あなたに見えなくても私には見える
わたしのかち
割り当て分の仕事を終えると朝比奈は足早に自室へ戻る。自室へ戻らずに藤堂の部屋へ直行すると何故だか藤堂にはそれが判るらしく渋い顔をされる。朝比奈が何をなげうっても後悔しないとさえ思って慕情を寄せる藤堂は己のために何かが犠牲になるのは我慢がならない性質だ。だから朝比奈はいつも藤堂の部屋へ訪うための理由づけに苦労する。それでも堪えきれずに直行しては休みなさいと叱られるのを定期的に繰り返す。休みなさいと人を叱る藤堂が休みを取らないのだから手に負えないと思う。加えて藤堂は事前の兆候をことごとく気力で押さえこんで人に悟らせないのだから余計に悪質だ。朝比奈はいつも神経を研ぎ澄まして藤堂を見ている。違いが窺えれば素直に問うし気も遣う。けれど朝比奈がいくら心を砕いてもその何割も藤堂には伝わっていないのが現状だ。不服ではないが不満くらい感じてもいいと思う。タッタッと足早に角を曲がったところで藤堂の背が見えた。藤堂は長身だし立ち居振る舞いに独特の差があるのですぐに判る。声をかけようと口を開いた朝比奈の声は喉へ張り付いた。
藤堂は愉しげに歓談していてその相手は卜部だ。それだけ見ればどうということもない。卜部は朝比奈と同じような位置にいるし藤堂との付き合いや信頼関係も築いている。藤堂を挟んだ相関図ではいささか不穏な位置にいるが卜部の人柄自体は特に悪いとは思わない。適当に要領がよく適当にもたつく。いい人ね、と異性に一蹴される種類であると朝比奈は判じている。特徴的なのはその背丈で長身である藤堂よりまだ背が高い。卜部の方を見る藤堂の顔が若干上を向いている。以前何気なく中佐の上目遣いっていいよなァとこぼしたが朝比奈はまだその恩恵にあずかっていない。朝比奈は標準的な背丈であって藤堂の上目づかいを見るには藤堂の方で屈んでもらわねばならない。だから朝比奈の中で卜部に対する好感度は下降した。嫉妬であると判っている。
振り払うように声をかけようとした朝比奈の指先が慄然と震えた。談笑しながら笑んでいる藤堂はわずかに頬を染めて卜部を諫める。卜部もそれを受けて気軽い揶揄でも返すらしく二人は和やかに言葉を交わす。その気軽さが朝比奈は欲しかった。朝比奈の口元がみるみる引き締まって細い眉がきりきり吊りあがる。大きいと言われた双眸を眇めてやぶにらみのまま二人を睨みつけた。
卜部が長身をかがめて藤堂に視線を合わせる。藤堂も行儀よく笑う。厳しい藤堂の笑顔はそれだけで稀だ。まして藤堂はむやみに愛想を振りまいたりはしないから希少価値は余計にある。卜部は藤堂に朝比奈と同系統の思いを抱いている。藤堂は気づいているのかいないのか態度に出ないが朝比奈から見れば一目瞭然だ。だいたいにして上目遣いがいいよなァとこぼす輩に下心を感じない方がおかしい。そしてそこに鎖骨がくっきり見えるぜなどと付け足されればなおさらだ。その直後に朝比奈は卜部に飛びかかってひと悶着起こした。後日お叱りも兼ねた呼び出しで藤堂に理由を問われたが朝比奈ははぐらかした。卜部もそうであったらしく手応えを感じられなかった藤堂が寂しげな顔をしていたのが印象的だ。
朝比奈は殊更に足音をさせて近寄った。もともと気配に敏い藤堂であればすぐに気付く。卜部も藤堂の目線を追うように視線を投げて朝比奈に気付いた。
「なに話してるんですか? 藤堂さぁん」
間延びした語尾は朝比奈独特の言い回しだ。とにかく藤堂のことを慕うものとして他者と一線を画したかった。藤堂に殊更に嫌がられた覚えもないので執拗に使ううちに定着した。今では朝比奈が普通に藤堂さんと呼ぶと気づいてもらえなくなっている。継続は力なりとはよく言ったものだ。
「特に何も。戯言だ」
