ちゃんな、来てへんねや。荷物言うたら以前からおいとる私物しかないわ。顔見せへんねんけど何やあったか。言葉少なで足りるぶん、相手の勘もいい。濡れてたから拾ったぜ。お前んとこに居るんか。ならそれはそれでえぇわ。どないしたやろうって思っとったんねん。饒舌さに眉をひそめる。八田に何かあったのか? 仲、良かったやろ、二人。欠けてもうてしんどいん違うか。嘆息すると相手がケラケラ笑う。判った、もういい。何か入用なったら遠慮なく言えや。短く礼を言うと通話を切る。クローゼットをひっくり返して服を探す。体格は尊のほうが良いからサイズの問題はないだろう。なんとか上下を揃えて風呂場をうかがう。八田、着替えを置いとくぞ。はい、と殊勝な返事があったので安心した。 部屋の場所を空ける。埋め尽くされてはいないが男の単身住まいとして清掃や整理が行き届くのは稀だ。湯を沸かすとありあわせの野菜や顆粒でスープを作る。さすがに凝った料理はできないが食わないかもしれないので軽食のほうが良かろうと思った。火加減を調整しながら飲み物も確かめる。ココアでもあればいいのだろうがコーヒーくらいしかない。牛乳がかろうじてある。日付も大丈夫。がらりとなんの加減もなく仕切り戸が開き、濡れ髪の美咲がのそりと出てくる。着替えが大きいせいで子供に見える。少年と言っていい年齢だからおかしくはないのだがことさら脆弱に見えた。髪は拭われていないのが襟ぐりがひどく濡れる。火を消し、新しいタオルを取ると美咲を寝台に座らせる。 「頭ァ下げろ」 屈むところでガシガシと髪の水気を取る。かなり強くやったと思うのに痛がりも嫌がりもしない。乾かすか? …だいじょうぶ、です。 「……みことさん、猿が、青服に」 「聞いた」 ぶるりと美咲が震えた。あいつオレの目の前で、焼いたんです。肉の焼けるにおいが、して。今までなんにも思わなかったのに。あいつの肉が焼けてるんだって思った、だけで。ぐ、ぶ、と嘔吐く。上着を引き寄せて膝へかけるように敷いてやり背中を擦る。便所へ行くか。頭が弱々しく振られる。そのまま寝かしつけようとすると手首を掴まれた。 「みことさん、あいつ」 目を眇める尊の前で美咲の声が慄然と震えた。 「オレ、猿を、抱いた」 見開く双眸にすがるようにして美咲が顔を歪める。押さえつけられて動けなくってでも。オレ、最低っすよね。嗤う口角が痙攣する。…八田。ぐんと強く引かれて寝台へ倒れこむ。仰臥したそこへ小柄な美咲が覆いかぶさった。 湿ったタオルが落ちてくるのを手で払う。みことさん、オレ、自分が赦せなくって。あの時オレが違ってたら、あいつは。もしかしたらって思っちゃうんスよ。だから。 こんなに自分が赦せない 手を伸ばして触れた頬は激昂での火照りと雨に打たれた冷えが入り混じって温んだ。落涙しない強さがあって、それが美咲を苛む。尊は目を眇めたままで何も言わない。 「俺でよけりゃ抱けばいい」 望むことを言ってやる。好きな様に抱けばいい。脚ぐらいは開いてやる。尊の肩を抑える美咲の指先さえもが震える。わななく唇はそれでも何も言わずに噛み締められた。 「抱かれんなぁ初めてじゃねぇからな」 嘲るようにうそぶくと美咲がビクリと震えた。あいつも言った。八田? 猿も、初めてじゃないって、言った! 慟哭は悲鳴のように甲高い。涙が眼球を覆うのが見て判る。それでもこぼれてこない。 「…――どうして…?」 くずおれる体を受け止めてしばらく重なる。抱擁とも言えない重なりが皮膚からしみてくる。濡れた髪から洗浄剤の香りがした。 茫洋と想い出す。そういえばあの男に初めて抱かれた夜も雨が降っていた。立場が違うとはねつけ逃げる尊を縛り上げてつながった。噛み付くようなキスも容赦の無い平手や加減を知らない指先の動きや。 「…みことさん」 目線を向けると美咲は泣いていなかった。痙攣的な眦や口元。別れ際に、抱いたり、抱かれたり、したこと、あります? 「ある」 「つらくないスか?」 「なんで」 「別れ際だからもう逢えないってことじゃないっすか。そんな時に抱きしめられたって」 美咲の頬を抑えてから引き寄せる。唇に噛み付く。 刻んだ傷が残るンだろ なにか言い返そうとする美咲の口をゆるやかに手で覆った。八田、もう寝ろ。今日は泊まれ。横へ重心を移動させて横たえると目蓋を覆う。寝台に男二人は手狭だが体温が感じ取れる。美咲が促されるままに目蓋を閉じておとなしくなる。背中で冷えていた美咲の体が人肌に温もっていくのを感じながら尊はシャツを脱いで同じ毛布へくるまった。 《了》 |
実は礼猿ヴァージョンがあるとかないとかウフフフフ(逃) 2014年6月29日UP