君が極めた事かも知れない
善悪と好悪
夏も近い夜の闇が四肢に絡んだ。暑さと寒さを繰り返しながらこの土地はしだいに夏へと近づいていく。旧家と言って差し支えないような構えの藤堂の私邸は風通しがよく、卜部の一人住まいにこもっているより余程居心地がいい。惣菜や晩酌の酒を携えては卜部が藤堂の私邸を訪い、いつしか枕も交わした。生死を寸断なく思い知らされる活動をしているから発散には熱心だ。枕を交わしてもケロリとした顔ですぐさま作戦を実行することもある。気安い同士であれば後が気まずいと言われがちだが藤堂と卜部はどうもそのあたりの塩梅は上手くいっている。お互いに発散が必要な体であることと、活動の行動指針が冷静であることを知っている。藤堂は驚くほど理性的で怜悧で、位置関係の把握も違えない。色仕掛けを通用させずにのし上がっただけの実力は有している。
簡単にだぞと藤堂が断りを入れるが一人で入れるよりよほどうまい酒が飲める。料理も美味い。卜部は透明な硝子の縁に唇を寄せたままぼんやりと藤堂を見つめた。
「どうした?」
食事とかねて肴まで作る。立派に嫁になれる。そこまで思って藤堂が男であることと嫁の相手役に自然と自分を据えていることに気付いて笑いだした。くっくっと肩を震わせてこらえれば藤堂はきょとんと小首を傾げた。酒精が入って少し肌が赤らんでいる。淡紅色に色づいた目元や首筋は蠱惑的だ。そよそよとした微風はどこからか吹きこんで藤堂の襟足を震わせた。入浴した後であるから互いに藤堂が用意した和服を着ている。藤堂の着付けは性質悪く慣れたふうに衿を抜いている。俯いたなりに頸骨の並びや張り詰めた皮膚が見えて、後れ毛のようにうなじに髪が貼りつくのはさながら芸妓の化粧のように線を引く。風呂と酒精で上気した肌は卜部の期待をあらわすように息づいて膨張と収縮を繰り返す。融けるほど広がる領域とその狭さに不意を打たれる。触れたら張り詰めたものが弾けそうで、けれど触れてみる勇気はない。精悍で威圧的な眼差しさえもなりを潜めて穏やかそうに眉間のしわも弛んだ。張り詰めたものがない時の藤堂は驚くほど無防備で綺麗だ。無礼講だなと冗談交じりに言い合ってかいている胡坐の恰好でさえ見えそうな膕に思わず目線が惹きつけられた。交通機関で正面に女性が座ってしまったような気まずさのような後ろめたさのようなそれでいて拭いきれない期待のようなものがひしめいた。見たら駄目だと思えば余計に気になるし、ならばと見据えるわけにもいかない。藤堂の四肢は確実に性的な働きかけを含んだ魅力を持っていて、その芳香が放たれている。しかも当人は気づいていない。
洗髪された藤堂の鳶色の髪は重く濡れて消炭色に垂れている。前髪を上げる癖がついているのかはらはらと額へかかる髪に鬱陶しそうに顔をしかめる。堪えきれなくなれば手ぐしで上げてしまう。固そうなくせに藤堂の髪は従順でしばらくはもつ。落ちてくれば上げる、を繰り返す。髪形を頻繁に変えたりしないので髪自体に癖がついているようだ。ぽとぽと垂れる雫を肩へ落ちるままにしながら額やこめかみを撫でれば拭う。
「うらべ?」
凛とした眉筋は少し開いて雰囲気は和らぐ。墨を引いたように走る睫毛の長さが切れあがる眦は性別にこだわらない綺麗さだと思う。ずいと藤堂が覗きこむ。卜部の方が丈があるから藤堂の滅多にしない上目遣いが拝める。
「いや、あんたの酒は美味いなァと」
へらりとかわすように笑えば藤堂は甘ったれた安堵と肩透かしを同時に窺わせる。そうかと短く言って引き下がるが口元は不満げに引き結ばれている。
水輪を落とすように藤堂の灰蒼が揺らめいた。その双眸が、じっと、卜部を見据えた。甘い責めと苦悶を含んだそれに呼応するように藤堂の口の端が戦慄くように震えた。藤堂が言いだしたいのに果たせない時の癖だ。卜部の態度に何かしら物言いがあって、けれど臆面もなく言い放つほど厚顔にもなれない。藤堂が選ぶ言葉はいつだって慎重で熟慮の末であるから不用意な発言を嫌う。軽薄な茶化しや冗談も苦手とする。だから卜部は視線を感じながら知らぬふりで杯を干すだけなのだ。
