利用されちゃうよ?


   いい人の利用価値

 嫌な予感はあった。卜部の勘は嫌な時にばかり当たり、確率で説明されるそれは卜部にとっては不条理で現実味さえないものだ。目の前に立っている朝比奈はにやにやと卜部を見る。卜部より丈はないが態度はでかい。威圧感という攻撃性こそないが弱味につけ込むだけの狡さはある。若さに任せて暴走するきらいのあるこの同僚を抑えてくれる藤堂は用事でもあるのか席を外している。秘め事でも囁くように朝比奈はいやらしく笑う。眼鏡のフレームがきらりと白銀に煌めく。前髪の単位にミリでこだわるような執拗さは身だしなみにも行き届いているらしく弛みはない。着衣も装飾具も野暮ではないし流行りを衒いすぎてもいない。
「なんか用か」
「藤堂さんにここの住所訊いちゃった」
卜部には朝比奈に訪われるような理由はない。そもそも藤堂を挟んで睨みあう関係に位置する相手が友好的な交流を持つことなど考えられない。穏便に済ませるためのすべは相手への攻撃ではなく威嚇でその場をしのぐことだ。後はなかったものとして忘れるに限る。いつまでも苦情や仕返しに煩わされることは関係の継続を意味した。
 「あっそ。じゃあな」
「えッちょ、ちょっと待ってよ、家に上げてよ!」
扉を閉めようとする卜部に朝比奈は体当たりでそれを阻止した。ばだんと不穏な軋みを上げる扉と痛そうに歪む朝比奈の顔に卜部は反射的に手を緩めた。その隙をついて朝比奈はするりと上がり込む。卜部が止める前に靴を脱ぎ捨てる。卜部の自宅は単身者を想定してるからすぐに寝室へつながる。寝室へ入り込まれると厄介だ。追い出すのに手間が要るし、ほかの助力を頼ることも難しい。寝室まで上がらせた訪問者を排除する正当な理由は同性間ではあまりない。まして卜部と朝比奈は職場が同じであり、朝比奈がそれを最大限利用するのは目に見えている。人を呼んでも呼ばれても困るのは卜部だ。隣近所への体裁だって見栄だってある。そもそも電鈴に反応したうえで扉を開けてしまった己の不用心を呪うのが精々だ。
 朝比奈が寝床の上に陣取ってごそごそとやっている。きょろっと大きな瞳はこんな状況にあっても賢しげに煌めく。それに悪印象を抱いていない己の腑抜けに卜部は心中で悪態をついた。
「何してんだ」
「エロ本とかないの」
「帰れお前」
卜部のこめかみが引き攣る。朝比奈は卜部の冷淡に堪えるでもなく好き勝手している。枕を持ち上げたり本棚をしきりに確かめる。卜部は朝比奈がかき回した後を律儀に追って元通りにする。言外に不服を示す卜部の行動さえ朝比奈は気にかけない。藤堂のことはあえて持ち出さない。空気の険悪化や不用意な損害を免れるためには慎重にもなった。ひとしきりひっくり返した朝比奈がきょとんと眼を瞬く。
「お茶くらい出してよ」
「帰れっつってンのが聞こえてねぇらしいな」
ぷぅと頬を膨らませた朝比奈は本格的に寝床の上に居座った。膝まで抱える見た目の愛らしさは転がして追い出したくなるほどだ。
 「ねぇ、しよっか」
朝比奈の若さの勢いは時に周囲の認識さえ怠る類いのものだ。卜部は破裂しそうになる疳癪を気合で鎮めると玄関を指さした。
「帰れ」
「やだッ」
即答である。卜部の方が呆気に取られてしまって反応できない。朝比奈はもじもじとそっぽを向く。恥じるようなその態度は童顔な見た目とあいまって愛くるしさを上げるはずだが卜部には不気味なだけだ。朝比奈の態度は無茶なようでいて本人の中では理屈が通っているから厄介だ。当事者である立場が客観性を見失うのは常だが朝比奈は故意に見過ごすきらいがある。気付いていないなら仕方がないと言う反応を引き出すために気付いていることを知らせない。その無邪気な悪質は藤堂にのみ働くはずだが最近はそれは卜部にも作用しつつある。体の交渉を持つと感情が女性並みに変化する。価値基準まで体に惑わされるくらいには朝比奈は若輩だ。稚気は覆しがたく感じるし不自然さも感じない。
