塗り潰されるまで


   快い疲労

 板張りの床が足裏に張り付くような気がした。木刀の構えは解かずに摺り足で移動する。目の前の藤堂は動かない。静から動へ転じる際、どうしても隙が生まれる。藤堂がそれを見逃すはずもない。試合というには双方の戦闘力はありすぎる。だからこそ藤堂は他の門下生を帰した後に居残すようにした卜部に申し出たに違いない。手合わせがしたいと藤堂が言ったのだ。藤堂の部下についた際に卜部はこの道場の存在を知って顔を出すようにはした。藤堂の抜群の戦闘力の素因が知りたかったと言うのもあるし、武道に対する漠然とした憧れのようなものもあった。縁がなく経験もなかったが卜部はそれなりのすべと位置、実力を見出した。藤堂という位置の直属でいることに対する不服を黙らせる程度の頭角は現した。痩身で漂然とした卜部はどうも相手に見くびられる傾向があり、卜部自身は何度も実力でそれを覆してきた。文句をつける輩は実戦で叩きのめし目に見えた結果を突きつけてきた。禁忌なしの喧嘩でそれなりに位置を築いてきた卜部にはこの道場は窮屈な面もある。だからこそのこの状況である。見物を排除した藤堂の真意が見え隠れする。藤堂は卜部にある程度の選択の余地さえ与えた。
 互いに揺れない切っ先が据えられたまま、卜部は微調整を繰り返す。普段の稽古は防具をつける。防具なしで、しかも獲物を木刀にと望んだのは卜部だ。藤堂は想像がついていたらしく笑いさえしながらやはりなと呟いたものだ。卜部の眼差しは藤堂を見据える。藤堂の灰蒼は冷えて清冽に卜部を見つめる。卜部の皮膚にはじとりと汗がにじみつつあるが藤堂は平静であった時のまま、唇を湿しさえしない。指先どころか髪の一筋さえ揺れない。卜部の口の端が吊りあがる。藤堂は牙を剥き爪を突き立てる刹那を見極めている。どの瞬間が最も効果的であるかさえ藤堂はきっと知っている。藤堂と向かい合うだけで実力差は知れた。普段は驚くほど無垢で人の好い藤堂だが状況が変われば対応も変化した。状況と位置をわきまえ、同時に踏み違えない悧巧さが藤堂にはある。
 膠着状態に卜部の感覚は焦る。この焦りが己の未熟さであると知っている。だが同時にそれは動かし難い感覚であり、抑え込めるほど卜部は成熟していないと自認している。卜部の足が床を蹴った。背丈がある卜部はそれなりに四肢も長さがある。打ちこんだ木刀がガァンと打ち鳴らされる。目の前で交錯するそれにさえ藤堂は驚かぬ。そのまま流れる動きで打ちこんでくるのを察知した卜部が背後に跳んだ。ひょうと切っ先が卜部の鼻先を掠る。着地した勢いを殺さずに卜部は踏み込む。同時に体を沈めると頭上を藤堂の木刀が走った。低い位置のまま木刀を振るが藤堂にそれは読まれてかわされる。藤堂の衿をそよがせるだけで終わった一撃の隙を逃さず藤堂の木刀が振り下ろされる。握力を弛めた卜部の手の内で木刀は滑り、本来手で握る柄の位置でがんと藤堂の一撃を受ける。そのまま弾くように切っ先を握ったまま揮うと藤堂が一歩退く。藤堂が退いた際の瞬間で卜部は木刀を握り直した。
 「面白いことをする」
笑いさえする藤堂は空恐ろしい。卜部は首や頬を伝う汗に気付いている。掌握していないのに指先にはしびれが残るほど藤堂の一撃は強い。この手合わせは試合というより戦闘に近い。戦闘に禁じ手はないからあらゆる対応と処理を求められる。
「はッ、そりゃあ、どうもッ」
間をおく藤堂の体を追って卜部が踏み込む。だんと床を踏む音がこだます。ひねるようなそれに藤堂の灰蒼が瞬く。刹那、卜部は藤堂の木刀を巻き込むように打ち上げる。手元を狙うそれは搦め手だ。藤堂は素早い反射で痛手を避けるために木刀を手放し、卜部がそれを打ち払う。乾いた音が響き木刀が中空でくるくる回転する。
 卜部が体勢を持ち直す前に藤堂が動いた。とんと手のひらが卜部の胸部に当たる。次の瞬間、耐えがたい衝撃が卜部の体を吹き飛ばす。ドンという衝撃音さえ遠い。藤堂の手を離れた木刀がカランカランと床に落ちる音がこだます。手の平全体で卜部の体を飛ばした藤堂がはっと我に返るように揺れた。ぶれた卜部の視界と認識は情報が乏しく、衝撃による驚愕が意識を埋める。それでも卜部はたたらを踏みながら木刀を構える。一連の動作は反射に近く、卜部の意識には上っていない。獲物の有無による優劣さえ藤堂はその実力で覆す。低く腰を落とす構えは剣術より体術の攻撃に近い体勢だ。体術の明確な区別は卜部にはつかない。それでも素手の藤堂が繰り出した攻撃による被害が甚大であることだけは判る。
