明確に違うこと
ままならないことをくだらないと嗤って逃げるのは簡単だ
必要な会議が終われば出ていく。それだけのためにずいぶん気を使い、その労力はあっさりと無視される。何事もなくと安堵した卜部の背中にそれが降った。卜部、と名を呼ぶその声は韻を含んだように聞きやすい低音だ。聞きとりづらかったら無視してやるところだが武道で発声に慣れているそれは逃げ場さえ与えない。
「ハァ」
たっぷりの間をおいてから振り返る。好ましい状況ではないと知らせることに躊躇はない。それによってどんな痛手を相手にもたらすかも知らぬふりをする。痛手を被ってくれるなら願ったりかなったりである。だが藤堂はそんな稚気にさえ乗らぬ。武道をたしなむ彼の融通の利かなさは敏いはずの触覚さえ鈍らせる。それでも卜部は何でもない顔をして歩み寄る。藤堂は呼びつけておきながら用件をなかなか言わない。直前まで卜部も参加していた会議についての些事を確かめるように繰り返す。卜部は相槌を打つだけだ。その回りくどさは用件が私的なものであることと、良い方向に向いていないことを暗示した。
藤堂は資料を片づけてから卜部を誘った。言われるままについていく。卜部にとって従うことは何でもない。藤堂は自分にあてがわれた部屋へ着くまでの間でさえとぎれとぎれに言葉を継いだ。卜部にとって藤堂は重要な戦力と方向指示者だ。軍属での絶対的な上下関係は爆発的な感情の発露を徹底的に排除した。藤堂もそれを承知しているはずで、だからこそ卜部と藤堂の会話はどこか他人事のように空々しい。なんでもない日常の些事を重要であるかの如く話題に上らせ、それでいて決着をつけず有耶無耶に次の話題へ移るのを繰り返す。藤堂の自室につくまでそれは続いた。
藤堂は卜部を上がらせると何か飲むかと問うた。要らないと答える卜部の声は平坦だ。藤堂は机に資料を置くとあてどなくうろついた。卜部は臆面もなく寝台へ場所をとる。
「何か用なんでしょう、なンすか」
藤堂は心底困ったように眉を寄せた。精悍な雰囲気が砕けて多少親しみやすくなる。それでも卜部は態度を軟化させたりはしなかった。人の目がなくなった以上、支障のない関係を取り繕う必要もない。
「卜部、その」
言い淀む藤堂を無視して卜部は襟を緩め釦を外す。ぽかんと目を瞬かせた藤堂がはじかれたように卜部の脱衣を止める。
「待て、何をして」
「何って、するンでしょう。上が下に声かける用事なんてそれっくらい」
平然としている卜部の指を藤堂が止める。怒りで発熱した体躯の末端が熱を帯び始めの温さをもっている。冷たかったならそれを理由に振り払おうとしていた卜部は不満に口の端を引き結ぶ。藤堂はそれを行動に対する不服であると取った。
「私はお前を下位に見ているつもりはない」
「じゃあなんだと思ってんだ。寝台共有する相手か。下位どころじゃあねぇ単なる駒かもな」
悪しざまな言葉をぶつける卜部の手を掴む力加減が狂う。憤りは冷静な制御を無効にする。ぎりっと軋む音がした。それでも卜部は素知らぬふうに言葉を投げつける。
「使える駒ならァまだいいぜ。寝るためだけの駒ならさっさと鞍替えした方が身のためだ、ここだって無駄飯食わせる余裕ァねェだろうからな。情報漏洩が怖いなら始末するんだな、まァその方が安全ってもんだ。ここだって埃のでねェこたァねェだろうしな」
「卜部ッ」
痙攣的に走る気配に卜部は殴打を覚悟した。頤を引いて唇を引き結ぶ。卜部を止めた藤堂の手は既に離れている。拘束を解かれても熱の名残があるかのように卜部は動作を続けられなかった。平手も殴打もなく卜部は藤堂を見た。羞恥など感じさせないほど堂々を藤堂を見据えた。藤堂は黙って口元を引き締めていた。表情に変化はない。寝台に腰かけていた卜部の目線は自然と下を見た。
黒い雫が滴っている。それが血液であると気づいたのは立ち上る鉄錆の匂いに気付いたからだ。握りしめた指の間から滴るそれは内部が飽和状態にあることを示す。
「なにしてッ」
