たまにはこんな足止めも
いいかな
佳雨
歓談の合間に向けた眼差しの先の光景に卜部はしばし呆然とした。先刻からどうも湿気を感じると思っていたのは勘違いではなく本当に雨が降っていたからだった。卜部にとって藤堂の家を訪うというのは喜びと同時に緊張も要したから天候の変化に気付けなかった。そう言えば自宅を出る際に雲行きが怪しかった。藤堂の家までもてばいいかという甘い見通しを天候は見逃さなかった。卜部は身動きが取れないまま洗濯物の行方を思案した。もう一度洗濯機をフル稼働させることになりそうだ。卜部は単身者であるから家に連絡してという手段は使えない。近隣で雨を知らせ合う気遣いがあっても留守宅ばかりはどうしようもない。しかもこの雨はお湿りなんて可愛げもなくしっかりと雨垂れを降らせている。吹きつけるような強風がないことが幸いだ。帰宅して水浸しの床に直面することは避けたい。
卜部の目線を追って藤堂が庭先へ目を走らせる。洗濯をしていなかったので庭先は閑散としている。これだけ派手に硝子戸を開けておいて今まで雨に気付かなかったのも不思議だ。藤堂も茫洋と雨に煙る庭先を見た。
「卜部? ……洗濯ものか?」
降雨で茫然となると言ったらほかに思いたらなかった。藤堂も卜部が一人身であり日常の作業は一人でこなすと知っている。藤堂自身も似たような状況である。
「……はぁ、そうっすね。まァこの降りじゃあ無理っすね。布団干してなかったなァよかったですけど」
卜部は藤堂に返事をしながら未練でもあるように庭先を睨む。見ていたからと言ってどうというものでもないのだが人は案外こういう無意味な動作をする。藤堂はむぅと唸って考えこんだが、ならば時間はあるかなと言って卜部の湯呑を回収して席を立った。藤堂の長い指先が二人分の湯呑を取る動作に卜部は意味もなく見入った。
「洗濯物を諦めるなら無理に帰ることはない。白雨ならば止むだろうから雨宿りすればいい」
足音さえもさせずに藤堂は奥へ引っ込む。はぁ、と生返事をして卜部は心持浮かせていた腰を下ろした。腹をくくってしまえば大きく構える。何事か作業している物音に耳をそばだてながら卜部は雨降りの庭を見た。
灌木と喬木が入り混じっていて、どういう流れをくむ者がこの庭を作ったのか卜部は知らない。庭を作るときの玉砂利や庭木は見立てられるのだと聞いたことがあるがそれだけでそれがどのような効果を持つのかは知らない。所々に露出している土も黒く湿って雨垂れを吸う。この庭の存在が雨の気配を消していた。アスファルトに雨が降れば気づきやすいが土は吸ってしまうから音さえ消える。だがこの雨が藤堂の家に長居する理由を作ってくれたと思えば洗濯物くらいいくらでも濡れればいいとも思う。帰宅しても暇だし卜部にとって藤堂は好ましくない部類の人間ではないから、ともにいられるならいいと思う。喬木が枝葉を震わせて雫を落とす。猫が身震いする様に似ている。水を好む植物であっても過剰な水分は根腐れを起こすというから、身の程というものが大切なのだと思う。喬木から落ちた雫が灌木に降って、灌木の枝が心なしかしなう。灌木は密に茂っているから逃げ場がなくただ濡れるだけだ。その密度が根元の土の乾き具合で判る。土の色が違う。きらりと煌めく粒子に気付いて卜部はそれを見た。それでもそれらは次の瞬間には違う場所へ移動し一所へとどまらない。目を凝らそうと身を乗り出すところで藤堂の玲瓏とした声が響いた。
「卜部?」
手に持つ盆の上では新しく茶を淹れなおしたらしい湯呑と茶菓子が載っている。
「どうかしたのか」
その問いは探究というより礼儀の意味合いが強く、藤堂は静かに席を調える。翠色の満ちた湯呑と湯気に導かれるように卜部は腰を落とす。
「なンかきらきらしてるなァと思ったンすよ。雨粒が反射してるみてェな」
「薄日でもさしたか。ならば白雨だな」
「なんですかそれ」
「さぁな」
一連のやり取りの後で藤堂は茶菓子を勧める。大皿ですまない、口に合うか判らないが不味かったら残してくれ、と断りを入れてくる。卜部は片眉だけ上げて生返事をした。白粉をまぶしたそれは大福だ。少し嵩がある。ばくんとかぶりついてから卜部はそれがなんであるか知った。うぐうぐと咀嚼して嚥下する。藤堂は幼子のようにじっと卜部を見ている。評価を気にしながら平常を装うことに必死だ。湯呑を傾ける水面の揺れを凝視している。
