何も訊かない
何も言わない
でも、一言だけ
痛いなら痛いと言ってほしい
隠しの中で合鍵は重く鳴った。互いに合意の上で交換した。照れくさそうに困ったような顔で鍵を渡す藤堂の顔さえ浮かぶ。必要になるかもしれないから、と前置いたそれが藤堂の危険信号であったのを卜部は見逃した。藤堂は卜部と付き合うようになってから朝比奈を離すようになった。それも変化ではあった。お前に会いたかった、少しさみしかった。藤堂の淡い愚痴は明確な危機警報であったことに気付くことに卜部は時を要しすぎた。卜部は控えめに藤堂と表札のかかる門扉の前で息を調える。備え付けの呼び鈴を鳴らす。予期してはいたが反応はない。扉を押したら開いたので入り込み、用心深く閉め直す。藤堂が帰宅するだろうから施錠はしない。灌木や高木の茂る庭先を抜けて玄関先へ急ぐ。飛び石を蹴る足が遅い。堅牢な鍵の手加減に時間を要したが何とか開けた。家のなかはしんとして人の気配さえない。
お邪魔しますと声だけかけて上がり込む。初めて訪う家ではないし何度か泊まりもしているのである程度は把握している。藤堂と卜部は互いに泊まりあう仲にまで発展した。藤堂の寝室を開けて夜具を用意する。微かに焚き染めたような樟脳の匂いが藤堂の細やかな性質を窺わせた。軍属と言う粗暴な所属に反して藤堂は繊細だ。見よう見まねで用意した夜具を確かめてから風呂場へ向かう。水回りの使用法の違いは案外その家ごとに差があるものだ。一瞬迷うがすぐに湯を用意することにした。藤堂の状況を考えれば風呂場へ直行することさえ考えられる。準備を整えるうちに時間は過ぎて藤堂の連絡から目安となる刻限になる。
卜部は居間で呆けながら連絡をよこした藤堂の声を思い出した。藤堂は立場上頼られることも多く、滅多に弱みなど見せない。そんな藤堂のさまは眩しくて目を灼いて、卜部は惚れた。だから好きだと告げた。朝比奈が自宅に出入りしていることも知っていたし、受け入れられるとも思っていなかったからあからさまに体をつなげる方の好きであるとも告げた。藤堂はそれを受諾した。だが、と藤堂は言葉を濁した。付き合いを持続するうえでこらえて欲しいことがあることも藤堂は告げた。朝比奈との関係は断てないこと。だが藤堂のそのさらに奥にもっと厄介なことを抱えていた。体をつなげるだけの関係である人間がいてそれが誰かは明かせぬ、関係も断てぬ。私にそんな権限は、ないんだ。哀しげにそう言った藤堂はひどく儚くて、だから卜部は構わないと返事をした。断てぬ付き合いがあることくらい卜部の年齢であれば知っている。自分だけを見て欲しいと我儘を言うつもりもない。だが藤堂が片鱗をみせてくれたその関係は卜部の想像以上に悪質だった。
不定期に藤堂が要請してくる寝床の用意。疲れる仕事があるのだと言った藤堂はひどく倦んだ。その連絡を受けている際に苛立たしげな声がして藤堂が慌てて息を呑んだ。その時の呟きを卜部は忘れられない。
閣下
軍属でも高位に位置する藤堂にその敬称でもって呼ばせる人間など限られている。加えて藤堂の家から消えぬ朝比奈の痕跡は想像以上に卜部の忍耐を強いた。朝比奈の着替えは過去のことであると判ずるには手近に取り出せる位置にありすぎる。都合のいい位置にいるだけで利用されているだけなのかと思ったことは少なからずある。殊更に美点があると自身も思っていない卜部は、割合いい人で終わることも多い。
居間からは庭が見えた。湧水らしい井戸は、埋めるつもりなのだと藤堂は言っていた。水道は地下に別口であるし、井戸の口を開けておいて子供でも落ちたらことであると心配していた。厳重に塞がれている井戸は微妙に植物が絡んで隠れた。薄紅や白い花がちらほら咲いている。卜部は詳しい花の種類など知らないから名前も知らない。藤堂も落とし物と従来のものを区別しないので庭先は豊かに花や枝が養生する。落葉樹など掃除の手間が要るだろうにと思うが藤堂は除去しない。偶発であっても事態を受け入れる藤堂の気質にも通じる。ただその受け入れに寛大すぎる性質は厄介や諍いを呼んだ。交渉をもったから恋愛も成立していると思う馬鹿はいるもので、知らぬ輩が藤堂の不義理を責める場面に何度か出くわした。藤堂の毅然とした態度はたいてい傲慢に映り、相手は失望と怒りを抱えて退散する。その数の多さが藤堂の隠しごとの内容を窺わせる。同時に閣下と敬称で呼ばせる存在を考え合わせれば、理不尽な交渉がそこでは行われている。
「馬鹿じゃねェのか」
藤堂にそういった厄介や面倒を訴えている片鱗は見られず、呑みこんでいるに違いない。理不尽を強いるのはその閣下であるはずなのに藤堂は面倒な結果を伝えてはいないのだ。卜部はごろりと横になった。畳の植物的な香りがぷんとする。卜部の奥底で焔が燃えた。ちりちり焦げるそれはなかなか消えない。
がたり、と玄関の方で物音がして卜部が飛び起きる。時間帯を考えて呼び鈴を鳴らさない彼の性質が苛立たせる。駆けつけた玄関先で藤堂はうずくまって息をついていた。
