ひらひら、ふらふら、ぎゅう
桜の抱擁
ふわりと肌を撫でる風は温い。夜半であるから気温も下がろうと思うのに昼間の名残のように冷たくもならずに馴染む。ざぁざぁと音を立てて揺れる木はしきりに枝を震わせる。そのたびに花弁がはらはらと散っていく。惜しむ気はあるが花吹雪に立ち会えた幸運に頬が弛む。
「二人も誘えば良かったか」
呟いた言葉に抜けた声でいいんじゃねェですかと返答がある。
「年寄りと女ァ夜に連れ出すわけにはいかんでしょう」
「うわぁ今の台詞二人に言うからね。そんで二人にフルボッコされちゃえばいいんだー」
すかさずはさむ声は瑞々しい張りがある。
「うるせぇ朝比奈テメェも同罪だろ」
藤堂は茫洋と二人の会話を聞いた。悪しざまに罵っているのにどこかじゃれあうように無邪気だ。口を出せばすなわち物事が深刻になってしまう自分には出来ぬ芸当だと藤堂は感心した。日常茶飯を口にしてそれを相手が緊急であると誤認することは藤堂にとってよくあることだ。黙っているだけで何を怒っているんだと問われたこともある。だから総じて軽薄であると評されるたぐいである卜部と朝比奈が藤堂はうらやましい。
「だいたい千葉さんに女だからとか言って仲間はずれにすると後が怖いじゃん。ならばとか言って刃物持ち出すんだよ」
「本気で玉ァ狙うからなァ。だけど今回はいなかったンだからいいだろうがよ」
藤堂の表情が微妙にひきつる。なんだか話題が微妙な様相を呈している。二人とも藤堂がいるということを意識していない。もっとも藤堂は小耳にはさんだからと言っておいそれと吹聴する性質ではないからいいものの、話題が不用心であることに変わりはない。どう諫めようと思考が渦を巻いて混乱している藤堂の速度が落ちる。
「二人ともひがむから。だいたいあんただって余計だよ。せっかく藤堂さんとさ、夜桜見物できると思ったのになんでいるのさ」
「黙れ表六玉。見え透いてンだよ」
「語感的にはあんたの方が表六玉だっつうの。人にさぁ」
ざわりと揺れる音に藤堂の足が止まる。
かろうじて並木と言っていい間隔で植えられている桜の枝が揺れた。木によって花を散らしているかと思えば蕾をもつものもいる。同じ位置へ植えられているのに花の開き加減に差がある。桜は花によって種類が違う。ひらひらと舞う花弁が薄紅で夜闇の紺藍に映えた。土地の所有者が気を利かせて桜の木を照らす照明を特設する。毎年のそれは出費のことを心配しながら、なければないでどうしたのだろうと思う程度には根付いている。毎年の桜を楽しみにする程度にはまだ自分の人間性は生きていると思うようになった。鮮血に散った桜をやはり深紅に薄紅はよくないと眺めていた藤堂には朝比奈でさえ怯んだ。上から藤堂の目蓋を押さえた卜部の指先の震えが鮮明だ。積極的に友好を結んでくれる彼らでさえ厭うたり慄いたりするほどの浅ましさだったのかと後で落ち込んだ。潜入していたから秘密裏に片づけるしかなくそういう命をほのめかされていた。戦闘機を介さない戦闘は酸鼻を極めた。散る薄紅は飛び散る深紅でさえ美化した。桜の木の下に眠る死体を藤堂は実際に、見た。
灰蒼が眇められて揺れる花を凝視した。夜闇の暗さと照らす照明の具合か個性か、花弁は薄紅であったり白であったりする。種類によっては白いものもあると知ってはいるが頭上で花を咲かせるそれの明確な差異など判らない。手の届かぬそこで開く花の可憐さはどこか穢れにまみれた己に相応である気がした。藤堂の口の端が吊りあがる。夜桜見物などとしゃれこむから、どこかかぶれた。春先の憂鬱は青少年の専売特許だ。この歳で思い煩ってどうすると哂う。俯けた視線の先で靴が砂利を踏んだ。花弁の敷き詰められた道に緊張が弛む。煌びやかなそれは幼いころに特別視して歩いた絨毯や嵌めこみタイルを思い出させる。模様のところを選んで飛んだり歩いたりする戯れが懐かしい。潤沢に玩具が与えられたわけではないから、日常に楽しみを見つけた。