 黙り込む卜部に不利を感じたのか朝比奈は能弁に語った。結論を急ぐのも若い証でもある。
「だってさ、だって、あんたちょうどいい位置にいるんだもん。なんて言うかさ、下手に見栄はらなくていいっていうか、どうせあんたにはオレの失敗も知られてるし。命さらす場所に生きてる同士綺麗なばかりじゃないって判ってるし」
卜部の肩から力が抜ける。朝比奈の抱える屈折は同時に卜部にも当てはまる。想いを寄せる藤堂に見せたいのは格好いいところであって無様さではない。それでも行動に失態はある。交渉などがいい例だ。発散はしたい、だが藤堂を付き合わせるほど厚顔にはなれない。交渉は少なからず内面を発露させるから取り繕ったり装ったりするには慣れが必要なのだ。好きな人に見て欲しい面があるのと同じ程度に見て欲しくない面は存在する。
「藤堂さんと同じ程度にはあんたはオレのこと知ってるし。あんたが相手ならオレだって気ははらなくていいし。何度か寝てるし」
どうしようもなく発散の帳尻が合わぬ際、卜部と朝比奈はお互いに交渉を持ちかけた。その交渉成立に必要だったのは立場の確定だけで明確な理由は求められなかった。だから卜部も受け身に甘んじた。
「…藤堂さんに全部見せる、ほどオレ強くないよ。まだ、まだ時間が欲しいよ。でも熱はたまるし。もうオレどうしようもないんだもん」
ぐずっと洟をすする音がして朝比奈が抱えた膝に顔を伏せた。
 死線を超えてきたものとして互いに見せてきたのは綺麗な顔だけではない。死に瀕すれば自尊心も見栄も外聞もなくなる。浅ましく泣いて喚いてもがいて死にたくないと叫んだ。その無様さを互いに見せてきた分の甘えがある。
「…――まだッ…まだ、藤堂さんに全部なんて見せてないし見せらんないよ…オレ、オレ」
落ちた眼鏡がカシャンと音を立てる。感情と体は思ったより同調しない。男性体の禁欲生活は案外酷だ。
「あんたなら、あんたならいいかなって思ったんだもん…藤堂さんには格好いいオレを見て欲しいの…でもまだオレ、そんなカッコ良くないもん、でもあんた相手ならそんな気は使わなくていいし」
朝比奈が言っているのは我儘だ。見せたい面だけを見せるなど理想論だ。正負は表裏一体であって片面だけを見せるなどいつか破綻する。そも破綻を半ば望みながら卜部は朝比奈の我儘が成功してほしいとどこかで思っている。同じ人を好きになった。だから思うところもきっと、同じで。卜部だって藤堂に負の面は殊更伏せた。藤堂は敏感な性質だから負の面を見せればすぐさまそれに同調してしまうに違いないのだ。負荷は負わせたくない。
「…あんたしか、いないんだもん」
ずびび、と洟をすする朝比奈に卜部は力が抜けた。感情に走るだけの稚気は朝比奈の年齢から見れば幼いが見かけとは合致した。そも、藤堂はこの朝比奈の稚気を否定しないし卜部も殊更に打ち砕く気はない。想いを寄せる相手への負荷を考えられるだけ大人であると納得することにしている。好きだという言葉の重みに案外人は気づかぬものだ。好意は相手からの攻撃さえ緩めさせる。
「判ったよ」
「ふぇ?」
「俺にも見栄ァあるンだよ」
卜部の指先が朝比奈の前髪を乱す。ぽかんとする朝比奈にそのまま口づける。接吻は交渉の承諾でもある。伸びた朝比奈の手が卜部の肩を掴んで寝床に押し倒した。
 「い、いいの」
卜部はハンと鼻を鳴らす。
「嫌だッつったら帰るのかお前」
