味わうように緩やかに


   浴場での睦言

 朝比奈がどうしても訪いたいと言うから藤堂はそれを承知した。藤堂は朝比奈の目的へ向かう過程に訪いが位置すると思っていたが違うようで、朝比奈は藤堂の家に上がりこんだが特に急くこともなく藤堂とともに庭の世話や食事の手伝いをして過ごした。梅雨明けした途端に軒並み高温の日が続き、藤堂も細々とした家事が滞りがちであったから、朝比奈の訪いをきっかけに済ませた。気の弛みは手ぬかりを呼んで思わぬ場所の状態に恥じ入る。朝比奈は特に嫌味も指摘もなく藤堂の指示するとおりに作業した。藤堂がふと目線を上げれば朝比奈が草むしりをしている。曲げていた体躯を伸ばしてうーんなどという声が聞こえる。日差しもあるし体力的な面から藤堂は朝比奈に屋内の作業を任せたかったが朝比奈が譲らなかった。炎天下での作業に対する体力差を説く藤堂に朝比奈は平然と、藤堂さんが住んでいる家なんだからと応じなかった。藤堂さんが使うんだから抽斗の中身は藤堂さんが把握してないとだめでしょ。当然のように言って朝比奈は庭いじりを始めてしまった。変なところで真っ当な意見を言われた藤堂は勢いに負けて仕事の割り振りを朝比奈に任せてしまった。
 引っ張り出した麦藁帽子が奇妙に馴染んでいるのが不思議だ。首にタオルを巻いて軍手をはめ、満足げに庭を見ている朝比奈はまるで見習い小僧だ。両親が健在であった頃はそれなりに専門家の手にゆだねられていた庭も藤堂の代になってからは矯めも利かせず手も入れず、好き放題に蔓延っている。日常の彩りとして多少花を生ける程度しか心得がない藤堂は庭への干渉を諦めた。芽吹いたそれが鳥たちの落とし物なのか従来庭に根を張るものなのか区別がつかぬから取り除かないだけだ。
 家の中は硝子戸や唐紙を開け放っていても蒸し暑い。風が吹けば多少は過ごしやすいのにと思うが高温多湿な気候を特徴とするこの土地柄、肌へ感じるほどの強風は案外少ない。台風の強風が珍しいがあれはもれなく雨を伴うので遠慮したいところだ。蒸した気温に雨が降ると湿度が上がるだけでむしろ体力を削る。湿度の高さは想像以上に体力を消耗させるものだ。
 ある程度の目処がついた藤堂は風呂場へ行くと湯を張った。熱湯と冷水の蛇口を開いて具合を見ながら調節する。朝比奈や卜部は古風でいいなどというが工事をするだけの時間を取らないだけの怠りである。壊れたならば直そうと思うが利便性のために動くものを取り換えようとは思わなかった。壊れたならば新しくしよう、と心で思いながら日常的に使用する。旧い家であるから風呂場が広い。細々した準備を整え、湯の具合を見てから縁側へ向かう。朝比奈は草むしりを終えたらしく抜いた雑草の始末をしていた。熱い日の日暮れは唐突だ。長く間延びした白光が照っているかと思えば瞬く間に日が落ちて暗くなる。それまで灼けつくほどに照る日差しに慣らされていた目は追いつかずに思わぬ暗さに驚くことがある。同じ夜の暗がりでも冬と夏では全く貌が違う。藤堂は朝比奈に声をかけ、彼が振り向くのを確かめてから、作業を途中で止めても構わぬことと食事を用意するから食べていくようにと伝えた。朝比奈がにッと全開の笑顔を見せてはぁいと元気に返事をした。暑さで消耗していないらしいことに安堵しながら藤堂は台所へ立った。

