いい季節だよね?!


   春模様

 藤堂がゆったりと足を運ぶ。暑さと寒さを繰り返す気候は面倒ではあるが花々が目を楽しませてくれる。朝比奈の家は藤堂の家からそう離れてもいない。受け持つ道場へちょくちょく通っているから遠くではないだろうと思っていたが、確かめると案外近かった。藤堂の私邸を朝比奈がいつも訪うのでたまには藤堂から動こうと思い立った。事前に連絡を入れるべきだったかなと思いながら、驚いてくれたら面白いと思う。がさりと揺れる袋をちらりと見る。果実の甘煮をよく手土産にするのだが朝比奈は甘いものは好まぬから散々悩んだ。いっそお新香でももっていってやろうかと思ったがあんまりなので何とか惣菜を見つくろった。
 たどりついたそこは豪奢でも貧層でもなく程よい住まいだ。隣近所の庭木がせり出して手軽な彩りを添えていた。無精者であればその相伴にあずかり、手入れの労を必要とせず花見ができる。藤堂の自宅はどちらかといえば提供する側であるからいささかうらやましくもある。呼び鈴を押すとつんざくような音が響く。電子音のような控えめさはなく訪問を伝えることにのみ特化した音だ。無遠慮なそれに驚いた藤堂は誰何に反応できなかった。
「誰? なんのよ」
ガチャリと開いた扉から顔を出した朝比奈に藤堂は戸惑いつつ、私だがと告げた。朝比奈がポカーンとかたまる。藤堂は辛抱強く私だがと繰り返した。
「とうどうきょうし」
名前を告げる藤堂の目の前で扉がびしゃんと閉まった。今度は藤堂の方が呆気にとられて身動きできない。私は何か朝比奈の気に障るようなことをしたのだろうか、それとも訪いを厭われるほど嫌われているのだろうか。衝撃に働かない脳が必死に解答をひねり出す。立ちつくす藤堂がわずかに小首を傾げた。これは謝罪するべきなのだろうか、それともこのままお暇するべきなのか。
 藤堂の聴覚が室内の音をとらえた。ばったんどたんと騒がしい。がっしゃーんなどと不穏な音がして藤堂が扉を開けて踏み込むべきか逡巡した。
「ちょ…! 藤堂さぁん十分、いや五分! 五分待ってくださいすぐ開けますから帰らないでね!」
察するに室内を片づけている。男の住まいであるなら来客に備えた片付けなど望み薄であろうし、ましてや藤堂の訪問は不意打ちなのだ。すまないことをしたかなと詫びながら藤堂は共有であるらしい門扉まで退いた。このあたりは少し入り組んでいるから通行車両も少なく住人の車両しか通らない。交通量の多いところは空気が淀んで嫌いだとこぼしたことを思い出す。その時に朝比奈が、じゃあ空気の綺麗な家にあなたを呼んでもいいですかと問うた。二人して笑いながらそうしたら一緒に暮らすかなどと並べ立てた。真剣な顔で朝比奈は藤堂の好き嫌いや守っている習慣を訊いた。
 ふわりとくすぐる香りに目を上げれば紅白の花が咲いていた。しっかりとした枝振りで突き刺さりそうに鋭角的だ。刺のある種類なので流派によっては嫌われる。朱と白の混じり合いは明確な目的さえおぼろげにする。
「木瓜…」
「ごっごめんなさいすいません!」
「は?」
呟いた藤堂の言葉に朝比奈が勢い良く謝った。振り向くと距離もないのに朝比奈がはぁはぁと息を切らしている。
「終わったのか」
「ごめんなさいー藤堂さんに罵られるほどオレって」
「なにがだ」
いまいちかみ合わない会話に藤堂がようやく問うた。朝比奈が赦しを乞うように藤堂を見上げる。すがりつくようなそれは愛玩動物じみている。
「ぼけって言った」
「だからこれが木瓜だろう」
指差す先にある花に朝比奈がへェッと頓狂な声を上げる。
「梅じゃないんですか」
「木瓜ではないのか」
「なぁーんだぁー」
朝比奈がへなへなと膝をつく。慌てて屈む藤堂に朝比奈が抱きついた。
 「怒られたのかと思いましたよ、ぼけ! って」
藤堂が何とも言えない顔をして口元を引き結ぶ。困ったような呆れたようなそれに朝比奈がむっと膨れた。
「藤堂さんの言動がオレの基準なんですから」