卜部が肴に手を伸ばして気付いた。藤堂が手をつけていない。ちらりと見やれば酒はかなり空けている。手酌で呑むのを出世しませんよと諭せば、私などが出世する世では困ると言い返す。言い返すし笑いさえするのに酒を空けるペースが速い。潤みきった双眸はとろとろと揺らいで交渉中のように眇められる。眇められて黒目の割合が増えた双眸は仔犬の目に似て性質が悪い。精悍で近寄りがたい男の束の間見せる弛みは性質悪く惹きつける。触れないと思った直後に目の前に晒される剥き出しの体に対する誘惑は強い。こういうところが駄目なんだ、と卜部は判っている。窺えるのが時折であればあるほど、期待する。その資格が自分にあるかと期待は肥大して損失を度外視する。そばにいたら見れるかもしれないしてもらえるかもしれないと浅ましい。その機会が少ないほどに自分についての希少価値さえ付加されるような気がして陶酔する。だから藤堂は薬であり毒でもある。藤堂が引きあげた人材はいる。だが同時に堕ちて行ったものもいる。表裏一体、陰陽のように藤堂は正反対の顔を見せる。
「あんたァなんか食った方がいいっすよ。酒ばっかりだと悪酔い、す」
ひらひらと藤堂の目の前で振った指先が囚われて、刹那に唇が重なった。酒精で潤んで熱い舌がぬるりと軟体動物のように絡む。流しこまれる唾液を卜部は嚥下した。触れてくる唇でさえ熱い。藤堂の体は体中を覆う薄皮一枚の奥でひどく沸騰しているかのように流動的だ。針で穴を開けたらそこから液体が吹き出しそうな幻覚を覚える。藤堂の中の熱が流動的で、機会さえあれば卜部のそれさえも犯すだろう。口づけられた勢いのままに卜部の体が傾いだ。支える腕の関節に沿うように藤堂は軽く突いてそれを砕く。仰臥した卜部の上に藤堂が跨った。開かれた脚に和服の裾が際どく大腿部をさらす。その時になって初めて卜部は藤堂が下着をつけていないことに気付いた。口を開く刹那に、きゅうっと脚の間を握りこまれて声が詰まった。
「――ッ…」
藤堂の指先が卑猥な動きを見せながら卜部の脚の間で暴挙を働く。桜色に整った爪の形や指のしなやかな動きは手入れや訓練だけでは得られない天然ものだ。藤堂は何度もついばむように卜部の唇に吸いついた。卜部を牽制するように動いていた手がそっと離れた。藤堂が自ら帯を解いた。衣擦れの音を立ててあらわになる下腹部と腰部は秘められていた香りを放つようだ。しっとりと豊潤なそこは濡れて内股がヒクヒクと攣る。
藤堂に秘めたものであっても想いを寄せるものとしてこの状況は歓喜と戸惑いと罪悪に彩られた。あらわになる藤堂の肉欲に乗りたい喜びと偶然さえも疑う狭量の疑いとが同居する。卜部のこれまではよい方に働いた偶然など数えるほどしかない。この土地で生きる上で卜部の階級は底辺であるから何でも疑ってかかる悪癖がついている。
「ちょッ、あん、たァ…」
続く言葉さえないのに卜部はもう次の瞬間には藤堂が冗談だと笑って襟を絞めてしまう光景が目の裏に浮かぶ。藤堂は卜部の言葉を待つように動きを止めた。流れのように翻っていた帯や裾がふわりと落ち着く。
「…――悪い、冗談だ」
「卜部、私は冗談などではない。本気だ」
紅く色づいた目元が卜部の不出来を責めるように。唇は舐めてさえもいないのに濡れて光る。その奥に広がる紅い虚は性器のような暗渠だ。藤堂の口へ直接ぶち込みたいような原始的な衝動が奔る。だがそれでも今まで味わった砂の味が卜部を楽観的にしない。うまい話には必ず裏があって、棘があって、損失がある。良いだけのことなんてない。それが卜部の結論だ。
「…嗤えば、いい。このような身分で、不相応で浅ましく淫らがましく、醜いと」
卜部の沈黙に藤堂はふふと倦んだような婀娜っぽい笑いを洩らした。
「卜部、この体はもうとうに淫らに毀れて汚れが染みてしまっているんだ。汚らわしいとはねつけろ。それがお前のすべき、事だ…――」