「す、すまない卜部、反射的に手が」
藤堂の闘気が弛んだ。刹那、卜部の体がどさりと床の上に落ちた。尻餅をつくような情けなさであることは自覚したがカタカタと四肢が笑って思うようにいかない。その時になってどっと汗が吹き出した。呼気も忙しなく胸部の膨張を繰り返す。ぱたぱたと滴る汗が尖った膝を覆う紺袴へ染みていく。
「…平気です」
 灰蒼が熱心に卜部を眺める。藤堂の視線の位置に気付いた卜部が笑いながら衿を乱した。浮き上がっている鎖骨や平坦な胸部が覗く。
「脱いでみせましょうか」
汗のにじんだ皮膚は雲母のように煌めく。血流の増加で皮膚も赤らんでいる。痩せている卜部の体の変化は目に見えているはずだ。案の定、藤堂は申し訳なさそうに目線を逸らしたがちらちらと卜部の方を流し見る。その頬や目元がほんのり紅い。困ったように眉を寄せているが灰蒼の双眸は興味を抑えきれず卜部に据えられている。藤堂の指先が緩やかに持ちあがり、卜部の火照った皮膚に触れる。躊躇を隠しきれない藤堂は未通女のようにうぶだ。卜部が藤堂の手首を掴んで押し当てる。
「もっと触ってくださいよ」
ひたりと触れる皮膚は汗ばんでいて互いの領域を曖昧にする。固く馴染まない亜麻色の道着が別離する。背筋や腰を汗が伝い落ちるのを卜部は皮膚感覚として感じた。
「きょうしろう」
卜部が名を呼べば藤堂の顔が赤くなっていく。そういう不慣れは逆に情を呼んだ。卜部は藤堂の手首を引きつけてから唇を重ねた。そのまま藤堂を押し倒す。
 「俺みてェなァ触っても楽しくねェでしょうがね」
笑いながら卜部は何度もついばむように口付けた。藤堂も明確な拒絶はしない。藤堂の手がおずおずと卜部の腰を這う。痩せた腰部は骨の在り処がたどれる。締められた腰紐を解く。紺袴が緩やかに卜部の脚を落ちていく。卜部の唇は藤堂の首を食み、舌先が喉笛を舐る。濡れた音をさせて卜部の舌先は藤堂の首を伝う。互いの濡れた吐息が皮膚を撫でる。火照らせる熱の性質は微妙に変わる。藤堂の指先は明確な意志を持って卜部の尻を撫でる。
「細い、体だ…」
抱き締めればその勢いに背がしなう。藤堂は汗を含んだ卜部の体躯を抱く。黒蒼の艶を帯びる髪を梳き唇を寄せる。耳朶をくすぐりうなじを撫でて頸をたどりながら頬へ流れる。
「巧雪」
汗で濡れた卜部の体は藤堂の指先に馴染み、火照った体は境界線を曖昧にし、領域を膨張させる。
「こうせつ」
卜部の意識はすでにその手を離れてとろけていた。藤堂の穏やかな低音はひどく眠気を誘う。藤堂との試合は予想以上に卜部を消耗させていた。卜部は蓄えの少ない痩躯であるから消耗する運動にはそれなりの心構えと準備が必要だ。抱きつくようにして押し倒し、頬を寄せる藤堂の体は心地よく火照り、そのぬくもりは眠りを呼ぶ。意識の弛緩は消耗を回復しようとする体の反応に抵抗できなかった。
「こうせつ?」
幼子へ確かめるように尋ねる藤堂の優しい声が耳朶を打つ。返事をしよう起きようと思うのに意識ばかりが焦り、体躯の方は反応しない。四肢は重く沼へ嵌まったように動かない。藤堂の温い体温は余計に脱力を呼び弛緩を引き起こす。応えようとする焦燥が熱量を消費する。過度の緊張を経た神経は弛緩の上に胡坐をかいている。鋭利な刺激であるならばともかく、温く包むぬくもりは増長しか呼ばなかった。卜部の意識はとろけてその位置が現実か夢かさえ曖昧になって行く。
「きょ、う、…し、ろ」
唇を動かすことさえ億劫だ。閉じかける茶水晶に気付かずに藤堂は不思議そうな顔で卜部の四肢を撫でている。
「こうせつ?」
普段が人を寄せ付けぬ藤堂であればなおさら受け入れは甘美だ。藤堂の通常を知っていればなおその差異に気付くし魅せられる。藤堂は受け入れると極めればその歪みでさえも呑みこんでしまう。矯正も是正もしない。それが相手のなりであると丸呑みにする。藤堂の許容は同時に罪悪感さえ孕んだ。
「ばか、やろう」
「巧雪? 起きているなら体を」
卜部の体は意識だけ起き上がる。起き上がって藤堂をはねつけて戸口へ向かうと言う感覚と視界であるのに、卜部の体は重く藤堂の上に沈んだままだ。見慣れた風景であればこそ空想もたやすく、意識の混乱と錯覚を呼ぶ。卜部は自分の意識と感覚の位置さえ見失った。視点の喪失は微睡みの最中と酷似した。眠っているのか起きているのかさえ曖昧に、ただ目の前に展開していく景色を眺めた。藤堂の声や叱責が遠い。
「こうせ」
「…も、だめ」
ことりと卜部の意識は暗転した。ただ温い微睡みだけが卜部の体躯を包み、四肢を撫でた。

