優しくない
体の求めるままに
卜部は急ぎ足を止めて前方を見据えた。古風な構えの家屋が静謐に佇んでいる。卜部は無為に通信機器を取り出すと履歴を確かめた。しばらく前に所属の同じ朝比奈との通話で履歴は途切れている。朝比奈は無駄口を叩きながら最後に目的を告げた。意味深な一言は卜部を少なからず動揺させた。その後に唐突に告げられたのは藤堂の住所だ。賀状のやり取り程度はするから知っていると言えば朝比奈は行ってみればと気軽に応じる。不審を抱いた卜部に朝比奈が沈んだ声で一言告げた。オレじゃなくてあんたの方がいいんだ。理由を問う前に通話は切れた。
夏場は夜半になっても気温が下がらない。踏みしめる道は折々に昼間の暑さの名残を吐いた。頻繁な打ち水も湿度を上げるだけになっている。乾いた土が白く月白に照った。卜部は殊更ゆっくりと門構えの前に立った。流麗な筆で藤堂と名字だけ記した表札がかかっている。門は閂でも下りているらしくびくともしない。隣の潜り戸が軋んで卜部はそれに気付いた。軒燈が作る細い闇は暗く、不相応にひっそりとした家の不穏さを窺わせた。人を訪うには非常識な時間帯で、けれど藤堂の家に戸締りをした様子もない。呼び鈴を鳴らすのも躊躇する静けさであったから卜部は潜り戸を開けた。ひっそりとした静けさが庭木のさざめきさえない。雨戸も閉まっておらず硝子戸が開いているだけだ。屋内は暗く、人の気配もない。扉の取っ手を回したが開かない。施錠されている。卜部は合いカギの在り処も知らないから開いている硝子戸の方へ回った。
良く磨かれた縁側は仄白い月明かりに艶めいている。がらりと開ければ難なく開く。沓脱ぎに靴を脱ぎ捨てて縁側から上がり込む。
「お邪魔しますよ」
明かりはどの部屋も灯っていない。目を眇めると気配がある。唐紙や障子を開け放って月光を入れれば座敷に座り込んでいる藤堂がいた。部屋の明かりをつけることは何故だかためらわれて、卜部は安堵と不満を呑みこんだ。
「なにしてンだあんたァ。朝比奈の野郎が心配して」
つらつらと論っても藤堂は相槌さえ返さない。卜部は藤堂の異変に口を閉じた。藤堂は口数こそ少ないが喋らないわけではないし、話すことを厭うているわけでもない。卜部が上がり込んだことに対しての反応もない。茫洋と虚ろな眼差しは畳を見つめている。その衿が。
藤堂は道着のままだ。道場で教える立場にいる藤堂は面倒がらずに受け持ちの道場へ顔を出す。卜部も朝比奈も所属しているが卜部は行かなかったことを思い出した。今日、稽古日だっけと思いだしながら卜部は藤堂のもとへ膝をついた。下りた視界に映るそれに卜部の眉が寄った。藤堂は普段から弛みに縁もなく着付けにも隙はない。その衿は腹が見えるほどにはだけられ、腰紐もなんとか留めているという具合だ。なにがあったかはすぐ判る。ただ問題なのは藤堂はこうした理不尽に黙って辱められるような性質でも、またそれほど非力でもない。藤堂の戦闘力は群を抜いていて、朝比奈や卜部程度では相手にならない。通りすがりのゴロツキが藤堂をどうにかするなどあり得ない。ただ何事にも例外はあるもので。軍属という関係上、藤堂は望まぬ行為を強いられることもあり、累が他へ及ばぬなら堪えてしまうきらいがある。藤堂を無理矢理組み敷く相手がいるのは朝比奈もほのめかしている。藤堂に直接訊いたことはない。藤堂の問題であるし卜部がくちばしをはさんでいい関係のことではない。
返事も反応もない藤堂に卜部が息を吐いた。卓上灯をつければ藤堂の惨状があらわになった。腹部に散る痣は殴打の跡であり頬に走る裂傷が案外深い。乾いた血痕を爪で剥げば新たな血が溢れた。卜部はあたりを探して見つけ出した救急箱の中身で手当てをした。様子を見る限りでは帰りつくのがやっとで食事や入浴も済ませていないだろう。卜部は立ち上がって台所へ立つと軽食を拵えた。その間にも藤堂は声をかけることもなく、盆を抱えて戻った卜部の方を振り向きもしなかった。卜部は藤堂の分だけ食事を拵えた。蒸し暑く気怠さを帯びる夏場は食が細る。卜部も食事を摂っていなかったが欲しいとは思わなかったので用意はしなかった。
卜部は自分用に麦茶を持ち出した。藤堂の家では用意よく、いつも冷たい飲み物が常備されている。熱湯で煮だすだけの簡易的なものだがさほど上等な舌でもないから十分すぎるくらいだ。