「帰らない」
「だったら黙ってやってろ」
定期的な発散を必要とするのは熟しつつある体につきものだ。恋愛感情の有無やその進行度合いで禁欲を強いられる事情を体は感知しない。感情的な連動などほぼなく体は発情するし発散を要した。卜部はそれを年長者として知っているつもりだ。
「体ァ暴走するからな。いざって時に泣きィ見たくねェだろ」
発露を見いだせなくなった欲望は体調さえ崩す。微小で、けれど確実に蝕むその威力への知識は年長者である卜部の方があるだろう。
 「しねェなら帰りな」
「――っする、するよ、するッ!」
襟を直そうとする卜部に朝比奈が慌てた。卜部はにやりと笑んだ。
「そうだろうな」
襟を肌蹴させて朝比奈の指をあてる。
「俺もしたくてたまンねェ」
欲望の方向性と現状は必ずしも一致はしない。まして即座に発散へ通じる男性体であればなおさらだ。女性のように感性と言う補助のない男性体は働きかけや切欠に対してすぐさま通じる。藤堂は培った精神力でその方向性を抑えているに過ぎず、到底修業の及ばない朝比奈や卜部がそれに同調できるわけもない。藤堂より下位にいる者同士で利害は一致しただけだ。
「あんたって結構…」
「それ以上言ったらしねぇからな」
ぐぅと朝比奈が黙る。もぐもぐと唇を揺らす朝比奈は何か言いたげで、それでいて何も言わなかった。
「ずるいな」
「お前に言われたかァねェや」
不満げに呟く朝比奈に卜部は返事をする。
 「オレが好きなのは藤堂さんだからね!」
「判ってるよ。お前が俺なんかを好きだなんてほざいた日にゃあ気色悪くて寝られねェ」
クックッと笑う卜部に朝比奈はぷんと唇を尖らせた。紅く熟れた唇が印象的だ。
「そういうところは可愛くないよね」
「お前なんかに可愛いなんて言われたかァねェや。俺もあがったりだな」
朝比奈の指が卜部の髪を掴んだ。ぐいと力任せに引っ張りながらどこか悲鳴を待っている躊躇がある。卜部はにやりと笑った。
「さっさと済ませろ」
「本当に可愛くないや」
噛みつく唇に指先の暴挙は比例した。指先の影響する範囲は着実に広がりを見せ、卜部の感覚さえつかさどる。とろける温さに卜部は身震いした。朝比奈の指先はとろけて卜部の体内へ侵入する。腹部を直接抉られるような衝撃に喘いだ。朝比奈の体温の侵蝕は多大な広がりを見せる。卜部は喘ぎながら切羽詰まった朝比奈の表情に哂った。朝比奈は年若さの所為か勢いを制御できない。卜部は朝比奈の温度の方向性を掴みつつある。触れてくる指先の熱さの方向性の把握は優劣を決定づける。卜部は流されない。朝比奈の暴走する熱さに耐え、把握さえする。
 「ばか」
笑う卜部の体躯は朝比奈の指先さえ呑み、融けだしていく。
「あんたの方が馬鹿だよ」
悪態をつく朝比奈の声さえ穏やかだ。卜部は応えるように笑う。上昇を続ける体温は朝比奈の限界さえ呑んで同化する。領域の不明瞭さが無意味な同調感を呼んだ。朝比奈が撫でる指先の感覚さえない。静かに領域を広げる指先は朝比奈の体温さえ暴いた。
「俺ァ馬鹿だよ」
笑いながら卜部は膨張する自己から手を離した。際限なく広がっていく感覚は不安と快感を同居させる。朝比奈の体は少なくとも卜部に不安を抱かせる要素はなかった。
「馬鹿の方が、いいんだよ」
震えに仰け反りながら卜部は啼いた。

知らずに済んだ方が良いことなどそのあたりにあふれている。


《了》

リハビリ的なね(待て)                            05/16/2010UP

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