「あさ、ひ」
玩具で連鎖的に朝比奈と卜部を思い出した。物思いにふけって相手をしていなかったから機嫌でも損ねたろうと顔を上げると二人がいない。ざぁあと桜が揺れた。灰蒼が瞬く。
「朝比奈、卜部」
歩を進めながら二人を探す。連れだって散策すると、藤堂はいつも道端に気を取られて勝手に足を止める。二人は数歩も行かぬうちに気付いて引き返すなり藤堂を呼ぶなりする。おいてけぼりのような不安と空虚に焦りがにじむ。どこかで二人が気づいてくれるのだろうと踏んでいた感は否めない。だがそれはすべて藤堂の勝手な甘えであると身に沁みた。与えられるそれに胡坐をかいていた。失くして気付くなどという愚は侵さないと、いつも心がけていたのにこうした不意に油断を思い知る。
視界に降る花弁も減った。夜闇の暗さが皮膚から沁み入ってくるかのように静謐だ。背筋の伸びる暗さは硝子のように冷たい。不意の孤独と寂寥感は慣れたと膝を抱える藤堂の気をくじいた。もう哀しまぬ涙など流さぬという決意がいかにたやすく脆いかを思い知る。頭上で揺れる桜の微音も地面にひしめく花弁も孤独を知らせるだけだ。夜半という頃合いも感覚を煽る。人通りの少なさがそのまま孤独感へつながった。
「…――ぁ」
ざわざわ揺れる桜の音が。視界をじらすように隠す花弁も。桜を照らす照明が果敢無げに瞬く。消えたら視界が悪くなる、何も見えなく、何も。何も?
ざわざわと。はらはらと。咲いた後の花は散るばかりで。
「――省悟ッ! ――巧雪ッ!」
切り裂くように声を上げる刹那、ドンと衝撃が来た。
「鏡志朗さんッ」
「鏡志朗」
頬に感じるぬくもりとしがみついてくる細腕が。ぱちくりと灰蒼を瞬かせる藤堂が視線を移ろわせた。にやりと笑う卜部とじぃっと見上げる朝比奈の顔が、あった。
「ていうかね! あんた、鏡志朗って呼び捨てなんて馴れ馴れしいよ!」
「サン付けどまりに言われたかァねェなァ」
藤堂を挟んで諍いが起きる。噛みつく朝比奈に卜部は悪びれずに言い返す。
「なにさ普段は階級で呼んでるくせに」
「そのギャップがいいンだろ?」
「馴れ馴れしいって言ってんの!」
動けない藤堂に二人が同時に目を向けた。同時に大丈夫かと問われてぽかんとする。
「…なにが?」
「あんたがッすよ」
「おいてっちゃったから心配で! 鏡志朗さんはほら色っぽいから」
「余計なンだよ」
藤堂にしがみつく朝比奈を卜部がゴスッとどついた。むっとしながら朝比奈が卜部を睨む。卜部は知らぬ顔だ。
対処できない藤堂の目の前にひょいと缶が差し出される。小振りなそれは缶コーヒーだ。
「…ありがとう」
そのまま受け取る藤堂に卜部がいいえと返事をした。まだ日が落ちる頃には冷え込む時期であるからか、暖かいタイプだ。温もる手や指先に卜部の残り香があるような気がして頬を染める。
「鏡志朗さん聞いて! この人がさ、飲み物驕ってくれるっていうから喜んだけどぬか喜びだったんですよ! これですよ、これ?!」
喚きながら朝比奈が突きだすそれはいささか時期外れな献立が表示されている。
「しるこ?」
「そうですよ、しかもあったかいタイプ! 嫌がらせだよ!」
「いいじゃん甘いし」
そう言う卜部が呑んでいるのはコーヒーだ。しかも無糖であるからそれが余計に朝比奈の気を逆撫でする。
「オレは醤油が好きなの、そういう好みがしるこなんか飲むか! しかも自分の方が甘党のくせにブラックコーヒーとかどんだけ嫌がらせ?!」
「何でもいいっつったろ」
「常識的に考えてよ! 明らかにわざとじゃない!」
小気味よく言いかえす卜部に朝比奈が一方的に怒る。怒髪天をつく勢いとはまさにこれだ。時間帯を考えた藤堂が慌てて二人をなだめる。こういう場合に片方にだけ絡むと残りが僻むのを経験で知っている。
