不意の来訪


   嬉しい厄介

 凍った外気を温んだ室温が融かす。独り者の安普請であるから窓という窓や通気口が結露する。拭うそばから水滴がにじんでしまいに拭うのを止めた。炬燵に腰まで突っ込みながら卜部は濡れた窓を見た。紺碧の空が群青へ落ちていく。暮れ時の冷え込みがこたえる時期になってきた。部屋は手狭だが暖房器具が炬燵一つで足りるのを利点と思うことにしている。藤堂の私邸などはよほど広く、維持するのも手間が要るのだと藤堂が言っていた。部屋全体で温もることがないからとこぼしていたが藤堂は寒さには強いようだ。道場での裸足も平気な顔をしているし薄い道着で何時間も過ごすのを繰り返しても体調を崩さない。卜部はと言えば道場に顔を出す際にそのくらいはこらえるが後でつけが回ってくる。季節の変わり目に体調を崩す体はどう怠けても肉がつかない。夏や冬の気候変動は無茶な食欲による発散ではなく異常を感じた食欲減退を選んでいる。そのくせ好みは甘味に偏りを見せていて卜部の食事風景はたいていのものをげんなりさせる。メープルシロップは美味いと思うと言い訳のように付け足すそれさえ却下される。
 「……ぬくい…」
炬燵のぬくもりは睡魔と相性が良い。空腹であることも忘れて微睡んだ。部屋は狭く卜部は長身であるから、注意していないと思わぬ打撃を食らう。不意打ちのそこに手加減はないから飛びあがるほど痛むこともままある。炬燵で丸くなると歌われている猫よろしく器用に四肢を折りたたんで暖をとる。そう言えば猫は狭くて暖かいところが好きで、それが思わぬ事故につながることがあるのだということを思い出した。狭いところはすぐに体温が移って温もるから性質が悪い。もぞもぞ移動しながら微睡みを繰り返す。寝返りは打てないから微妙に位置をずらす。覚醒と睡眠を交互に繰り返して夢か現か区別がつかなくなる。その瞬間は当然であると思っているのに不自然さにふと気付く。微睡みは手軽な快感だ。体に毒なわけでもないし体力も消耗しないし金もかからぬ。
 何かが遠くで鳴っていることにだけ気付く。聞いたことのある音は耳障りなほどに響いている。それが呼び鈴であることに気付いた刹那に誰何された。
「卜部巧雪!」
「はいッ」
反射的に背筋が伸びた。ガヅンと不穏な音がけたたましく立ち、目の奥で火花が散った。卜部は強打した後頭部を押さえてぴくぴく震えた。
「…――…ってぇ…」
狭い部屋と卜部の職業癖が裏目に出た。卜部は軍属であるから名前を呼ばれれば自然と背筋が伸びる。寝ぼけてずれた位置で体を伸ばしたら建具の角に後頭部が命中した。むろん無意識の行動であるから速度に手加減はなく大打撃だ。
「マジで火花散ったぞ…」
のそのそ這いずって起き上がると来訪者も確かめずに扉を開けた。地味だが品の好い姿形の藤堂がきょとんと卜部を見ていた。卜部の方でもどう反応したらいいか判らず言葉がない。藤堂の吐息が襟巻のあたりで白く凍る。灰白の襟巻は藤堂の灰蒼の瞳と呼応してよく似合った。
 卜部はとりあえず藤堂を家に上げると茶を淹れる。藤堂は手に提げていた袋を差し出す。
「口に合わなかったら捨ててくれ」
最低限の梱包を解く。半透明の容器に詰められている球体は膨張して所々表皮が裂けている。こぼれた果肉の山吹色が目を惹いた。
「なンすか」
「金柑が手に入ったから甘煮にしただけだ。少しくらいはつけ込んであるがお前は甘党だから甘さが足りないかもしれない…」
このご時世は温室栽培が盛んで季節ごとの旬さえ忘れがちだ。輸入物ともなれば年中出回る。金柑の旬がいつだか思い出せないままに卜部は礼を言って受け取った。藤堂には炬燵へ当たるように言ってから一粒つまんだ。甘酸っぱい柑橘類独特の酸味と苦みがあり、煮詰めた甘さも感じる。