藤堂の手をとって無理矢理に拳を開いた。手の平の関節に沿って裂傷が走り、刹那に肉の断面が覗くがすぐに溢れる鮮血で見えなくなる。隠しを探って指先に触れたハンカチを傷口にあてがう。軍属として応急的な処置の知識程度はある。藤堂は抵抗もせずされるままだ。他人事のように傷口を見つめる。痛みさえもないかのように無感動に流血を凝視した。
「あんたァ何やってンすか」
「お前こそ」
卜部は不服をきょろりと上げた視線で示した。藤堂は眉一つ動かさない。
「私と寝た後、お前はいつも無茶をする。刃物をもてあそんでいたり要らぬ場面でリスクさえ気にせず突っ込んでいく。……私は」
卜部は言い訳しない。取り繕うこともせずに黙って結び目を固く締めた。
「私は、負担か?」
藤堂の玲瓏とした声は揺らいだ。哀れさえ湧きおこる根底の揺らぎは触覚に走る。藤堂の声は明瞭で聞きとりづらい揺れも起きていない。けれど奥底では明瞭に揺らぎを見せる。気付かれぬ位置で弱味を見せる気遣いや物分かりの良さが、好ましく疎ましい。
「…だったらどうだって言うんだ」
卜部の言葉に藤堂の表情が歪んだ。否定することも嘘をつくことも簡単で、だがそれは解決にはならない。波風立たぬよう穏便に暮らしていくコツは曲げることを覚えることだ。己の主張を殺して価値観を変動させ、態度や好悪の基準さえ移行する。他者に基準を求めることが悪であるとは思わない。だがその譲位は己を犠牲にしている。犠牲は必ず虚を生む。空隙を埋めようとして衝動は起こり、結果、行動に反映される。それをうまくこなしていくことも処世術の一つだ。
「俺の状態なんて、あんたに関係ねェでしょう」
「私はお前を関係ないと思ったことはない」
低い音程は憤りと戸惑いを如実に示す。卜部はそれらの変化を気付かぬふりで押し通した。
「関係ねェですよ。あんたの位置から見たら俺なんて吹けば飛ぶ」
「思ったことは、ないッ!」
藤堂の体が前傾して身を守るように背骨を湾曲させる。額づくように膝をついて、卜部の膝へすがりつく。卜部が手当てをした手だけが祈りでも捧げるかのように高い位置にあった。
「…私は、誠意をもって接してきたつもりだ。私はお前を疎んじた覚えはない。罵倒することがあったなら、ならば撤回する。寝床での関係が苦であるなら転換も構わない。私はどちらになっても、構わない。だから、だか、ら」
潤んだ灰蒼が瞬いた。過剰な潤みを帯びたそれは懸命に落涙を堪える。落涙することの意味を正確に理解している。愛おしい。藤堂の感情に呼応するように卜部の体内を駆け抜けるものがある。だが愛情は同時に犠牲を強いる。卜部は自身に強制力があるとは思っていない。だから二の足を踏む。慎重であると言えば聞こえはいいが失敗による損失を恐れているだけだ。利益を求めるものに失敗を恐れる権利はない。だから卜部は過剰な利益や情を求めずにきたつもりだ。身の程というものは確かにある。
「――うらべ。私はお前から離れたくない」
俯けた藤堂の頬を滑る雫が部屋の明かりを乱反射した。ぽたぽたと温い雫が膝に散る。
「私では、足りないか。至らないところがあるのか。何が足りない。何が駄目だ。改善する努力する。だ、から――」
卜部は静かに藤堂を見た。広い肩がかすかに震えた。色の抜けた鳶色が白色灯に艶めいた。相手にすべてを委ねるような真摯さは、藤堂を慕う朝比奈とよく似ていると思う。
「…あんたさぁ」
藤堂が顔を上げた。落涙の痕跡はかすれて見えない。涙の痕が白く照る頬に卜部の指先が滑った。
「俺の何が好き? どこが好き?」
口を開きかける刹那を狙って言葉を投げつけた。
「全部ってなァゼロと同じだ。何もねェのと全部ひっくるめるってなァ同じだろ」
「そう言う斜に構えることろは可愛いと思う。素直になれなくて苦心している努力が愛い。お前はもっと、人が好い」
卜部の方が驚愕する番だった。予想外の返答に投げつける罵声さえ見つからない。藤堂がくすりと涙目のまま、笑んだ。
「そう言う悪くなりきれないところが、好きだ」
「ばッ――」
卜部の手がはじかれたように藤堂の手を離す。ぱたぱたと散った紅い雫が灼きついた。
