肌に絡む熱気
濡れた弛み
蜜のように絡む空気は体温以上の熱を帯びているかのように熱く、その被害は体の深部に及んだ。衣服を取り換えたり建具を開け放つなどの対策を講じるものの毎年のように繰り返されるその気候がこたえる様子もない。例年通り梅雨に入り降雨を繰り返す天気が続く。藤堂が用意した飲物はすでに温んできらりと結露する。硝子面を撫でる滴は確実に滴って卓上に水輪を残す。卜部の手首が緩慢に団扇で風を送る。殊更力強くも動かないがか弱くもない。暑さで気が倦んでどんな些細な運動でもする気が起きない。藤堂は特に変化も起こさず黙っている。卜部は倦怠のままに投げていた目線を庭へ戻した。針のように細い雨が長く続いている。それでも時折、一時に強く降っては止むのを繰り返すから夏は近い。白雨は夏の風物詩だ。晴れた空に暗雲が立ち込めれば雨も近く、間をおかずに強く降る。それでも時が過ぎれば嘘のように晴れて濡れた体を乾かした。
降雨の微音は耳の奥で鳴っているかのようだ。拭おうとして孔へ指先を突っ込もうが構わずに殷々と響く。団扇の風は気休めでしかない。滞りがちなそれに効果はなく絡みつく湿気さえ払えない。
「なァ」
行儀悪く胡坐をかいても藤堂は叱りもしない。浴衣の裾が割れると文句を言っても卜部が直さぬから藤堂も言わなくなった。
「あんたァ暑く、ねェのか」
「暑いが」
縁側の板張りは皮膚に吸いつくようにしっとりとしている。庭の飛び石が濡れた艶を帯びて輝いている。卜部は浴衣の袖で汗を拭った。どうせ汗で汚れているし、汚したなら持ち帰って洗濯するだけだと開き直っている。だが持ち帰っても浴衣の洗濯の仕方など知らぬから専門店へ丸投げする。編み物のように縮んでも困る。察した藤堂は置いてゆけというが甘えてばかりもいられない。
「風呂を使うか?」
「…ふやける」
風呂は使ったばかりで追い焚きすればすぐに入れると藤堂が言う。それでも濡れ髪はすでに生乾きの状態にまで渇いている。
卜部は臆面もなく藤堂を見つめた。涼しげな表情の顔立ちは時に威圧感を帯びるほどにきつくなる。所属に恥じぬだけの身形である藤堂の威嚇はそれなりに実績がある。精悍と言っていいほどの顔立ちであるのに、気を赦したものには思わぬ落差さえさらした。閨での艶やかさと料理が美味いと言われた時の綻ぶ笑顔はまったく次元が違うのに藤堂というくくりにおいては同居した。鳶色の髪を後ろへ流し口元は引き締まって見苦しくもない。案外印象的なのはその双眸で灰蒼をしている。肩口へなだらかに続く首筋の線は涼しげで余分な力みもない。浮き上がった鎖骨や駆動部の柔軟さには目を見張る。ある程度の運動を怠らない藤堂は余分な脂肪や弛みとも無縁だ。細身に見えるが鍛えるべき個所に手ぬかりはなく、引き締まっているから細く見えるだけなのだ。目方などは計測すれば並みにある。
飲み物を呑む仕草さえ無駄な動きもなくすんなりとこなす。それでも卜部はこの鉄壁を崩す唯一の方法を知っている。ざりざりと音を立てて畳を膝でこすりながら躄っていく。藤堂の眉根が寄るが気にしない。体温の余熱が感じられるほどに近づいてから手を伸ばす。衿から滑りこませるように手のひらを藤堂の胸に当てた。規則的な鼓動とわずかな動揺の発汗が判る。藤堂の目線は卜部の耳や首筋を移ろい、衿元にとどまり開いた胸元を見つめる。卜部は浴衣になっても暑がって衿を乱す。胸骨の在り様が窺えるほど薄い胸に藤堂は熱心な眼差しを向ける。卜部も判っているからさりげなく衿を開いて誘う。藤堂が理由を問えば暑いのだと決まりきった返答を繰り返す。
「暑いならば縁側にいなさい、風通しが良いから」
「なァ却って汗かくことォすれば涼しくなるってなァ本当か試しませんか。あんたとならいいな」
卜部が唇を近づけると藤堂は強く目蓋を閉じる。怯えたような震えは期待に満ちていて卜部は意地悪く笑んだ。胸へ這わせていた手を滑らせて藤堂の頬を撫でる。指先が揶揄するように唇をたどる動きにさえ藤堂はびくびく震えた。藤堂は卜部の言葉を確実に理解している。言外に含ませたことさえ判る明敏さに反発するように藤堂自身はうぶだ。卜部の熱っぽい吐息やなぞるような動きを繰り返す指先に藤堂は身震いした。
「う、らべ」
途切れた声で名を紡ぎながら次の瞬間には唇で声を塞がれることを消極的に望みさえする。卜部は藤堂の焦燥を知っているかのように急ぎもせずゆったりとした動作を繰り返す。藤堂の衿を弛めた胸元へ息を這わせながら卜部はけして無理に触れない。吐息を感じた藤堂の体がびくびく跳ねる。ぬるりと濡れた舌を這わせれば吐息交じりの甘い嬌声が漏れた。