 目をやれば藤堂は襟巻や外套を脱いで炬燵にあたっていた。こじんまりしたそこへ当たっている様はなんだか不似合いで微笑みを誘う。きちんと正座しているところが藤堂らしいが寒さはこたえるようで炬燵の温もりを歓迎しているのが背中から判る。その背中が微妙にねじれて藤堂の端正な顔が振り向いた。
「行儀が悪いぞ」
咥えていた指を吐きだしてひらひら振ると藤堂が苦笑する。
「不味いかな。私はどうも味に詳しくない」
「美味いと思いますよ。いただきます」
ついでにもう一粒口の中へ放りこむ。むぐむぐ咀嚼しながら指先をズボンにこすりつけて拭う。藤堂が嘆息する気配がしたが何も言わなかったので卜部の方でも深追いしない。男の一人暮らしであるし粋など判らないから淹れる茶も簡略的なものだ。熱湯を直接注がないだけの分別はある。それだけである。藤堂は黙って待っていた。しきりに指先をこすり合わせるのは冷えているからだろう。末端はすぐ冷える。
 卜部は藤堂のよこした金柑を取り分けた。茶菓子がないことと藤堂の持ち込んだものを茶菓子にすることを詫びておく。来客が少ない所為か様々なものを切らしている。元より卜部は補充に熱心ではないからその手ぬかりは輪をかけることになる。藤堂は構わないと言って湯呑をとった。
「味見は?」
「したが。だが私一人では腐らせてしまうと思って。お前なら食べるかと」
卜部は相槌を打ちながら炬燵へ当たる。
「朝比奈あたりにやりゃあいいじゃないすか」
「不要だったか?」
「勘繰るじゃねぇっすか。要らねぇってこたァねぇけどあんたなら朝比奈ンとこ持ち込むかと思っただけっす」
卜部は悪びれない。朝比奈が藤堂を慕い、藤堂もそれを悪く思っていないのは周知であるからあくまでも優先順位を想像しただけだ。
「あれは醤油を好むから、甘いものは迷惑かとも思って…それにお前は甘いものを好むと聞いていたから」
藤堂が言い訳するように言い募る。時折唇を尖らせようとして思いとどまるだけの間がある。案外子供っぽい仕草が残っていることに卜部は声を立てて笑った。クックッと笑って背を折る卜部に藤堂が頬を染めた。
「巧雪!」
二人きりの時の呼び名を呼べば卜部の目が藤堂を見た。藤堂と卜部は互いの部屋を行き来するし合鍵も持っている。寝床でも役割はその時々で決まり、固定ではない。抱いたし抱かれた。思う以上に柔軟なこの取り決めを藤堂はことのほか喜んで何かと言えば卜部のところへ駆け込むようになった。卜部も藤堂を厭うていないから受け入れる。
「…やっぱり、不味いか?」
「そこかよ。だから不味くねぇって、あんたァ食ってみりゃあいいでしょう」
「味見はしたと言ったろう。私は私の事を信用してはいないから」
困ったように笑んだ藤堂から卜部は目線を逸らす。藤堂は黙って湯呑を傾けた。
「お前は私が巧雪と呼んでも怒らないのだな」
ずいと近づく灰蒼に見入られた卜部は返答が遅れた。過剰な潤みで水面のように藤堂の双眸は揺らめいた。藤堂の双眸は卜部を惹きつける。藤堂に働かれる無礼もある程度ならこの双眸の魅力で帳消しだ。まして藤堂は凛とした精悍な顔立ちであり欲を感じさせない灰蒼が似合う。全体的に作り物じみていて、それでいて天然でしかありえない空気をまとう。髪は色の抜けた鳶色で闇を吸えば黒く日に透ければ茶褐色へ顔を変える。
「巧雪?」
触れた指先の熱が卜部の皮膚を駆け抜ける。びりっと走る電流のようなそれに体を引けば、藤堂は戸惑いを隠さず困ったように笑んだ。
「優しいな」