「…あんたァいつもこうなのか」
苛立たしげな卜部の声にとろりと灰蒼が流れた。乱れた襟から覗く首筋は妙に照る。立ち上がれないほどの疲労を抱えながら藤堂はけして迎えを要請しない。藤堂が寝床の用意を頼むことさえ時間がかかった。
「…すまな、い」
笑おうとする藤堂の眉は寄せられたまま固まっている。
「あんたもっと真っ当な手順を踏む相手ェ選べよ」
乱暴に言い捨てながら卜部は藤堂の腕を引っ張って立たせる。身長こそ卜部の方があるが、痩躯である卜部と体つきの出来た藤堂では目方が違う。寝室へ運ぶにしても藤堂の協力は必要だった。藤堂もそれを知っていて何とか立ち上がる。
「…耳が痛いな」
ふらつく脚で廊下を歩く藤堂は常から窺えぬほど疲弊していた。寝室までたどり着くと藤堂は倒れ込む。そのまま卜部がのしかかる。藤堂は枕辺に用意されている水を張った洗面器やタオルに目を瞬かせる。
「うらべ?」
卜部は黙って藤堂のベルトを解いた。抵抗するのをはたき落とす。
「後始末が要るでしょう。後で困るなァあんたなんだから」
「止めッいや、だ嫌だ卜部、嫌」
「好き嫌いで交渉持てるなァ絵空事の中だけだってあんたァ知ってるでしょう。明日辛いのはあんたっすよ」
同性同士である交渉に後始末は必要で怠ればひどい目を見る。藤堂の灰蒼がジワリと揺らぐ。潤むそれに怯みかけるのを卜部は振り払う。
「悟られたくはねェでしょう、だったら、隠すための工作も恥も必要なんですよ」
朝比奈あたりに知れたら殺されますよとうそぶいて初めて藤堂は笑んだ。
「かもしれない。あの子は手加減を知らないから」
「そうでしょうねぇ、あいつはあんたしか見えてねぇから。判ったら脚開いてくださいよ」
藤堂の力の抜けた脚を開かせて卜部は決まりきった動作で後始末をする。藤堂の相手に藤堂を思いやる気はないらしい痕跡に歯を噛みしめる。
「鏡志朗」
名を呼んで向いた灰蒼はひどく潤んでいる。卜部への甘えと赦しが混在する。藤堂には卜部が後始末を受諾していることを計算している狡さがあり、反面でそれを乞う程度の甘えは帯びている。藤堂は滅多に我儘や要望を押しとおしたりはしない。そういう平常を考え合わせればこそ卜部も従順になる。許容を計算するずるさを知りながら、そのくらいの我儘は聞いてやるつもりでいる。藤堂と卜部は年齢も近い。千葉は女性であるし仙波は頼るには年配すぎ、朝比奈に至っては藤堂を頼っている。消去法でいくと卜部は無難な位置にいた。藤堂はそれに気付いたし卜部自身も認識している。口には出さずとも互いの認識の一致が事態を呼ぶ。
「あんたァずるいな」
藤堂の懇願はいつでも消極的だ。態度や雰囲気は望んでいるのに藤堂はけして口にしない。その壁は藤堂の最後の自意識であるように儚くて、だから卜部は追及しないし問わない。見解が一致しているなら殊更に問わない。その程度の意志の疎通を信じるくらいには卜部も夢を見る。
「でもそんくらいの狡さァあった方がいいっすよ」
藤堂はひどく人間離れした。派手なその戦績だけではなく普段から藤堂は肉欲さえ感じさせない。交渉と言う手段さえ藤堂の前には無効である。理想の様に気高く君臨する藤堂はひどく現実味さえない。
「ばか」
何か言いたげに唇を震わせる藤堂に卜部が笑う。
「俺の独り言ですよ。返事する必要なんざねぇです」
藤堂の清廉さはいつも終末の静けさを帯びていて、卜部はそれが酷く怖かった。突きつけられる終わりはいつも唐突で、だから藤堂との関係にそれがいつ降ってくるかさえ判らず。だからせめて藤堂の我儘くらいは聞いてやりたかった。藤堂との付き合いを望み藤堂がそれに応じてくれた時点で卜部の願いはかなっている、だから卜部はせめて藤堂の願いくらいは聞いてやりたかった。
藤堂の体は野放図に拓いて卜部を呑みこんでいく。触れ合う皮膚から感覚は融けて行った。藤堂の体の弛みは卜部の救いだ。
「私はお前を利用してるだけかもしれないぞ」
藤堂の声は明瞭だ。直後に弛む胸部に気を張っていたことが見えて卜部は笑った。
「俺だって俺だけの事情であんたに好きって言ったんだ、そのくらいは承知ですよ」
藤堂の双眸は過剰な潤みに飽和して落涙した。灰蒼は揺らいで湖面のように瞬く。ドームのように丸みを帯びる体液は藤堂の頬を滑る。
「なァ鏡志朗。双方向なんて幻想だと思っても、こうして通じ合うみたいな感覚は心地いい。だからせめてあんたとは通じてるンだって思っていいかな」
体と感情は連動しても性欲とは連動しない。嗜好はけして後天的な変更が可能なものばかりではない。その堅牢さに人は倦んだ。
「あんたを好きになれて、よかった」
君を好きになったことを悔んだりしない。君を好きになったことを厭うたりはしない。
「あんたが、好きだよ」
重なった唇は融けて、領域は不明瞭になった。温く濡れた頬はしっとりと卜部の皮膚に馴染んだ。
後悔なんてしない。取り消したりしない。未来永劫、私はこの行動を悔まない。
《了》