「食わねェと死にますよ」
藤堂の肩がぴくんと震える。藤堂は何も言わない、決して。だがその堪えは傍から眺めることになる卜部や朝比奈に思いの外我慢を強いる。藤堂は体の向きこそ変えたが手を動かす様子もなく、血のにじんだ唇を動かすだけだ。
「いらない」
「へェそれって遠回しに死にてェって言ってンの」
卜部の悪口に藤堂が頷いた。
「そうだ」
言葉より早く振り上げられた卜部の手が平手打ちを喰わせた。手加減は平手であるということだけで打ち据える力は抜かなかった。藤堂の頬がみるみる腫れていくのが卓上灯の明かりだけでも判る。卜部の手が発作的に呑みさしのグラスを掴んで中身を藤堂にぶちまけた。ぽたぽた滴る滴を藤堂は拭うことさえしない。
「甘ったれんなよ」
立ち上がる卜部の腕がぐんと引かれた。重心の在り処を失って揺らぐ痩躯を藤堂は簡単に縫いとめた。
「なにッ」
言葉を発する間さえなく卜部の唇がふさがれる。渇いた感触と乾いた血痕の錆味がする。藤堂の舌は驚くほど柔軟に動き回って卜部の舌を吸い上げる。
「んッ…ふ…ゥうッ」
卜部が口付けに驚く間に襟が開かれる。ばりと裂けるような音がして釦が飛び散った。ベルトも手早く解かれる。すぐさま下着ごと剥がされて下肢があらわになる。藤堂の手は卜部の脚を容易く開かせて体をねじ込んでくる。
卜部は特に抵抗もしなかった。藤堂の口付けはついばむように軽いかと思えば不規則に深いものになる。指先が卜部の体を這い、触れる場所の熱によって深さが変わった。卜部はこの段に至って初めて意味ありげな朝比奈の言葉の真意を思い知った。藤堂の体にいつもの芯柱は感じられなかった。確固たる在り様を決定づける芯が今の藤堂にはない。痛烈な被害を受けた藤堂の体は肯定されることを望んでいる。卜部は藤堂との交渉においては立場を決めておらず、場合に応じて転換も可能だった。対照的に朝比奈は藤堂を抱きたいのだと明言し、抱かれる立場に甘んじる気はないと口にする。
藤堂の唇が卜部の喉を這い、胸を撫でて脚の間へ滑る。ぐぅと埋め込まれる異物感が内臓を押し上げる。卜部は何度か仰け反って澱を吐いた。藤堂の指先は卜部の裏の門を慣らしはしたが蕩かせる気はないらしくすぐに退く。察知した卜部の体が知らず震えた。何度か酷い目に遭っている身としては恐怖が先に立つ。
「ま…ッ待て、ッ」
あてがわれたという気配の直後にドンと視界が揺れるほどの衝撃を受ける。悲鳴を上げる余裕さえなく卜部はびくびくと四肢を痙攣させた。視界が深紅に染まって点滅する。いくらかの間をおいてから卜部は自分が白目を剥きかけていたことに気付いた。深い呼気に何とか深層の筋肉を弛めようとする。与えられた衝撃が退くのを待つほど卜部は楽天家ではない。藤堂に退く気はないらしく無暗に突き上げてくる。卜部の側がどうなっているか気にかける様子も素振りもない。ただ己がいいように卜部の体を犯しているだけだ。
「あ゛ッあァ、あ゛ぁあッ」
卜部の悲鳴さえ届いているか定かではない。藤堂はむやみに突き上げるが熱源はひどく冷静なままだ。
「待てッばかッ…」
卜部の喉がひゅうひゅうと笛のように鳴った。脚の間はひどく腫れたように熱を持って感覚さえ曖昧だ。それでいて痛みだけは脈打つように感じる。ぐんと藤堂が突き上げ、その拍子にぶつんと裂傷が走る。
「ひぃぎッ――…!」
びりびりと走り抜ける激痛に卜部の指先は不規則に痙攣を起こす。あげた悲鳴さえ認識していない。どろりと溢れる温い感触が血液であることを卜部は知っている。血液は体温と同じ温度であるから流動体である液体の感触しかなく、認識を狂わせる。
藤堂に卜部を思いやる余裕はないらしく律動の強引さは変わらない。卜部は黙って痛みを堪えた。眦へにじむ涙が視界を揺るがす。不規則に荒くなる呼気に藤堂は初めて気づいたように顔を上げた。
「うらべ」
「うるせェなァ判ってんのかよ、判ってんだったら」
身じろいだだけで痛みが走る。引き攣る表情に藤堂が結合部を見た。体液の混じりあったとこからはぷんと鉄錆の匂いがする。
「…すまない」
「ん、んぁあッ」
畏まる藤堂と裏腹に、器官は自覚を得てさらに膨張した。開くようなそれに卜部が啼けば藤堂が慌てる。
「いいってやれよ。どうせここまで来たら変わらねェんだよ、だったらイッて気持ち良くなってろ」