藤堂の言葉はいつだって簡潔で判りやすい。だがその簡素さは時に不親切であると感じさせる。卜部も話題の事を殊更にあげたりはしないから余計に二人の仲を勘繰る。自分に明かされない二人の会話の主題は何であったろうと勘繰りをする。オレに言えないことなの、教えて欲しいです。募る不満を胸の内にとどめて朝比奈はにっこり笑う。下から覗きこむように藤堂を見つめる。上から見えないなら下から覗いてやると鬱憤晴らしに始めたが案外効果があるらしく、何度やっても藤堂がたじろぐのだ。面白いから繰り返す。憂さ晴らしだ。
「藤堂さんの戯言って興味あるんですけど。なに話すんですか?」
「野暮言うなよ」
答えあぐねて難渋する藤堂を見かねたのか卜部がきっぱり言い放つ。朝比奈がム、と眉を寄せても卜部は取り合わない。しれっとした言葉遣いに聞こえるのは卜部の言い回しの癖だ。卜部の言葉にはことごとく力みがなく重要性の度合いが判らない。何気なく伝えられた伝言が重要事項であったり、その逆であったりするのは日常茶飯事だ。卜部の助け船に藤堂が助かったと言わんばかりに肩を撫でおろすので朝比奈は言及するのを止めた。藤堂の苦になるようなことはしたくない。
「ねぇ藤堂さん面白い本があったんです、貸しましょうか」
「見せてもらう。…卜部、すまなかったな」
「いえ、別に」
藤堂から切り出した別れの挨拶に卜部も応える。特に未練もなく踵を返す卜部の背が朝比奈をはねつける。朝比奈が穴を開けようとするほど強く卜部の背を睨んだ。藤堂が朝比奈の肩を叩く。
「朝比奈?」
「…ねぇ藤堂さん、なに話してたの? オレには言えないようなこと?」
蒸し返された話題に藤堂の表情がしかめられる。
以前から感じていたことではあったのだが藤堂は卜部には甘えるのだ。卜部に話す内容は多岐にわたるらしくそれは愚痴であったり悩みであったりして、その内容は藤堂を慕うものとしては無力感に打ちのめされてしまうような内容であるのだ。オレだって藤堂さんの愚痴くらい聞けるのに、と意気込んだところで藤堂は朝比奈に愚痴をこぼしたりしない。確かに戦闘における問題点であれば藤堂に劣る力量である朝比奈に相談するようないわれはないのだが、それが私生活に関することであるとなれば朝比奈も指を咥えているわけにはいかない。藤堂のどんな面も受けとめたいと思っているだけに、その差別化は朝比奈の劣等感をちくちく刺激する。己の力不足を遠回しに指摘されている様な気さえするそれはもうどこまでが朝比奈の自意識であるかさえ判らない。朝比奈の自意識過剰であればいいと何度も思うのだが、どうも藤堂は卜部と朝比奈への態度に差をつけている。だが藤堂を思えばこそ朝比奈は指摘を避けてきた。真実、朝比奈の力不足であるならばただの言いがかりであり、迷惑なだけなのだ。
「…藤堂さん、いつもあの人と、なに話してるんですか?」
「……特に決まっては、いないが」
口下手な藤堂にしては上出来の部類だろう。当たり障りなく、相手に不利益ももたらさない。だが藤堂のそういう気遣いこそが朝比奈の苛立ちを呼んだ。鬱積した苛立ちは朝比奈から冷静さを奪う。
「あの人には愚痴とかいうんでしょう、ふぅん」
鼻を鳴らす朝比奈を藤堂が咎めるように見つめる。朝比奈のそれは明らかな言いがかりだ。
確かに藤堂と朝比奈では十近くも歳が違うし、朝比奈より卜部の方が年齢的には藤堂に近いに違いない。年齢の近さというものは案外親近や疎外を生む。それは理性というより感情的なものであり覆すのが難しい。だから朝比奈はいつも藤堂に対して至らぬ面があるのではないかと気をもむ。卜部の方が人生経験もあるだろうし、その理論でいくと仙波などは最重要の信頼をおいてもいいほど年を経ている。仙波は藤堂を息子のように大事にするが猫可愛がりはしないし藤堂も程よい距離を保っている。朝比奈は卜部となまじ年が近いだけに対抗意識が燃えるのだ。卜部と朝比奈の間にちょうど藤堂が嵌まる。だからこそ厄介なのだ。