 「こうせつ?」
藤堂が起こすままに卜部の体が垂れる。すっかり意識を喪失しているそれは眠っている。藤堂はふぅと息をつく。のしかかる重みさえ気にしなければそう不自由でもない。卜部は痩躯であるから藤堂に極端な負担を強いたりはしない。藤堂は緩慢に卜部の手首を眺めた。袖を絞った道着から伸びる腕や手首は驚くほど細い。足首の細さや尖る踝など明確に浮かび上がっている。半ば脱がされたままで眠りに落ちている卜部に藤堂は微笑んだ。
「ばかはおまえだ」
眠りによる弛緩は四肢をだらりと伸ばす。関節の思わぬ柔軟さを見せつけられてたじろぐのはこんなときだ。意識という制約を失くした関節は物理的な駆動に絞られる。自意識という制限を失くした体は当人が思うよりずっと柔軟に動いた。だがその弛みは重量にも影響を及ぼし、純粋な物体としての自重がのしかかる。力の抜けた体は思いの外、重たいものだ。相手に軽減の意識がない分遠慮もない。
「こうせつ」
藤堂の腕がぎゅうと卜部の痩躯を抱きしめた。卜部の細い腰や脚が窺える。総じて卜部は体躯や四肢が細い。偏食をしているわけでもないと言うそれはおそらく体質なのだろう。どれほど食べても太らぬ体質というものはある。だが卜部の体躯はどれほど藤堂が気にしても病的な位置を抜けない。卜部は付き合い方を確立しているようで藤堂の意見など聞き入れないから余計にその程度がひどくなる。もっと食べろと言っても卜部は簡単に要らぬとのける。藤堂に出来るのは倒れた際にそばにいて処置をしてやることくらいだ。
 こうして卜部の体調を案じることが消極的な侵略であることを藤堂は知っているし気付いている。自然と気遣う憂慮の対象が卜部に定まり、その意識が卜部に染められていく。冷えれば卜部は温かくしているだろうかと思い、暑ければ水を呑んでいるだろうかと思う。卜部の侵蝕は心地よくそれゆえに始末が悪い。そのあたりの変化を卜部は意識的に避けている。それでも藤堂のそれは卜部に塗りつぶされていく。
「こうせつ」
力の抜けた体躯に藤堂はキスをした。

真剣勝負だ。
さぁ、刀を抜いて私に向かって。


《了》

わりと楽しかったとかね! 剣道は見聞きした程度しか知識がありません。          2010年7月26日UP

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