「だが」
「うるせぇ。あんたが仕掛けたことだ責任くらい取れ」
たじろぐ藤堂の唇を卜部が奪う。藤堂の頤を卜部の指先が撫で、首をたどる。卜部の脚が藤堂の腰を抱え込む。ぐちりと濡れた音をさせる結合部に藤堂が顔を赤らめた。
卜部の体内が藤堂の器官を締め付ける。ためらう藤堂に卜部はもう一度せかした。痛みなのか快感なのか判らぬ痺れが卜部の爪先までを駆け抜ける。その感覚だけはひどく心地よかった。
「風呂ォもらいますよ」
藤堂の私邸の浴場は湯を溜める方式だ。栓を開けておけば勝手に湯が溜まるので卜部は体を洗いながらそれを待つつもりだった。
「う、うらべ」
たじろぐ藤堂には平常の理知が戻っている。藤堂は卜部の大腿部を伝う深紅と白濁を気にしているに違いなかった。卜部は知らぬ顔で風呂場へ向かう。脱がされた衣服はそのままだ。拾っていったところでどうしようもない。卜部は浴槽に蛇口を向けている湯栓を開ける。水と熱湯との割合を調節しながらシャワーを使う。ごうごうと音を立てて溜まっていくのを時折窺いながら体を洗った。くしゃ、と石鹸の泡が手の内で弾ける。藤堂の喪失と獲得を間近に見た疲労が卜部に溜まりつつある。常に確固たる在り様を保つ藤堂の喪失は卜部にそれなりの衝撃を与えた。藤堂は食事さえ拒み、卜部の屈服だけを欲して動いた。
目の前で死にたいという感情を肯定された衝撃は尾を引いた。藤堂にそう思わせた過程への憎悪と同時に至らなかった己の無力感が苛む。頭から湯を浴びながら卜部は頬を濡らすのが湯なのか涙なのかさえ判らなくなった。奔る激情が藤堂に向けて発露したが、同時にそれは裡にも溜まった。その不安は藤堂がこの行為に甘んじる間は続くだろう。朝比奈はほのめかしていた。きっと一度じゃ終わらないよ。その言葉が重い。藤堂は己を毀すほどの何かを堪えながらそれを排除する気はないのだ。出来ないのかもしれない。己の裁量でどうにかなる事柄は案外少ないものだ。
ざあざあと溢れる水流の音に卜部が我に返った。慌てて栓をひねって止める。浴槽になみなみと張られた湯の透明度が無暗に鬱陶しい。洗面器で浴槽から湯を掬うと頭からかぶる。それで大方の泡は流れていると判じて浴槽へ飛び込んだ。ちりちりと傷に湯が沁みた。痛いような疼痛に目が潤む。溢れ出るその過剰な潤みが落涙を呼ぶ。涙が落ちたと認めれば情けなさが募ってさらに涙があふれた。ぼろぼろあふれる涙が湯に融けていくのを卜部は茫洋と眺めた。
「うらべ」
かけられた声にはじかれるように顔を上げる。道着をまとったままの藤堂がそこにいた。脱ぎ捨てれば藤堂の体に与えら得た痛手は明確になる。腹部や胸部に散っている痣は様々に変色していた。藤堂は膝をついて卜部と唇を重ねる。卜部が食わせた平手打ちで腫れた頬が痛々しい。気まずさも手伝って卜部は俯けた目線を上げなかった。藤堂は構わずに卜部の痩躯を抱擁した。馴染む体温の開放に卜部の方が戦いた。戦慄する卜部の涙腺や感覚器官は崩壊し、涙や洟は溢れるままに垂れ流されていく。
「ま、てッ待てッ! こん、なッ」
すすりあげればずびっと鼻が鳴る。情けないさまであると判るだけに余計に情けない。藤堂は厭うことなく卜部と唇を重ねた。
「すまない、うらべ」
藤堂の腕が震えた。その震えはひどく神経的で卜部の激昂は反射的に冷えた。
「わたしにはおまえがひつようだ」
そのまま藤堂の体が傾いだ。まずいと卜部が思った際に事態はすでに手遅れで、藤堂の体は湯船に飛び込んでいた。卜部の視界は断続的に湯の中と外を往復し、目まぐるしく入れ替わる。天地が入れ替わるような激しい転換と混乱を呼ぶ視界と感覚に卜部はただ喘ぐだけだった。ようやく出来るようになった呼吸にぜぇぜぇと喉を鳴らして喘げば、同じ浴槽に浸かっている藤堂がぎゅうと抱きしめる。
「すまない、面倒をかけていると判っている。お前の負担であると知っている。それでも、私は」
藤堂の腕は強く強く卜部のしなる背を抱く。
「私にはお前が必要なんだ」
指先が卜部の黒蒼の髪を乱す。頸をたどり、頸骨を撫でて痩せた背を撫でる。藤堂の体温は心地よく卜部に同化した。
「頼む。お願いします。おねが、いしま」
「馬鹿じゃねェの」
藤堂は笑った。卜部は体液が抑制を振り切って溢れ出る感覚に慌てることしか出来なかった。
《了》