 「ごちそうさまでした!」
パンっと軽快な音を立てて手を打ち合わせる朝比奈に藤堂が笑う。
「お粗末さまでした。風呂が立ててあるから先に入りなさい。少し温いかもしれないからその時は湯を注げばいい。方法は知って」
食器を片づけながら言いつける藤堂を朝比奈がじぃっと見上げてくる。藤堂はきょとんと朝比奈を見た。見上げてくるのは朝比奈との身長差の関係上どうしてもそうなる位置だ。これが卜部であったなら見上げる見下ろすに感情も判るのだが朝比奈の丈では見上げるしか手段がない。
「ねぇ藤堂さん、オレ待っているから一緒にお風呂入りましょうよ」
「私などが入ったら暑苦しくて仕方がないだろう…一人でゆっくりすればいい。湯船に入るのを好まぬならシャワーだけにして放っておいてくれればいいから」
「藤堂さんと一緒がいいな」
朝比奈は藤堂が無下に退けぬことを知っているからこそ強気に出る節がある。幼いころから付き合いがあって互いの気心も知れている分、図々しくなる面がある。子供が母親の無条件の慈愛を知って我儘を通すのと似ている。受け入れと関係の維持をある程度前提とした自己主張だ。
 藤堂の家の風呂場は少し広めであるから男二人が入っても支障はない。藤堂は朝比奈の意図が読めぬままに黙り込んだ。挑むように見上げてくる朝比奈の双眸はぎらつく。
「…判ったから先に入っていなさい。私が行く前にすんだならそれで構わないから。着替えを用意する」
食器を重ねのせた盆を抱えて藤堂はその場を逃げた。その背へ朝比奈の軽妙な声が被る。
「待ってるからね。逃げたらひどいんだから」
何が酷いのかは明言されずとも判る。頬を赤らめる藤堂に朝比奈はけらけら笑う。
 食器を流しへ浸けると藤堂はそのまま箪笥を開けて二人分の浴衣を用意する。藤堂の家で寝泊まりするときは自然と和服を使用する了解がある。不満を言われたこともなく使用者の身長をあまり選ばぬから和服を使う。和服は着付けである程度の融通が利くので重宝している。藤堂は脱衣場に散乱している朝比奈の衣服をまとめて脱衣籠へ押しこむと自らも裸身になる。からりと戸を開ければ湯船の縁に腰かけていた朝比奈がパッと顔を輝かせる。微妙な違和感を感じすぐに思い当たる。眼鏡がないのだ。朝比奈は眼鏡を常用しているから眼鏡のない顔立ちは新鮮で面映ゆい。藤堂が来る前に洗浄は終えたのか髪が重く湿って緑青に鈍く艶めく。
「温いか?」
「大丈夫。それより鏡志朗さんってホント綺麗な体してるね」
互いに肌を隠すようなものはない。そもそも一線を越えている関係であるから隠す必要もない。礼儀として必要かと逡巡したが公共の湯場ではないから構わないと藤堂は決めつけた。見苦しいと言われたならば改善するつもりだ。朝比奈の目線は舐めるように藤堂の裸身を撫でる。
 藤堂は軍属である肩書を疑わせぬほど出来上がった体躯だ。腕力や敏捷性も劣っているとは思わない。朝比奈の方がむしろ学生じみた身なりであり、意外でもある。朝比奈の体躯にはまだはにかむような丸みがあり筋肉を作りつけるだけの猶予がある。胸部からすんなり伸びた腹部や腰部は女性のようになだらかだ。藤堂のように腰骨の尖りも目立たない。皮膚も白く、化粧をしたなら映えそうな面差しでもある。性差の境界線の危うさを内包した朝比奈は藤堂が目を見張るほどの無茶さえする。はらりとかかる前髪を払いのける仕草は気障だ。それでもその動作が馴染むだけの地盤を朝比奈は有している。
「逆上せる前に出なさい。私は気にしなくていいから」
額に触れる藤堂の手を朝比奈はわざと掴むと口元へ運ぶ。ちゅくと濡れた音をさせて吸いついてくる。藤堂はきょとんと朝比奈を眺めるだけだ。浴室は密閉性があるから湿度は思ったより早く上昇する。触れ合う皮膚さえしっとりと湿った。藤堂は小首を傾げてからそれを振り払うとシャワーを使う。朝比奈に退くよう目線で促したが朝比奈はそれを無視した。
 頭から浴びる流れに藤堂の髪がはらはらと散る。うなじや額へ吸いつくような髪は鳶色から黒褐色へ色を変える。水流はすぐに噎せるような水蒸気を帯びる。温度も高いそれは肌へまとわりつくように浸透してくる。
「鏡志朗さんッて、綺麗だね」
目を向ければ朝比奈は湯殿へつからず縁へ腰かけたままだ。折り曲げた脚の仄白さが奇妙に目を惹く。朝比奈は軍属という粗暴さを感じさせない色白さを保っている。だが同時にその肌理の細やかさは朝比奈の性質とは比例しない。朝比奈は手入れを怠らず、手入れの出来と生来とを明確に区別した。
「省悟」
藤堂の手がシャワーを止める。濡れ髪をかきあげる藤堂に朝比奈がぶつかるように抱きついた。朝比奈の指先は藤堂の体に残る傷痕を丹念にたどる。銃創や深部へ至る切り傷など、藤堂の体には様々な歴戦の証がある。完全に治癒していても皮膚を抉ったなりに深く刳れたそれらは感覚がじかに響く。
「しょう、ご…!」