「ふ、二人とも、どこに行っていた?」
話題の転換と疑問の解消を藤堂が試みる。卜部の指先がひょいと背後を指さした。仄白く浮かび上がるようなそれの照明が強い。飲料の自動販売機だ。
「喉が渇いたとか言い出したンすよ」
「なのにしることかね! ホントむかつく!」
藤堂は受け取ったコーヒーを朝比奈にやるべきか本気で思案した。そのまま流すように朝比奈に渡しては卜部の好意を無にするようで気が引ける。ぷんと頬を膨らませて執拗に言い募る朝比奈に卜部が負けた。
「あァもう判ったようるせェなァ」
ほれ、と投げられる硬貨を朝比奈が受け取った。釣り銭なしの金額であるのは着服を防ぐためか。
「好きなの買ってこいよ。このしるこ俺がもらうから」
べぇ、と舌を出す朝比奈から缶を奪うと卜部はポケットへしまう。朝比奈は言い分が通って気分がいいのか足取り軽く自動販売機へ向かう。
「…すまないな」
卜部の茶水晶はちろりと藤堂を見ただけで別にィと気のない返事をした。藤堂の逡巡に気を利かせたのが明白に判る。卜部はそういう気は回る性質だ。
自動販売機の明かりが目まぐるしく色を変えて点滅や発光を繰り返す。卜部の眼差しは無為に発光する方向を眺めている。皮膚を舐める薄れた照明の効果は妙に淫靡だ。その口元が笑んだ。茶水晶は確実に藤堂をとらえていた。
「…なに、見てンすか」
発火のように瞬時に藤堂が赤面した。俯けた視界がにじむ。羞恥に燃える体が双眸を潤ませる。
「あんたさ、家に桜の木ィある?」
藤堂は盗み見るように卜部を窺う。卜部の方はもう気がねなどなく缶の飲み口を舐めた。にげェ、と口元を歪めるあたりハッタリであったらしい。甘党だなと藤堂が心中で笑った。
「…ない。桜はよほど広い敷地でなければ植えられぬだろう」
「そォなンすか」
「あの木は根を張るから、家屋の近くに植えては家が傾く。よほど広い庭でもなければまず障りがあるだろうな」
灰蒼が桜を見た。花材としての桜は扱いやすく、矯めも利く。思ったような形がとれる。だからこそ作りすぎてしまいがちであるという欠点もある。花見で頭上に咲いているイメージが強い所為かあまり盆栽や生け花といった体裁での桜は見かけない。
「…今度、飾ろうか」
「なにを?」
唐突に響いた若い声に藤堂の肩がびくんと跳ねた。好みの缶を手にした朝比奈が藤堂の顔を覗きこんでいる。
「桜だ。…変かな?」
「なにが?」
「聞いてねェなら口出すなよ」
「聞いてないから出すんじゃない。何の話ですか?」
小首を傾げて問う朝比奈に藤堂が丁寧に説明した。卜部は肩をすくめたきりで藤堂の説明をさえぎったりはしない。朝比奈は熱心に相槌を打つ。
「…だから、私がしたら変かと」
「いいんじゃないですか? 彩りっていうか枯れ木も山の賑わいっていうんでしょ」
「お前それ褒めてねぇから。意味調べて使えよ言葉」
悪意のない朝比奈の意見に卜部が指摘する。一瞬傷つきかけた藤堂が踏みとどまる。朝比奈がむぅと膨れて顔を赤らめた。失態であるということだけは悟っているらしい。
朝比奈が手を出す前に卜部が藤堂を引っ張る。
「こうせつ」
「そろそろ帰らんとマジで千葉に殺されますよ。それと俺のこと下の名前で呼ぶってこたァその先も期待していいって事っすか?」
艶を帯びる内容に藤堂の頬が赤らんだ。朝比奈が悲鳴を上げて追いすがる。
「やめ、やめ、やめて! 鏡志朗さんはオレのなの! 鏡志朗さん、オレのことも下の名前で呼んで」
「しょうご」
「鏡志朗さぁん」
抱きつく直前で卜部が藤堂の体を引いて朝比奈の抱擁が空打った。
「すげェ無理矢理だな」
引っ張る勢いを殺さずに腕の中へ藤堂を収める。睨みつける朝比奈など卜部はものともしない。朝比奈もだからと言って退くような殊勝な性質ではない。諍いの始まりそうな気配に藤堂はため息をついた。
《了》