「ふぅん、藤堂さんてオレに言えないことでもあの人には言えるんだ。オレって何なんだろ。オレのいる意味ってあるのかなー」
素気無く自身を卑下すれば藤堂は慌てふためいた。藤堂はとにかく他者の評価を損なうことに敏感だ。自傷行為にでも走れば何を押しても止めるに違いない。そういう面で藤堂の行動や読みやすく、誰もそれを指摘しない。心地よいのだ。思ったように事態が進展するのを面白く思わぬ輩はいない。
「朝比奈、そういう物言いは、感心しない」
諫める藤堂のこれは最大の譲歩だ。同時に手加減の見切りでもある。これ以上は相応の制裁があるという前触れでもある。朝比奈はそれを意識的に無視した。
「ねぇ藤堂さん」
下から覗きこむ朝比奈を藤堂は黙認した。
「あの人と、何を話すんですか?」
この固執は子供じみた嫉妬からくるもので返答内容に重要性はない。その返答自体が価値を持つ。藤堂がどれほど真摯に対応してくれたかが鍵なのだ。それに正誤は関係ない。藤堂は答えあぐねていると言ったふうに言葉を濁した。良くも悪くも嘘をつけない性質なのだ。その不慣れな生真面目さは普段の朝比奈であれば思慕の対象であっただろうがタイミングが悪すぎた。明かされない部分に重要性が秘められていると邪推する。
「いえないようなこと話してるんだ。ふぅん、藤堂さんがそういう人だとは思わなかった」
藤堂の表情が引き締まる。ピクリと震えた指先は平手打ちを堪えているのだろう。判っていて朝比奈は暴言を続けた。暴言であると判って続けるのだから余計に手に負えない。
「隠さなきゃいけないようなことしているんだ、へぇ、ふーん、ずるいなぁオレだってしたいのにな―、あの人には赦すんだ、ずっるーい」
ヒュウと空を切る微音がして、直後に燃えるような打撃が朝比奈の頬を襲う。ぐらりと揺れた視界は藤堂の力強さを示し、笑って済ませられないだけの痛手を朝比奈に与えた。殴られた頬がびりびり痛んですぐに感覚がなくなる。境界線すら曖昧になってどこまで膨れたかさえ判らない。腫れた頬は熱を帯びて脈打つように痛んだ。
「分別のないことを言うものではない」
諫める藤堂の言葉は正論過ぎた。
ぼろっとこぼれる涙に藤堂がびくっとはねた。朝比奈も落涙に気付いたが止められない。ぼろぼろと涙がこぼれて朝比奈の自意識など疾うに振り切っている。
「…省悟?」
下の名を呼んでさらに問いかけるのは藤堂が朝比奈の落涙に動揺している証だ。震える口元を引き結ぶようにつむんで目線を逸らす。藤堂を視界に入れたら声をあげて泣いてしまいそうだった。藤堂の優しさは触れずとも判る。問いかける口調や音程に気遣いが見える。
「痛いか?」
「……痛い、です…ッもう、なんで…だっていつも」
唇は泣き声に震えてわななき、喉は圧迫されて普段の半分も言葉を紡がない。しゃくりあげる動きは最優先されて朝比奈は泣いた。言葉を吐くために開く口は泣き声に震えるので精一杯だ。藤堂に言いたいことはたくさんある。けれどそのどれ一つとして唇から吐き出されはしない。
「いつもいつも、あの人には言うのにッ、…オレには、おれにはなんも、言わない、くせに…!」
息を吸うたびに胸骨が膨張してひゅうひゅうと音を立てる。溢れてくるのは涙にとどまらず洟まで垂れる。ずびずび言わせながら洟をすすり、涙を拭う。服の袖口はみるみる湿って拭いとる役目を果たさなくなる。
「だがお前は私の事は重大に受け取るから…お前を煩わせたく、なくて」
「言い訳でしょそれッ…う、うぅ…――…オレ、だって、オレだって」