朝比奈の肌がひたりと吸いつく。仄白いそれが藤堂の皮膚の上で蠢くのは扇情的だ。眼鏡を除いた朝比奈の面差しは幼く、それ故に倒錯を引き起こす。藤堂の内部では劣情より強く保護意識が働く。
 「ふふ、すごく色っぽいんだから。今すぐ脚を開かせて犯してやりたいくらいだ」
粗暴な行動を列挙しながら朝比奈の身なりはそれらを感じさせない出来だ。直感や行動より思考や経験に重きを置くように見える身なりであり、朝比奈自身をそれを承知している。そのうえで直感や行動を先行させるのだから性質が悪い。
「しょうご?」
朝比奈の指先はするりと藤堂の腰部を撫でる。臀部に至るまでの腰のくぼみをなぞりあげ、脊椎をたどる。ぞくぞくと走る感覚に藤堂は身震いした。含んでいる水分はシャワーのそれだけではない。つぅうと撫でる朝比奈の指先の動きは背筋を直接なぶる。震える腰を抱きこむ朝比奈がふふっと吐息だけで笑った。
「きょうしろうさん…」
ちゅ、ちゅく、と濡れた唇が傷痕をたどる。押しつけるように舐る舌先の濡れ具合に藤堂は身震いした。
「綺麗だよ、綺麗だ。鏡志朗さん、この体ほかの誰にも見せないで? こんな体見せられたらその気がなくったってその気になっちゃうよ、だからオレだけにして。綺麗だよ、綺麗だ…」
ブルッと猫のように身震いする藤堂は朝比奈の手を緩慢に退ける。退けることに目的を見出さないそれは儀礼的な動作だ。朝比奈も知っているかのように退かない。朝比奈は浮かされたように綺麗だとつぶやいて唇を寄せる。
 「綺麗などでは、ない」
「じゃあ色っぽい。とにかくすごく、すごく気を狂わせるんだよ。だからお願いだから」
口づける唇の狭間から舌先が覗く。ねとりと濡れるそれに藤堂は震えさえしない。朝比奈の唇は紅でも指したように紅く澄んでいる。色白のものに特有のその紅さは肌の白さと対比も鮮やかだ。熱っぽく火照ったように紅いそれは目蓋に灼きついて離れない。朝比奈の稚気は行動だけではなく身なりにもうかがえる。紅く澄んだ唇や仄白い目蓋など未成熟な幼さは見てとれる。一見すると黒髪に見える暗緑色の髪や、その長さへのこだわりは明確な指針を持てない朝比奈を映すようだった。朝比奈の四肢はまだ伸びしろを含み、骨格の形成も完成してはいない。藤堂に出来るのは朝比奈が望むままの態度を示しながら決定打は朝比奈が正気を取り戻すまで避けるくらいだ。いずれ真っ当な道に戻った際に負担になることは避けたかった。
「今だけだ。お前は今だけ迷っているんだ。だから、止め、て」
「迷ってなんかない。オレはあなたを好いたことを後悔しない。間違いだとも思わない」
朝比奈のその誓いは子供が語る将来の夢に等しい。いつ何時変わるとも知れずそれでいて真摯だ。藤堂は灰蒼を眇めた。涙が溢れそうになるのを堪える。朝比奈が心変わりをしても責める気はなかった。人が生きるうえで迂路を介することは少なからずあるのを藤堂は知っている。
 「本当だよ。本当に本当に、あなたが大好きなんだ。あなたが欲しい、あなたしかいらない。鏡志朗以外の人間なんていらない、滅んでしまえばいいんだ。あなたさえいればオレはどのくらいでも生きていける」
朝比奈の言葉は荒唐無稽でそれ故に甘く、呑みこんでしまいたくなる。
「あなたさえいればオレはいい。生きていける。好きだよ。好きだ」
朝比奈の声は泣き声にも似て。
「ねぇ本当だよ。真実って奴だよ。オレにとっての真実はあなたであなた以外の何かなんて要らないんだ。あなたがいてくれればそれだけでいい。オレのことを好いてくれないあなたでもいい。あなたが、いれば」
朝比奈の頬が藤堂の背に擦りつけられる。泣きだしそうに震えるそれを藤堂は拒絶できない。
「オレのことを好いてほしいなんて我儘言わないから。だからせめて。オレがあなたを愛することは赦して」
ぎゅうとしがみついてくる朝比奈の腕は細い。仄白く照るそれを藤堂は茫洋と見つめた。皮膚を覆う水分は互いの体温の交錯を助長した。浴びた水流越しに朝比奈の高温を感じる。朝比奈の四肢は子供っぽく火照る。
 「しょうご」
藤堂の背にぎゅうとしがみついてくる。それは抱きしめたいと言う欲望のほかに泣き顔を見せぬ意地でもある。朝比奈は藤堂に対しては外聞を構わない。それでも見せられぬ泣き顔は存在する。朝比奈はそんな時はいつも藤堂の背に伏せて泣いた。藤堂が見えぬ位置で泣く。それは朝比奈の意地と自負と、気遣いでもあった。
「しょう…ご」
だがそれでは藤堂は抱きしめられぬ。可哀想にと頭を撫でることさえできない。藤堂は黙って沁み込む涙を感じるしかすべがない。
「省悟」
藤堂の背に沁み込む涙は冷たい。背筋を震わせるそれに藤堂は黙して耐えた。

きみが、すきです。
世界中の誰よりも何よりも。君が。


《了》

もっとギャグのお話になる予定だった!(ちょっと待て)              2010年7月19日UP

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