朝比奈が藤堂から離れて立ち上がる。藤堂も膝を軽く払って立ち上がる。
「なんですかそれ」
「口に合わなかったら捨ててくれ。器は持っていても捨てても構わないから、お前の好きにしなさい。無理に返却する必要はないから」
蓋を開くと香ばしい醤油の香りがする。
「わぁーきんぴらかぁ…後は、煮物?」
「あまりもののあり合わせですまない。今度何かちゃんと買って持ってくるから」
「いいですよ、別に。藤堂さんの料理は美味いから好きだし。金平牛蒡、ちょっと色が濃いからオレ用に濃く味付けたでしょ?」
きょろんと悪戯っぽく見上げる暗緑色からふいと顔を逸らす。朝比奈の凝視が皮膚をピリピリと刺激する。火照る頬や目元の紅潮が目に見えるようだ。藤堂は己でさえ何を言っているか判らぬことをごにょごにょ言って返答を誤魔化した。堪えきれなくなって朝比奈を見れば待ち構えていたかのようににんまりと笑んだ表情と出くわす。今度こそ逃げ場をなくして藤堂が真っ赤になった。
 朝比奈が袋を提げて身軽く部屋へ戻る。藤堂も慌てて後を追った。
「どーぞ」
恭しく扉を開かれて、お邪魔しますと言ってから上がった。咄嗟に片づけたとは思えないほど片付いている。背後から朝比奈の声がそこ座っててくださいねとかけられる。見つけ出した場所にちょこんと正座した。窓が開いているのは換気のためか。日光で白く染まるそこをきらきら舞うのは埃だろう。藤堂も行き届かずにこういう失敗を良くする。藤堂の気持ちをしだいに後悔が埋める。急な訪問は相手のあらゆる予定を狂わせることを忘れていた。しゅんと心なしかしょげる藤堂に朝比奈が首を傾げる。急ごしらえではあるがきちんと淹れた湯呑を出しながら朝比奈が藤堂を見る。
「え、藤堂さんどうしたの。やっぱりオレってボケ?」
「…いや…急に訪って、すまなかったな…と…」
藤堂がふぅと嘆息した。
「やはり事前に連絡するべきだった。すまない、迷惑をかけて」
「ちょっと待って、それどういう経過でそういう答えになるの。オレ嫌がってないって、嫌そうに見えたんなら謝りますって言うか別に嫌だと思ってないです。なんで?」
謝罪しかける藤堂を朝比奈が慌てて止める。
「お暇する」
立ち上がる藤堂をずだーんと朝比奈が押し倒した。不意打ちであったからもろに衝撃を喰らった藤堂が倒れ込んだ。はてなマークを散らしながら藤堂が朝比奈を見る。打ちつけた肘がじんじんしびれた。
「い、いやです! 藤堂さんからせっかくオレの家来てくれたのに何もしないまま帰せないし帰さないんだから! せっかく来たんだからご飯くらい食べていってください! だ、大丈夫です醤油の量も減らすから」
ぱちくりと藤堂の灰蒼が瞬く。
「ちゃんと味見もするし味噌も減らすし、塩とか砂糖とかちゃんと薄味にするし! あ、な、何が食べたいですかオレ頑張ります!」
口早に並べ立てる朝比奈は返答を挟む隙さえない。ぶわわっと潤んで濡れる暗緑色が揺らめいた。苔生す沼地のように足場さえなく揺らぐ。藤堂が何か言おうと唇を開く、それを見て朝比奈が言い訳を並べ立てた。かといって藤堂が黙りこんで朝比奈の言い分を聞いていても、今度は返答がないことに不安を感じて言い募る。どちらにしても藤堂は口を挟めないし興奮している朝比奈も人の話を聞かない。終わるのを待とうと藤堂は口をつぐんだ。
 朝比奈の甲高い声を聞きながら藤堂の目線は窓の外を移ろった。先程の木瓜が見える。活けたことはないがどちらかというとシンプルな仕上がりが多いので技量の要る花材だ。花言葉の有無が脳裏をよぎるが、この種類はどちらかというと枝振りも気にする方なので、花そのものよりも枝を含めた形を気にする。
「…木瓜」
「ごめんなさぁいいぃいい」
気付いた時には手遅れだ。目線を戻した藤堂の目の前で朝比奈がわんわん泣いた。戸惑いと己の失態にため息が出る。そのため息を朝比奈は自分の所為であると解釈するから余計にまずい。
「だから、お前のことではなくてあの花の名だと言っている」
「うぅッ、うぅ――…」
「省悟…」
