手加減?
そんな、もの
本気の戯れ
説明されるにしたがって明らかになる輪郭に卜部の眉が寄る。成功すればそれなりの成果を上げられるだろう作戦は藤堂の喪失の可能性すらはらむ。真っ先に朝比奈が噛みついて千葉もそれに続く。仙波と卜部は口をきかなかったが心の内はまったく違うだろう。質問や意見というより要求に近い朝比奈の言葉を藤堂は滔々と諭して聞かせ、同時に変更する意思がないことさえあらわにする。強制的に藤堂は解散を命じて朝比奈と千葉の両名を退けた。藤堂は一度決めたことを覆すことが少ない。もともと発言や立案は藤堂なりに深慮の末であるからおいそれと変更しない。朝比奈だって承知の上のはずだが、彼はまだ目の前の事態を静観できるほど落ち着いてはいない。年若さの勢いは時に理性でさえも引きずった。
「朝比奈、勝つためには必要なんだ」
しつこく食い下がる朝比奈に藤堂が止めを刺した。刹那、朝比奈が泣き出しそうに顔を歪めて見かねた仙波までもが進言したが、藤堂は結局それらを受け入れたりはしなかった。
しばらく様子を眺めていた卜部が黙って席を立つ。代替え案がない以上何を言っても言いがかりだ。藤堂を駒として見るなら藤堂のたてた作戦は上等な部類だろう。卜部はあてどなく歩を進めた。安全な根城を抜け出して路地裏へ繰り出す。繁華街の裏道はぬばたまの闇だ。あらゆるものが手に入り、あらゆるものを失う可能性さえある。世間知らずはあっという間に餌食にされるだけだ。だがその分、慣れたものには居心地の良い場でもある。通りすがりの冷やかしに冷たいその界隈はある意味で閉鎖的だ。人の波に流されるように歩いては流れからはずれて休むのを何度か繰り返す。ざわめきは隠語と比喩で埋まり口約束と不履行が頻繁に行われた。煌びやかな街路の裏は殊更に黒く沈む。旺盛で野放図な本性が剥き出しになり、境界は何の意味も持たない。抱擁や交渉はそこかしこで見られ、誰も咎めることはおろか気にさえしない。
卜部は長い手脚を繰ってひょこひょこ歩く。頃合いを見計らってそこへ向かえばしゃんと背筋の伸びた藤堂が待っていた。藤堂には武道の経験と実力があり、多数相手の喧嘩でもまず負けない。だからこそこうして一人で待たせられるのだと卜部が茫洋と思う。路地裏で立ち止まるという行為はすなわち油断や隙に通じた。
「待っていた」
卜部に気付いた藤堂がふぅわり笑う。凛と精悍な顔立ちのわずかな緩みで雰囲気は一変する。卜部も口の端をつり上げて笑む。それで契約が成立する。どちらからともなく歩きだすと狭い道を選んで猫のように歩く。広告塔や街灯の光さえ届かないそこで足を止める。卜部の後ろから藤堂が抱きついた。藤堂の腕は卜部の痩躯を抱きしめる。うなじあたりにわだかまる藤堂の吐息が温む。卜部が身震いすると藤堂が笑んだ気配がした。
藤堂の指先が卜部のシャツの中へ入り込んでくる。躊躇と遠慮をにじませながら明確な目的を持っているそれはもどかしい。不慣れにもたつく指先が留め具を解いて襟を肌蹴させていく。向き直ると卜部は適当な壁に背を預けた。向かう刹那に藤堂が躊躇したがすぐに行為は再開される。言葉は交わさない。不満があるときは拒否し、そうでないときは続けるという暗黙の了解がある。拒否権は双方が有し、互いに無理はしない。ベルトを緩める指先の動きを卜部は無為に目で追う。淀みのない動きで藤堂は卜部の衣服を脱がせていく。卜部もあえて抵抗したりはしない。
「好きだ」
睦言に価値はない。それ自体ではなく囁きあうという行為自体に意味がある。卜部は黙して返事をしない。藤堂の戦闘力は評価しているがそれは個人的な評価とは連動しない。藤堂の気質は陶器のように静謐で固く、反面でもろい。高価なものやか弱いものを手に取ったときの破壊衝動と使命感とがせめぎ合うそれに似ている。壊すことができるだけの自信が破壊したい衝動を呼び、理性が保護するべきであると警鐘を鳴らす。
藤堂はついばむように唇を重ねてくる。卜部がずるずると腰を落とすと体をかがめる。膕を掴んでぐんと卜部の体を折った。許可を求めるように間をおく。卜部が応えるように脚を絡みつかせると安堵したように藤堂は口元だけで笑んだ。
「お前は私に何も言わないのだな」
何を指しているのか気付けないわけではなく、だが藤堂も明言はしなかった。藤堂や卜部の活動は地下組織であり正式なものではない。反政府勢力である活動は常に弾圧にさらされて自然と用心深くなる。
「言ってほしいンすか」
揶揄さえにじませる卜部の言葉にも藤堂は怒りもしない。吐息の混じる近距離で微笑し、卜部の唇を吸った。