頬に触れてくるのを卜部は何気なく払う。藤堂が触れたそこから融けるような気がする。冷え切った藤堂の指先は氷のように緩やかな同化と異質を繰り返す。芯の部分では同調しない癖に表面は融解するように融けあう。
 「馴れ馴れしいぜ」
「すまんな」
冷えた指先で藤堂は卜部の首を撫でた。走る冷たさは微量な痛覚にも似た。痛いのか冷たいのか区別がつかない卜部から藤堂は指先を離す。
「お前は私に触れてはこないな」
卜部は殊更に慣れ合う心算はない。朝比奈などは事あるごとに藤堂に抱きつくが卜部は抱擁に価値を感じない。交渉を持つ際の手順として心得ているだけだ。
「抱き締められると体が弛む。体温と同化するんだ。温もりが強張りを解く」
藤堂の口ぶりは経験があると言っているも同然だ。卜部は黙って続きを待つ。
「抱き締めてもらうというのは贅沢には違いない。あの解放は、得られない快感だ」
きょろりと卜部を見上げる灰蒼が瞬いた。卜部の茶水晶はそれを見つめ返す。藤堂の唇がわなないた。口にすることを恐れつつ望んでいる。
「私は、お前に…――」
藤堂の喉仏が上下する。引き締まった藤堂の体躯の出来は細部にまで及び、手首などの駆動部は驚くほど細い。喉仏は自然と目を惹いた。不規則に尖ったそれは刳りぬいてしまいたくなる。卜部は差し出した指先で藤堂の唇を撫でた。暖房で乾いた唇はそれでも皮膚一枚の裏側に豊かなふくらみを保持している。くぅと弓なりに反って笑む。血の通う紅さが目立つ。熱い湯を使って表層だけ融けた卜部の感覚の奥深くへ藤堂の熱は響いた。その唇が動いた。
「お前に私を抱きしめて欲しい」
卜部はこらえきれずに笑いだす。藤堂が目を眇めて不満げに唸った。
 「あんたァ、朝比奈にしょっちゅう抱きしめられてンでしょうに」
「あれは、違う。抱きしめるというより飛びついているし…私は、お前に!」
藤堂は焦れたように言い募る。卜部の言うことはあてつけであると知っているから余計に言い募ろうとする。卜部もそれに気付いているから言及しない。双方の矛先はてんでにそっぽを向いて噛みあわない。
「私は、お前が、好きだ」
藤堂の頬が紅い。藤堂はめったに感情をあらわにしないからその変化は珍しく卜部の目を惹いた。珍しいだけに不意打ちでもあり卜部の対応が遅れる。その遅れを責めるように藤堂はさらに頬を紅潮させて言い募った。
 藤堂は炬燵を抜け出して卜部ににじり寄る。対応の遅れた卜部が気づくのも遅かった。呆気にとられている卜部の唇を奪う。乾いたそこを湿すように温い舌先が撫でて唇が吸いつく。
「ちゅう」
「名を呼べ」
命令のそれに卜部の声が途切れた。藤堂が痛むように卜部を見る。卜部は静かに音を紡いだ。
「鏡志朗」
藤堂の体が震える。卜部に名を呼ばれるだけで快感を得た。藤堂の震えが唇を通して卜部へ通じ、その震えを卜部は受け入れた。
「巧雪」
藤堂は勢いのままに卜部の体を押し倒す。
 卜部の体は痩躯であり皮膚のすぐそばへ骨格が感じられる。歪みやひずみもたどれば判るし卜部も隠そうともしない。軍属であるというだけの筋力は有しているが全体的にまだ細い。目方はともかく体の厚みだけでいえば朝比奈の方があるやもしれぬ。卜部は背丈があるので余計にそう感じられる。
「細いな」
「肉がつかねェんですよ、なんでかァしらねぇけど」
藤堂の接ぎ穂を卜部が言い当てる。ついでとばかりに結論まで言われて藤堂は言葉がない。卜部に肉をつけろと口うるさく藤堂は言ったし卜部もまた偏食したりはしなかった。卜部はそういう体質なのだろう。茶水晶がきらりと藤堂を見据えた。藤堂は逃れようとして卜部の髪を引っ張った。縹色の艶を帯びる髪は珍しいと思う。いてェと卜部が呻いたが構わずに梳くようにして引っ張った。後頭部に指先が触れると卜部がびくびく跳ねる。