下の名を呼べば飛びかかるように抱きついてくる。押し倒されるのだけはこらえる。肘を支えに何とか体を起こす。
 幼子をなだめるように抱き締める。藤堂の感覚では朝比奈は年少だし道場の子供たちとそう認識も変わらない。髪を梳くように頭を撫で、背をさする。
「省悟」
がっしと朝比奈の細腕が藤堂に抱きつく。指先がぎゅうと抉るように強くしがみついてくる。
「酒でも飲んでいるのか?」
「素面です」
ぐずんとすする洟の音がした。
「…お」
「お?」
「おなかがすきました…」
ぐぅーと震えるように鳴る腹の音に藤堂が堪えきれずに噴き出した。
「今度肉料理でも食べよう。生姜焼がいいか、それとも私の家に来るか? 二人分ならばすき焼きや鍋もできる」
罪なく並べる藤堂の唇を朝比奈が凝視する。
 普段何気なく埋もれている美を見つけるのはこんなときだ。濡れた艶を帯びる唇を見て朝比奈が口を開いた。
「花唇って隠語にありますよね、そういう表現」
朝比奈の言わんとすることに気付いた藤堂が燃えるような速さで紅くなる。末端の耳や首筋まで朱に染まって火照る。さらに言い募ろうとする朝比奈の口をふさぐ。
「ほかにも」
「やめなさいッ」
ばちんと音がするほど強いそれに朝比奈は顔を背けて痛みに耐える。藤堂は手加減を誤ったことなど羞恥のあまり気付いていない。顔を紅くして目を潤ませて朝比奈を睨む。
「菊座も判りますよね」
「かっ帰る…!」
羞恥のあまり潤んだ灰蒼は今にも落涙しそうだ。それを朝比奈が文字通り抱きついて止めた。
「帰らないでください―」
「帰るッ! わ、私はそんな話はしたく、ない…ッ」
憤りで巡りの良くなった血流の動きが良く判る。唇が熟れたように紅く蠱惑的だ。朝比奈は臆面もなく藤堂に抱きついてじぃっと見つめる。藤堂が身震いする。突き刺すように強い視線に裸にされているかのようだ。目線を逸らした藤堂は再度合わせることを出来ずにいる。ちょん、と朝比奈の爪先が藤堂の耳朶に触れる。
「熱いですよ。恥ずかしいの、何が」
かつんと触れる眼鏡の硬質な冷たさがわずかに心地いい。
「藤堂さんってボケ。あ、このボケは植物じゃない方のボケです。散々オレのこと泣かしておいて」
「お、お前が勘違いしたのではないのか?! 私の、所為、なのか…ッ?!」
ばっと振り向く藤堂に朝比奈がにィッと笑う。吊り上がる口の端が意味深だ。
「勝手な勘違いは責められませんよね。オレもただ読んだ小説の描写について話しただけです」
「なッ、あッあ…んなッ…!」
藤堂の言葉が空回る。紡ぐべき言葉が見つからない。
「そういう描写が必要な小説を食事のときに話題にするのは止めなさいッ」
「まだご飯じゃないじゃないですかぁー」
ようやく見つけだした言葉に朝比奈はしれっと返答した。言い返したい感情は溢れるほどある。だがうまい言葉はない。もどかしく募るばかりの感情が灰蒼を濡らした。うぅ、あぁ、とうめいて藤堂は潤んだ眼差しで朝比奈を睨むことしかできない。
 「春って良い季節ですよね。盛っても春だからねーって済むんですよ。昨日の夜から近所の猫がニャーニャーニャーニャー、こうびして」
朝比奈が滔々と臨場感たっぷりに描写する。猫の話だ。猫の猫の猫の! と藤堂は頭の中で連呼してしまいになんの話かさえつかめずに羞恥だけが募る。
「――って。藤堂さんも猫だからいいですよね?」

「――家に帰る!」

立ち上がる藤堂とそうはさせじと腰に絡みつく朝比奈とが同時だった。ばったんと倒れ、藤堂は往生際悪く這いずってでも帰宅しようとする。
「もう嫌だ帰る…」
「帰しませんよ。罠にはまったら蟻地獄は絶対離さないでしょ」
蟻地獄の正体を見極める前に藤堂は美味しく頂かれた。木瓜の花弁がはらりと散った。


《了》

むしろ私の頭のほうが春だった。(ウワ)           03/26/2010UP

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