喉の奥が震えた。熱くこみ上げるものの実体などなくただ吐き気だけが押し寄せる。喘ぐように息をして、開いた唇からは呼気が漏れる。ズルズルと後ずさると寝台が軋む。片手で顔を覆うように掴む。隠すと言うより掴むに近い。皮膚を擦れた爪痕が紅く染める。
「卜部、傷が」
皮膚を擦る爪痕をどけようとする藤堂の手を払った。
「――触る、な」
触れられるそこから融けていくようだった。己の境界線が曖昧になる。自己の線引きさえ危ういそれは危機と快楽を同時にもたらす。危ういからこそ心地よく。快感と危機は表裏一体だ。
「うらべ」
払いのけようとする手首を藤堂がとらえる。異議を唱える前に唇がふさがれた。卜部の体が傾ぐ。空いた方の腕で咄嗟に肘をついて体を支えた。藤堂の膝が触れる。いつの間にか乗り上げているそれを見た。
「なんだよ、受ける気?」
揶揄するように指摘すれば慌てて退こうとする。
「あんたァそう言うところが優しいから喰われるんだ」
「ならばお前を襲うべきか」
哄笑が響く。耳の奥で鳴動するそれは卜部が発信源だ。
「うらべ」
「だから、そういうところが」
藤堂が唇を寄せた。ふわりと柔らかいそれが性別さえ曖昧にした。触れてくる肉片に性差は驚くほどない。
「そう言う悪びれるところが好きだ。お前は自分の身の程をよく知って、いる」
藤堂の声色に嘆きがにじむ。卜部の骨のずっと奥を撫でるようなそれは背筋の深部を駆け抜ける。
「…どこがだ」
ぞくぞくとするそれは確かな快感に変換される。深層を犯されている様な快楽。誰も踏みこませなかった個所へ藤堂は踏み入ってくる。藤堂の潤んだ灰蒼が蠱惑的に誘う。血のにじんだ手のひらも、鼻につく鉄錆の香りでさえ。
「…お前は、判断に迷う」
卜部は黙って続きを待った。藤堂の口の端が吊りあがる。不似合いにすれた笑みは娼婦のように見慣れたものだ。どこにでもあって誰にもない。
「私が受け入れられない器ということか。私は、お前と交渉をもつたびに位置取りに苦労する」
好きであることはすなわち位置取りにはならない。同性間の交渉である以上、位置取りは重要で、それでいて卜部の望みは転換する。一所にとどまらないそれは常に鮮度を重要視する。
「攻め込むべきか受け入れるべきか、いつも迷う」
「今は?」
「判らない」
「素直っすねェ」
嘲るような卜部の言葉にすら藤堂は動じない。内側が満ちていく。卜部の体内に熱さえ広がるような気がした。広がる熱は領域をとどめない。卜部が触れる指先からさえ拡散する錯覚を起こした。
「バカみてェ」
「誰が」
「俺がですよ」
藤堂の体内への侵入を望み、同時にそれは侵入されることさえ望む。
「一つになるって意味がわかった気がする」
「…私は判らないが」
「いいです、判らなくて」
「それは困る」
あっさり言ってのける卜部に藤堂が慌てたように噛みついた。
「卜部、私は本当にどうしたらいいか」
謙虚を通り越して滑稽なそれに卜部が口の端を緩めた。藤堂は驚いたように目を瞬く。濡れた灰蒼の瞬きが新鮮だ。
「…そういう目は、反則だ」
「反則ったって、俺ァどういう目ェしてんだか判らねェんですけど」
藤堂の灰蒼がじっと卜部を凝視する。返答を待つというより反応を待っている。卜部は殊更に反応しないよう苦心した。それでも藤堂の表情がふぅと緩む。
「潤んでる」
「それはあんただろ」
言われて慌てて目に手をやる様はうぶだ。今までの警戒が無駄だがそれは心地よい。声を立てて笑う卜部に藤堂がむっと睨んだ。
「お前こそ泣いている」
「あァもうるせェなァ」
卜部から唇をとらえた。融けあうようなそれは確かな快楽だ。
「あんたァさっき怒ってたでしょう、その熱が残ってる」
「お前が怒らせるようなことを言うから」
触れる指先から体温が同化する。
「へェ怒ってくれたんだ」
卜部の指先が鳶色の髪を掴む。藤堂の指先が首を撫でてから卜部の縹色の髪を梳いた。
「好きだ」
犠牲さえ気にならない。
抱きあう体の末端さえ熱く。
《了》