「お前に言われたら揺らいでしまう」
「はは、嘘ばっか」
藤堂の信念がそう簡単に揺らぐとは思えず卜部は藤堂の言葉を追従として受け取った。藤堂はこれで敏い性質だから人の状況を読むことくらいたやすいはずだ。卜部の言葉を藤堂は否定も肯定もしない。
藤堂の指先が卜部の下腹部を移ろう。卜部の呼吸が次第にせわしくなり体温が上がる。ぴくぴくと震える卜部の四肢に藤堂は目を眇める。開いたまま慌ただしく息をする唇に吸いついた。
「おまえがすきだ」
にじんだ汗がひやりと体を冷やしていく。それでも卜部は身動きせずに身支度を整える藤堂を見ていた。藤堂は背を向けて作業しながら何でもないことのように言った。
「お前は私に何も言わないがそれは私を肯定しているというわけでもないのだな」
「まァ、興味が…ねェんで」
取り繕う無意味さに気付いた卜部は率直な考えを口にした。興味がないのは本当だ。作戦によって藤堂が生きようが死のうが世界は回るし卜部の生活に変化はない。余計な手間の要らない交渉相手の喪失という痛手があるにはあるがそう大事とも思えない。卜部はそこまで性生活に重きを置いていない。
藤堂が肩を揺らして笑った。
「省悟とは違うな。あれは私に絶対に死ぬなという。一度泣かれたことがあって困ったな」
「あいつァあんたのこと好いてますからねェ」
朝比奈が藤堂に慕情を抱いているのは周知の事実だ。朝比奈自身隠そうともしないので見れば判る。卜部はのろのろと指先を動かして腹に飛散した白濁を拭う。脚の間や下腹部に散る白濁は二人の行為の証だ。
「卜部、いつまでもそんな恰好をしているものではない」
叱るように言う藤堂の口調は保護の立場に立つ者の言葉だ。卜部は口元を歪めて笑んだ。
「疲れてんすよ。少し休み、たい」
藤堂が長い脚を折りたたんで屈む。近づいたと思った刹那に唇が重なっていた。舌を潜り込ませてくるのを卜部は受け入れた。歯列を開けは口腔を犯し舌に絡む。
藤堂の指先が卜部の皮膚を撫でる。異質だが馴染むぬくもりは密着する泥のようにまとわりつく。払っても払ってもまとわりついてくる沼の泥のように絡みつく。もがくほどに沈む沼地のように藤堂のぬくもりは温い。
「…俺だってあんたに死んでほしかねェ。でも何が何でも生きろたァ言えねェし、言う必要も…ねぇ」
藤堂の灰蒼がきょろっと卜部を見る。それは睥睨というより凝視に近く、無垢に見つめてくる。吐息の混じる位置で二人は言葉を交わす。互いに応えるのではなく、互いに好き勝手喋るだけだ。相手の話など聞いていない。
「こうせつ」
「死んでほしくねェのと生きて欲しいのは違うだろ。だから俺は、あんたを」
「巧雪、お前が好きだよ」
「どうでもいいんだって。俺はそんな価値のある奴じゃねェし俺の考えにそんなに価値なんか認めてねェ」
藤堂が卜部の首筋に吸いつく。きつく吸われて紅い鬱血点が残った。
「そう言うお前が、好きなんだ」
茶水晶と灰蒼が交錯した。卜部の瞳は何も映さない。卜部は自己を隠すことにおいては藤堂より長けている。
「私は死んでもいいと」
卜部は意識する前に腕をしならせた。正確に藤堂の頬へ平手を命中させる。殴られた藤堂は驚いたように卜部を見た。卜部は口元を引き結んだ。
「甘ったれんな。死にたいっていうやつほど長生きすんだよ」
卜部は言葉を継いだが明らかに付け焼き刃であり、卜部の感情などは伴っていない。藤堂はこらえきれずに噴き出すと笑いだした。
「本当にお前は人がいいな」
卜部は一文字に唇を引き結んだまま言葉もない。言い訳が脳裏に渦を巻くが音として一言さえも漏れてはこない。ただ藤堂が死んでもいいと言ったことだけは赦せなかった。
藤堂が卜部の手をとってぶたれた頬へ当てる。熱を帯びたそれは時が経つほどに腫れを増して紅く膨らんでいく。卜部の手の中でそこは確実に時を刻んで、生きた。
「思い切り殴ってくれたな、全く」
「そりゃあ手加減なんて器用なまねはできませんから」
卜部も悪びれない。そも、卜部は己の行動に引け目など感じさせない。だからこそ手加減もしなかった。藤堂は赦されない言葉を口にした、それだけだ。
「お前に惜しまれたなら、私は生きる価値があると」
「なめるな。あんたがいつも言ってんじゃねぇか自分の道をいけって。あんたらしくねェこたァ言うな」
藤堂は卜部の手を頬にあてがったまま、微笑んだ。卜部も殊更に振り払ったりはしない。二人の鼓動がとくとくと連動した。
「巧雪」
藤堂の唇が静かに卜部の名を紡いだ。
《了》