「苺大福」
切断面から覗く果肉は紅と朱鷺色の層をなし瑞々しく潤う。漉し餡と餅生地に包まれている。苺大福と言えば薄紅の生地が普通だと思っていたのだがそうでもないらしい。
「不味いか?」
ついに堪えきれなくなった藤堂が問うた。卜部はいやいやと空いた手を閃かせる。
「美味いですよ。白いなァびっくりしましたけど。だいたいピンク色じゃねェですか苺大福って」
メープルシロップを殊更に好む性質であるから卜部は甘いものが嫌いではない。目玉焼きにかけると言ったら気持ち悪いと一笑に付されたがあれは美味いと思う。卜部の目線の先では藤堂は安堵に肩を落としていた。
「不味くなければよかった。拵えたのは初めてだったから」
「作ったァ?!」
卜部にとって大福などは作るものではない。まして苺大福と言えば完全に買うものだ。卜部の驚愕に藤堂までびくんと肩を跳ね上げた。
「はぁあ?! これ、作ったァ?」
「あ、あぁ。でも電子レンジに付属の冊子にレシピがあったから難しくはないのかと」
卜部が沈黙した。藤堂がおそるおそる卜部を見る。甘党だと思っていたのだが違うのだろうかとかやはり不味かったのだろうかという思惑が藤堂の表情から読み取れる。卜部は息をついた。
「す、すまない、試食するべきだと思ったのだがお前が来るなら一緒でいいかと…お前は甘いものが嫌いではないと、思っていたから」
しゅんとする藤堂を見る。本当ならここでそんなことない美味いですと言いたいところだがしょげる藤堂が珍しいので黙っておく。灰蒼がじっと卜部を見た。
「……不味い、か」
「いや美味いですけど。本気で落ち込まないでくださいって」
湯呑をおいた藤堂の落胆に卜部は結局泡を食った。
「朝比奈は醤油を好むから甘いものが苦手なのだろうと…だがお前は甘いものが嫌いではないのだと」
「嫌いじゃねェですよ。これも美味いです」
餅の具合も餡の甘さもちょうどいい。そう言えば料理は化学実験に似ているのだとかいうものを思い出す。どういう論拠なのかは知らないが、まァそうなのだろうと納得はした。
「………って、それ、って」
藤堂の言葉を反芻した卜部が喉を鳴らした。藤堂はきょとんとして卜部を見ている。
「朝比奈にも食わしてねぇって事」
「朝比奈? …そうだな、食べさせていないが。お前が最初だが」
卜部の口元が震えて弛む。藤堂は懐いてくる朝比奈を優遇するきらいがある。明確に贔屓などはしないし肩入れもしないが気を遣う。優先する。その朝比奈より先んじることは案外ない。
「へぇえ、朝比奈にも食わせてねェんですか? 俺が最初。なんか嬉しいなァ」
ニヤニヤ笑う卜部の意図を察した藤堂が顔を赤らめる。耳や首筋まで真っ赤にしながら藤堂は呻いた。膝の上にそろえた指先がびくびく跳ねてしまうのは手ぶりを抑制しているからだろう。狼狽した時というものはわりと身振り手振りで誤魔化そうとする。
藤堂は強い視線をふいとそむける。灰蒼が気恥かしさに潤んだ。
「そ、そういう物言いをするものではない…!」
さっと立ちあがった藤堂が濡れ縁へ逃げる。座卓を揺らしたり足音を立てたりしないあたりは作法が行き届いている。藤堂の礼儀への厳しさは己が行儀作法への厳しさへも通じる。藤堂の立ち居振る舞いは奥ゆかしく古式な日本を思い出させる。藤堂は精悍ななりであるから無粋な作法はすなわち粗暴へと通じる。藤堂自身もそれをよく承知していた。卜部は残りを口の中へ放りこむと咀嚼する。指先にまみれた粉を舐めとりながら藤堂のいる濡れ縁へいざっていく。きちんと正座している藤堂の背筋はしゃんと伸びて小気味いい。うなじに浮かぶ頸骨は藤堂の体躯が引き締まっていることを知らせる。正座していても踵を立てたりしない藤堂の姿は馴染んだ。不意に藤堂が身を乗り出す。濡れ縁の際に手をついて覗きこむように身を乗り出す。それでも膝をついたままなのでいわゆる四つん這いだ。危険だなァと思いながら卜部はそばへ寄った。藤堂は知らぬげに雨空を覗きこむ。降りしきる雫が藤堂の肌の上で弾けた。
「なァあんたさァ」
「日がさしたような気がしたんだが」
空を覗く藤堂はどこか無垢だ。藤堂にはそういうところがある。どこかまだ、穢れていないような。
「鏡志朗」