「なんだ、期待してた?」
「――ッして、ないッ! してないッ」
一瞬で耳や首筋まで真っ赤に染まる藤堂の肌はいっそ愛らしく官能的だ。
「なんだか少ししょっぱいな。汗かいてる」
「当たり前だッ暑いと言っているだろう! もうよしなさい、こんな、こと」
それでも卜部を押しのける藤堂の力は平素が疑わしいほどに弱弱しい。卜部は意地悪く笑んだ。
「やめて、いいんだ」
「…含みがある言い方をする…」
「わざとですから」
悪びれもしない卜部に藤堂の肩から力が抜ける。藤堂の灰蒼が恋うように卜部を見つめる。熱心なそれは恋愛感情にも似た。卜部はわざと無視すると藤堂の鎖骨の間を押した。くぼみへ嵌まるような感触と気道を詰める手応えに暗い笑みが浮かぶ。藤堂は息を詰まらせて咳き込んだ。
「鏡志朗」
そのまま卜部の体が傾いだ。藤堂は恭順するように目蓋を閉じる。一連の動きを見つめていた卜部の口の端が吊りあがる。藤堂の予想していた柔い感触もなく時が過ぎる。おずおずと震えて開く目蓋に卜部は堪えきれずに噴き出した。
「う、うらべ?!」
ヒィヒィと喉を鳴らして笑い続ける卜部に状況を悟った藤堂が赤面した。耳だけでなく首筋まで紅い。
「ばッこのッ…馬鹿者ッ!」
卜部は今度こそ遠慮なく声を上げて爆笑した。藤堂の憤りと同時に期待感が判る。行為に流されてきた藤堂にとって卜部の兆候は行為の開始に値するものだ。卜部もそれに気付いているからあえて兆候だけにとどめた。藤堂の羞恥や期待は予想通りだ。
「いやァ期待されてンならしねェわけにはいかねェですよねぇ」
「するな馬鹿者ッ! 水でも浴びて、頭を冷やせ」
「そんなこというけどほら」
卜部の手の平はしっとり馴染む。羞恥と暑さに火照った藤堂の皮膚は汗ばんで境界線を曖昧にする。
卜部の体温の心地よい侵蝕に藤堂がたじろいだ。藤堂にとってその侵蝕はけして不快ではなく、そのことが却って困惑を呼んだ。困りきった顔で言葉に詰まる藤堂に卜部はカタカタと振動するように笑った。
「まぁそういうあんたも嫌いじゃねぇけど」
そのまま唇をついばめば藤堂が震えている。呆気にとられながら卜部はこみ上げる笑いを殺さなかった。藤堂の開いた目蓋が震えている。潤んだ灰蒼が覗いて蠱惑的に揺れた。紅く色づいた唇や痙攣的に震える喉仏がの尖りなど藤堂の体は端々に至ってさえ観賞に耐えうるものだ。
「あんたァ本当に傾城って奴だな、城どころかァ国が傾くぜ」
訳が判らぬなりに藤堂は咀嚼している。何拍かの間をおいてびっくんと跳ね上がる。遅い。指摘するのも面倒で卜部は故意に見過ごした。うだる暑さは感覚を鷹揚にする。
藤堂と半ば融けるような交渉を行っても暑さは退かない。融解を促すかのように熱さは限度を知らず温度を上げていく。藤堂の体の火照りが熱さによるものなのか交渉によるものなのか判断がつきづらい。どちらか判らないという事態はどちらでも構わぬといういい加減さを呼んだ。これで藤堂が断絶を言い渡しても困るのは卜部だけであると思えば余計に未来などどうでもいい。
「うらべ」
畳の上に倒れ込んだ藤堂の腰が細い。乱れた衿は帯の緩めを必要としない。割れた裾から覗く長い脚は蠱惑的だ。固い感触の膝を掴んで開かせるのを藤堂は黙って従う。脚の間に体を滑り込ませてから卜部は笑んだ。
「暑いな」
「すまない」
「あんたが謝ることじゃあねェと思いますけど」
藤堂がきょとんと小首を傾げる。うなじにはらはらと散る鳶色の髪の色は透けた。藤堂も暑さは感じているらしく皮膚は汗ばんで湿っている。張り付く浴衣や髪をはがしてやると虚ろに礼を言う。膝を割ることに関しては何も言わない。従うだけで礼も言わなければ不服も言わない。それでも期待しているかのように身じろいでは手脚をひきつらせる。びくびくとした震えのそれは明らかに交渉を前提としていた。
止めようかなァ。喉元まで出かかった揶揄をなんとか呑みこんだ。止めると言ったら藤堂の性質から見てそうかと言って引きさがりかねない。藤堂は己の状況より相手を優先するきらいがあるから、己の体がどんなに発散を望んでいても相手の気が乗らぬとなったら堪えてしまう。藤堂に我慢を強いることは卜部にとって禁忌だ。だがその禁忌は時に甘い毒となって卜部の意識を苛んだ。
「うらべ?」
「何でもねェです」
卜部は藤堂の唇に吸いついた。融けるように舌が絡む。
ただこの暑さの中で君が在ればいいと思うんだ。
《了》