それ、焦らしてるの?
君は意地悪だ
ざわざわとしなう枝葉の音が撫でる意識の根底に身震いする。反射的に肩をすくめるが別段、寒いわけではない。盥に張った水の中でいつの間にか切られていた枝がたゆたう。集中して臨んだはずの器の中にさされた花の出来は煩雑だ。珍しく季節ものが手に入って浮かれ気味だった高揚は影も形もない。途中までは整いながらどこかで違う絵を描いているかのように異質な形が混じり合った。出来栄えとしては悪い方だが花材を無駄にするのも残念で、入れ替えの頻繁な玄関先へひと先ず落ちつけた。玄関先は目につくから取り換えようと思う頃合いも早かろうと言う己の無精を計算してのことだ。玄関先で何度か置く角度を矯めつ眇めつしてから片付けようと部屋へ戻る。とおりすがる部屋から外の暗さが見える。つまりそれは鎧戸を閉めておらず硝子戸まで開け放っている。何気なく向かおうとして濡れ縁に座っている人影に息を呑む。
夜闇を吸って群青に変色した髪の艶は蒼い。すらりと伸びた細い首は彼の性質を示すかのように重みがない。下ろした腰の後ろへ手をついてだらしなく胡坐をかく膝の上に置かれている本のページがひらひらめくれた。本はすでに読んでいないらしくページが行きつ戻りつしても抑える素振りさえない。庭先へ投げられているだろう視線の独特の力を藤堂は知っている。
「…卜部」
口の中で呟いただけの呼びかけに卜部は応じない。気付いていないと言った方が正しそうだ。踏みしめた畳がきゅうと鳴って卜部が振り向いた。月明かりも弱く日も落ちた逢う魔が時にとろりとした卜部の視線が藤堂を舐める。口元が吊りあがる。
「なンですか」
「…な、なんでも、ない…! すまない、夢中になっていた。何か食べたいものがあるなら出せる範囲で用意するから」
藤堂は逃げるように並べ立てた言葉に押されるように花をさしていた部屋へ逃げた。間引いた花や蕾、枝葉をひとまとめに包んでいた紙でまとめる。鋏をしまう指先が震えた。床の間に活ける花は器自体が大きい場合もあり洗面器では用が足りぬ時もある。何度か往復することを考えてあげた目線に裸足の足先が映った。
「ッう、ら」
襖に手をかけて重心を偏らせる立ち方は卜部が小馬鹿にした時の癖だ。卜部は藤堂を複雑な感情で見ている。朝比奈のように素直に好きだと主張しないが殊更に厭うたりもしない。誘えば藤堂の私邸を訪うし、藤堂を自宅へ招いたりもする。日々の鍛錬で汗をかく職種なので藤堂は招いた卜部に軽く湯を使わせた。その際に泊まるかどうかを問うた。卜部は意味ありげに藤堂を見てから迷惑でなければ泊まると言った。それがどういう意味を帯びているか悟れない藤堂ではないから着替えを用意した。和服の揃いだけは豊富なので藤堂は来客の着替えにはいつも和服を出す。和服は洋服より寸法に融通が利くから重宝してもいる。その飛白を着た卜部は着慣れぬものにありがちな弛みを帯びている。
「何でもいいンすか? あんたァ考えなしなとこあるからなァ」
肌蹴た衿から覗く胸板やすらりと続く首筋が夜光に照る。茶褐色は闇に沈んで紺青に煌めいた。膝をついたまま動けない藤堂のもとへ卜部が屈む。胡坐の所為で弛んでいた裾が割れて尖った膝が覗く。
「じゃあここは定番の、あんたが食いたいってことにしとくか?」
後ずさる藤堂の腰が落ちた。防御するように立てる膝と同時に畳へ癒着してしまった体は動けない。
卜部の手がなんなく藤堂の膝を開く。藤堂も卜部の後に湯を浴びて着替えていたのが仇になった。
「う、うら、べ」
戦慄く指先が抑えつけられて唯一の武器である鋏が封じられた。気を逸らした刹那に唇が奪われる。触れるそばから融ける感覚に藤堂は少なからず動揺した。藤堂の体温は卜部を友好的に受け入れさえした。
「花をさしてたあんたァ綺麗だったなァ。ピンと背ェ伸ばしてパチンパチンって一定のリズムで音がする。何でもねェ鉢にだんだん形が造られているあれは結構そそるぜ」
藤堂の目線が卜部の胸元へ堕ちる。くっきりと浮かび上がった鎖骨と手ぬかりなく手入れされている体躯。鍛錬も欠かさず、軍属としては華奢でこそあるが弛みなどない。張り詰めた一枚布のような皮膚の奥に眠る骨格はあらわになる突起で全体が推し量れる。目の前で蠢く唇が気を惹いた。薄くもなく厚くもないが張りは保っている。嘲るように口角をつり上げると連動して弓なりに反る様は観賞に耐えうる。
「あんた気付いてるか? あんたの首筋はすげぇ色っぽい。少し後ろに衿を抜く癖があるよな? あれ、たまらねェんだよ。肩甲骨が見えるあたりまで引っ張り抜いてみたくなる」