藤堂の口は滑らかに言葉を綴る。平素が寡黙な性質であるのを思えばこれさえも酩酊のもたらした非日常であるのかもしれない。一緒に食事ができて嬉しかった。私の家に来てくれて嬉しかった。一緒に酒が飲めてよかった。
私を甘やかさないお前が、好きだ。
灰蒼で塗りつぶしたような双眸は湖面のように揺らいで深さを測らせない。凛々しい眉筋から力が抜けて情けないような、けれどそれが可愛いような気にさえなる。潤んだ双眸で、けれど落涙はしない。ただ困ったように微笑んで、嬉しかったありがとうすまない。私は、穢い。藤堂はただその羅列を繰り返す。
卜部は藤堂を汚いと思ったことはない。藤堂が従事する労働に時にどんな無理強いが行われるかをきっと知ってる。藤堂は卜部達がかぶるべき泥までかぶって汚水をすすって生きている。崇高で気高くて、それゆえに膝を屈するということを知っている。卜部の爪がぎちりと畳の目を引っ掻く。ささくれる藺草の香りがぷんと鼻をつく。藤堂は気づかぬように、すまぬ、と泣いた。腹の上で震えて泣いている藤堂を抱きしめる気概さえないことに倦んだ。いつもそうだ。どうしたらよかろうと至らぬ考えを張り巡らせて考えてその末に失敗する。深く踏み込まぬ立場をとるから追うことも拒否することさえも出来ずに卜部はただ相手が己を詰るのを待つばかりだ。詰ってくれるならまだ良い。そのまま背を向けられた時の絶望や孤独や寂寥や。後悔と懺悔と。押し寄せるそれに卜部は耐えるだけで言葉さえ発することは赦されない。
「こンの、馬鹿ッ…」
跳ね起きた卜部に藤堂の体が傾ぐ。その肩を掴んで卜部は唇を吸った。涙に塗れた藤堂の双眸は大きく見開かれていく。集束する灰蒼は瞳孔の動きさえ見えた。熱く火照って紅い頬ははちきれそうだ。包み込むように手を添えて卜部は藤堂の口腔を貪った。
「なんで俺と別れる前提なのか知りてェですねェ。俺はあんたを離すつもりなんかねェ」
じろりと睨みあげるように見据えれば藤堂の濡れた眼差しがさらに潤んだ。
「わたしは、きたない」
「俺は綺麗なやつとだけ付き合って口ィ拭う心算はねェですよ。俺はどんな下種でも俺がつきあいてェ奴と付き合う」
藤堂が目を伏せる。化粧筆で刷いたように一筋長い睫毛が震えた。藤堂の見た目はけして悪くない。とっつきにくさと藤堂の人見知りが慣れ合いを退けているだけだ。目鼻立ちや容貌は精悍ななりに整い可愛げもある。
「あんたの経歴はどうでもいいが、あんたが――」
ふふ、と卜部が笑う。いつもここに集約される。何度も何度も思っても口にしなかった言葉。
「綺麗なだけの人間じゃなくて俺は嬉しいよ」
俺は自分をそんなに気高く見ちゃいないから、あんたがあんたを汚いというならそれでいいと思ったんだ。
卜部の抱擁に藤堂は応えるのを躊躇するように体を震わせた。卜部を嫌っての反応なのか不慣れゆえのものなのか卜部には判らない。おずおずと爪先を這わせる動きに卜部の口元は弛んだ。卜部は体と感情の連動など疾うに見限っている。感情が連動するのは女だけだ。男は恋愛という手順さえ省いて体にたどりついてしまう。だから男同士であるこの関係が間違いであっても体に結びつくこと自体にはさほど驚かない。同性間での発散も可能というだけだ。もともと軍属は性別の偏りがあるから同性を発散に使用することも多い。
それでも卜部は、感情的に藤堂が己を好いてくれたなら嬉しいし応えたい。至らないことも承知している。両極端がせめぎ合う。好きだ、でも嫌い。嫌いだ、でも好き。藤堂が俺を想ってくれるなんて、なんて嬉しい。なんておぞましい。俺なんかを。俺なんか?
卜部の双眸は冷静に藤堂の震える肩を見た。感情の高揚さえ共有できない出来そこないがいる。
それでもあんたが欲しいと言ってくれたら、それだけで俺の存在理由が出来るような気がしたんだ
卜部の唇が弓なりにかたちどる。裂けるような笑みは哀しく静かに密やかに。ただ、くすくすと喉を震わせた。
《了》