「いてェいてぇって、痛いッ! そこぶっつけてるんですよ、触らないでほしいですけど」
緩やかに撫でれば確かに瘤がある。一時的なのだろう腫れも押せば嫌がる。たんこぶの手応えに藤堂は笑いだした。
「一体どうした、こんなところに瘤をこさえて」
「あんたァ俺を呼ぶからでしょうが。そんときに出来たんですよ」
いまいち判らなかったが藤堂はそれを無視して瘤のあたりを撫でさする。痛い痛いとうめく卜部が愛おしかった。
「いやあのマジでいたいンで触んないでほしいっす」
茶水晶は涙に潤んで揺らめいた。痛いというのは本当らしいと判じた藤堂は指先を離す。最後にグイッと瘤を押すと卜部が顔を歪めた。
「いてぇって言ってんのになんで押すかなあんたァ」
「本当に痛いらしいな」
しれっと言い放つと卜部がぐぅと黙る。拗ねるようにごろりと寝がえりを打ってうつぶせる。目の前に現れた卜部のうなじへ藤堂は唇を寄せた。頸骨をたどるように唇を寄せて吸いつく。卜部は痩せているから骨格がすぐに判る。襟足を引き下げれば頸骨の尖りが背骨へ続くのが見えた。肩ともうなじとも言えぬ境界へ藤堂は唇を寄せた。吸いつけばびくりと震える。震えたところで見えぬから卜部はおずおずと藤堂を窺う。
「あの」
「お前がそっぽを向いたのだろう」
言い捨てて藤堂は好き放題にそこへ吸いつく。指を這わせて釦を外し、襟を開かせてくつろげていく。卜部も拒否しないからエスカレートしていく。肩まであらわになったところで卜部は初めて身じろいだ。慄然とした震えは小動物の鼓動のように庇護欲を呼ぶ。
「どこォ吸いついてンですかッ」
「お前の背中。うなじともいうかもしれぬ。お前の背なだよ」
卜部が黙る。藤堂はこれ幸いと鬱血の痕を残す。卜部は炬燵の余熱で温もった床へ頬をこすりつけるようにして喘ぐ。渇いた喉が舌を張り付ける。喘ぐ唇を藤堂がふさいだ。
「お前が好きだよ」
炬燵のぬくもりとは明らかに違う熱が卜部の体を貫く。内部から発熱するそれは無限に熱を帯びて卜部の事情などかまわない。強弱の波を帯びるそれの拍動に卜部は同調する。一方的に熱い炬燵とは別離した。融ける。喘ぐ卜部の唇を柔らかいものがふさぐ。適度に湿り気を帯びたそれは藤堂の唇であると数瞬の後に気付く。
「――ぅ、あ、ぁあッ」
呻いたのか唸ったのかさえ判らない。喉を震わせてこぼれた声は言葉というより音に近い。眇めるようにして開いた視界に藤堂が埋まる。潤んでにじむそこへ藤堂は入り込み、退かない。ぺろりと舐められて視界のにじみが消えた。藤堂の燃えるような篝火の舌先が見える。点るように紅いそれが見える。触れてくる藤堂の指先が燃える。灼けつくそれは表層ではなく深層を犯す。芯が燃える熱は収めづらく煌々と深層で燃える。表層は静まっているのに芯が燃えるのだ。表層からの干渉を受けにくく容易に静まらない。
「きょう、し、ろ…」
藤堂は黙って卜部に口づける。腫れた後頭部やうなじへ吸いつく。
「いてぇって」
「気持ちいいんだろう」
卜部の耳朶へ藤堂は甘く囁く。指を這わせれば胸の突起が尖る。体の反応は必ずしも感情とは同調しない。
「巧雪」
藤堂の睦言が表層を滑る。卜部が笑んだ。
「鏡志朗」
藤堂は卜部の尖った肩へ指先を這わせた。撫であげれば鎖骨と連動したそこが震える。
「好きだよ」
卜部は声を立てて笑った。


《了》

どういう話だよ                     02/22/2010UP

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