藤堂は初めてそこで耳朶を打つ卜部の言葉の内容に気付いた。同時に己の目線の位置に気付いて燃えるように顔が熱くなる。藤堂の目線は明らかに色事を含めた位置で卜部の痩躯を眺めていた。卜部を押しのけようとして封じられた利き手に気付く。鋏ごと押さえられた手がしびれたように動かない。焦燥は同時に動揺を生み冷静を奪う。己の手段の減少に藤堂は焦った。
「あ、ま、待って、待ってくれ、卜部、私は」
卜部は手をどけない。それどころか空いた方の手は緩やかに藤堂の体を這った。唇を撫でたかと思えば目蓋を押し、頤をとらえる。そのまま首筋を撫でた手が鎖骨の間のくぼみを押した。飴玉でも呑みこんだかのように詰まる喉に藤堂が噎せる。軽い酸欠は恐慌を引き起こす。開き直りは自衛手段でしかない。
卜部が触れるだけの口付けを施す。
「…――ン、ま、待ってくれ、なんだか」
「変な気になる?」
卜部の膝頭が藤堂の脚の間を押した。明らかなその意図に藤堂は憤る前にたじろいだ。藤堂の裾はすでに割れて大腿部まであらわだ。それでも卜部は強引に事に及ばない。これで藤堂がやはり嫌だとはねつけたなら卜部は退くだろう。藤堂はそれを名残惜しく思う自我に気付いている。藤堂は己の欲望の在り処に動揺して対処が遅れた。その隙に卜部は藤堂を畳の上に押し倒した。鳶色の髪が散るのを卜部の茶褐色は冷たく見下ろす。夜闇に融けたそこで藤堂の灰蒼の双眸だけは冴え冴えと映えた。卜部は口の端を吊り上げた。
「変な気になるなら早くなれよ。俺の方だって事情があるんだ」
「なッばっ馬鹿、もの!」
真っ赤になる藤堂は同時に同じ位置を見ていた証明でもある。卜部はふんと鼻を鳴らす。藤堂は威嚇するように睨みつけていたがその力が徐々に弱くなっていく。威嚇はすなわち己への虚勢でもある。誤魔化しはすぐさま暴露されてその奥の欲望はあらわになる。
目線を逸らして口元を引き結ぶ藤堂に卜部が息をつく。退きそうな気配に藤堂の方が動いた。空いた手が伸びて卜部の髪を鷲掴む。引き寄せた唇に藤堂が吸いついた。見開かれていく茶褐色にざまを見ろと悪態をつく。たどたどしく歯列をなぞり、動かない舌を吸う。ついばむように何度も口づける。濡れた音のし始めるころに藤堂はようやく卜部を解放した。
「…なった」
「ハァ?」
「――だから! 変な気に、なった!」
顔から火を噴く思いで言いつけた藤堂への卜部の返答は口付けだった。勢いに押されて対処できない藤堂の口腔を好きなようにむさぼった。先刻まで見耽っていた卜部の体躯は少なからず藤堂の体温を上げていた。藤堂を組み敷く卜部の痩躯に藤堂の体は火照りを帯びた。藤堂の手はすでに鋏から離れ、卜部の拘束もない。藤堂の両手が卜部の黒蒼の髪を掴む。
「…言わせる、気か」
「あー、いいなそれも。あんたきっと真っ赤になるよなァ。言ってみる気ィありますか?」
「ないッ! そんなものはない、この馬鹿者!」
うそぶく卜部に藤堂が噛みついた。藤堂の顔はすでに燃えるように熱を帯びて紅潮した。耳や首筋まで朱に染めて言い返す藤堂に卜部は堪えきれずに笑う。
「笑っているなら退きなさい、こんな、こんなことッ」
押しのけようとする藤堂の力は驚くほど弱い。卜部の指先が触れるだけで藤堂の体は卜部に屈した。求めるように空隙をうごめかせる動きさえする。卜部は気づきながらあえて言及もしない。だが卜部が気づいているのは態度の端々から窺えた。
「退いて、いいンだ?」
問う卜部は藤堂の状況を知っている。藤堂の体はすでに卜部の体躯の受け入れへと状況を変化させつつある。卜部との交渉は初めてではないし経験もある。経験はすぐさま反応して衝撃を緩和しようとする、その反応が藤堂の自我に衝撃さえ与えた。
「肌が吸いつくみてェですけど」
卜部の体は藤堂の肩や首など何でもない場所ばかり撫でた。それでも藤堂の体温はそのたびに変動する。藤堂の体が震えた。
「ば、か、ものッ」
火照った卜部の体が触れて、それだけで刺激が走り抜けた。びくびくと震える藤堂に卜部は鷹揚に微笑む。
「言って」
「いや、だッ」
頑強に拒否する藤堂に卜部が笑う。藤堂の体は言葉とは裏腹に卜部に屈服した。
「聞こえねェなァ」
卜部の指先が脚の間を這う。藤堂の喉から嬌声がほとばしり出た。藤堂の体は友好的に主導権を明け渡した。
わざと、でしょう。
言葉にしない。
盥の水に月が映って揺らめいた。沈んだ切片は叢雲のようにたゆたう。
《了》