藤堂の手が優しく朝比奈の髪を梳く。抱き寄せられる胸の鼓動が聞こえた。藤堂の拍動は朝比奈の昂ぶった神経を鎮めていく。ぎゅうと抱きしめられて朝比奈は藤堂にしがみつく。朝比奈の肩幅は藤堂に抱き締められてしまうほど華奢でそれは常々朝比奈の劣等感を刺激する。朝比奈の気持ちとしては藤堂を抱きしめたいくらいだ。
「鼓動が速い」
朝比奈の背を撫でる藤堂の指先に倣うように朝比奈は藤堂の背に指を這わせた。皮膚のすぐ奥に脊椎がある。コツコツとしたそれをたどりながら何度も撫でた。腰骨の突起を撫でればびくびくと腰が跳ねる。引き離そうとする藤堂に挑戦的に笑んでから朝比奈は藤堂の腰骨を撫でる。
「よしなさい」
「いやでーす」
揶揄するように軽薄な口調で言う。藤堂の腰は引き締まって綺麗だ。無駄な肉もなく、骨格の形が良いのだろう。この細身のどこに内臓が詰まっているのだろうと思わせる。
「省悟!」
「鏡志朗さん」
意を決して呼んだらしい藤堂にしれっと呼び返せば、燃えるように真っ赤な顔をする。耳や首筋まで紅くなる様はうぶで愛らしい。誰の唾もつけられていないようなこういう反応は飽くこともなく好ましく思う。藤堂は隠しごとも上手くないから経験を積めば判る。藤堂の不慣れは朝比奈の安堵を呼ぶ。
「ごめんなさい、あの人に、卜部巧雪に勝った気がしないから、あなたのこと」
くしゃくしゃと髪をかき混ぜるように頭を撫でられる。目を上げれば藤堂が笑んでいた。
「なにを競うんだ? 私などにそれほどの価値はないが」
「ありますッ! オレは、オレは藤堂さんが欲しくて、欲しく、て」
朝比奈の声がしぼんでいく。俯ければぽたぽたと涙が落ちる。
「だって鏡志朗さんの愚痴なんて聞いたことないし、オレに話せないんだと思って」
言葉にすれば重みが違う。実感として感じるそれに朝比奈が肩を落とした。
「私はお前を疎ましく思ったことはないが」
涙でぬれた暗緑色がぱっちりと藤堂を見つめた。眉の上から走る傷痕は童顔な朝比奈の顔を引き締める。ぱちぱちと瞬きする瞳は二重で時折ぽちりと涙が散った。
「ほ、ほんとそれ…?! きょ、きょうしろ、さ…!」
確かめる朝比奈に藤堂は顔を真っ赤にして答えない。しがみつくのを引き剥がそうとさえするのに朝比奈はその恋情に笑んだ。
「鏡志朗さん!」
「痛くないなら離れなさい」
「やです。嫌です。オレ、もう絶対離れないッ」
ぎゅうーとしがみついて朝比奈が笑った。ぼろぼろ涙がこぼれた。朝比奈の落涙に藤堂も強気に出られず呻いた。朝比奈はしゃくりあげながら藤堂にしがみつく。
「すきです」
朝比奈の開いた視界で景色は幾重にもにじんだ。
「あなたが大好きです」
藤堂は困ったように笑む。紡いだ言葉は朝比奈の理解を超えた。
「私などのどこがいいのか判らない」
朝比奈は抱きついた。目を離せば崩れていってしまいそうな体躯はか細い。鍛えられているのにどこか存在感は希薄で目を離せば崩れていってしまいそうだ。卜部が藤堂を構うのもこのあたりの所為ではないかと思う。藤堂の在りようは確固足り得るのにどこか不安定だ。次の瞬間には跡形もないような、完成されたもろさを含む。
「――いやです」
朝比奈の声が震えた。
「いやです藤堂さん、どこにもいかないで! おねがいですからここにいて、おねがいです、おね、が…!」
藤堂にしがみつく指先が目に見えて震える。藤堂は困ったように笑んで朝比奈の髪を梳くように頭を撫でる。
「しょうご」
「嫌です嫌です嫌ですッ! オレは、あなたが」
カタカタと震える朝比奈を藤堂はどこか遠くでも見るように眺めた。
「あなたがどこかに行くのも誰かのものになるのも嫌ですッ!」
泣き叫ぶような朝比奈のそれを藤堂は微笑で受けとめた。
子供のように嫌ですと繰り返す朝比奈の髪を撫でながら藤堂は茫洋と思う。
わたしはわたしにそれほどのかちはみいだしていない
「私などに価値はないよ」
朝比奈の喉が鳴った。
泣いた。
《了》