びくっと肩が揺れる。それでも藤堂は顔を向けない。四つん這いのまま空を覗きこむ。巧妙に卜部の視界には入らない角度で、それでも見える耳朶は真っ赤だった。卜部はどさりと濡れ縁に腰を下ろした。正座は脚がしびれるのでしない。藤堂の体がぴくぴく震えていた。過敏に気配を感じ取って皮膚がひきつる。ピリピリしたそれは痛みにも似た。卜部はそれ以上声をかけない。藤堂の方でも乞わない。心地よい緊張が走る。ふぅと息をついて卜部がその均衡を崩した。振り向いた藤堂が安堵したように口の端を弛める。辺りは確かにわずかずつだが明るくなりつつある。この分なら夜半まで雨が続くこともなさそうだ。
緊張が終わって気安くなった空気に藤堂は気を緩める。卜部は根に持つ性質ではないからその変化を殊更変えようとはしない。何より強張りの融けた藤堂を見ていたかった。雨のもたらす湿気はしっとりとした空気を帯びてどこか濡れ場さえ思わせる。卜部は藤堂と閨を共にする関係だからそういう事態にもなっている。なだれ込む時の藤堂はいつもどこか緊張しているからこうした藤堂の弛みは歓迎こそすれ厭うたりはしない。何より人がその本性を現すのは弛んでいる時である。力の入った状態で己をさらすものはいない。元より藤堂は他者にはある程度の緊張が必要であると気負う面があるから、卜部は藤堂の緊張を解くために悪戦苦闘しているのだ。
灰白にあたりをくすませる空気でさえありがたい。藤堂の灰蒼が奇妙に艶を帯びる。濡れたように瞬くそれは蠱惑的だ。引き締まっている口の端や眉間が弛んで表情が和らぐ。秀でた額にはらりと落ちる鳶色の髪はうなじさえ時に隠す。雨垂れに濡れた鳶色は濃茶に変わり黒ずんだ。藤堂が身を乗り出す。卜部が手を伸ばして藤堂の首根っこを掴む。同時にがくんと藤堂の手が滑った。そのまま靴脱ぎに倒れそうになる藤堂の体を卜部が支えた。卜部は痩躯でこそあるが軍属としてそれなりに腕力も有しているし、藤堂も重量があるわけでもない。むしろ藤堂の体は軽いくらいだ。何が藤堂の目方を減らしているのかは知らない。必要があれば藤堂から話すだろうと理由をつけて言及はしなかった。
「何してんだあんたァ!」
「え、あ、す、すまん」
カタカタと藤堂の手が震える。苦笑する藤堂の口の端が、揺れる。ぺたぺたと確かめるように濡れ縁に手をついて体を支える。
「はは、すまない、子供っぽいな」
藤堂の喉がこくりと鳴った。尖った喉仏が上下する。薄い皮膚の奥で息づくそれが、震える。
「ばかみたいだ、な」
「ばかでいい」
卜部の手が藤堂の肩を掴む。藤堂が認識する前に卜部は藤堂の唇を吸った。肩を掴んで体を開かせ勢いのまま押し倒す。湿り気を帯びた濡れ縁がしっとりと皮膚に馴染んだ。降り続ける雨音がする。雨足が強まったようで喬木はしきりに枝を震わせた。そのたびに散る雫が降り注ぐような気がして落ち着かない。
「う、ら」
「鏡志朗」
卜部の手が藤堂の喉から胸へと這う。
「俺を呼ぶ意味、あんた判ってるよな?」
藤堂は応えなかった。その目線が濡れる庭先を移ろう。石も土も濡れて滴る雫の流れさえ判る。灌木の根元の土さえ今では色を変えていた。沁み入る雨垂れの音は雫を感じない皮膚に殊更に響いた。
「佳雨だ」
「あぁ?」
庭先を見ていた藤堂の首筋がひきつる。皮膚の連動した動きがその内側さえ感じさせる。苦しくないのかと思いながら心地よい締まりだ。
「なんですかそれ」
藤堂の口の端が吊りあがる。押し倒されて上にのしかかられていても藤堂は冷静さを失わない。藤堂がタガを外すのは交渉の最中くらいだ。それが好きなのにそれを崩してやりたいと毎回思い、毎回失敗する。卜部の懊悩を知っているのかのように藤堂は唇を舐めた。紅く燃える舌先は篝火のように揺れる。湿された唇は濡れた艶を帯びる。
「さぁ、なんだったかな」
うそぶく藤堂の口をふさぐ。重ねた唇が柔らかく馴染み境界を曖昧にする。耳朶を打つ雨音が雨垂れのように皮膚に沁みてくる。雨で煙る視界は悪く、おまけに庭木も茂っている。誰かが通りかかったところでたじろぐのは通りがかりだろう。しっとり濡れる雨模様はどこまでも艶めいた。
「カウってなンすか」
「わすれた」
藤堂がクックッと喉を震わせて笑った。むっとする卜部を見てますます笑う。反った喉の突起をたどる。うなじの頸骨をたどり背骨を撫でて腰へ行き着く。
「いわねェなら入れる」
「さぁ知らんな」
藤堂が身震いする。
「それ、どこ」
「さァどこでしょうねェ」
笑ってうそぶく卜部に藤堂が腕を絡めた。藤堂の体内は、熱かった。
《了》