どこかあたたかな、それ
融ける一片
気の早い霜柱がざくりと音を立てる。その音で藤堂はそこに土が顔を出していたことを知った。完全に舗装されていないこのあたりではまだ畔道といえるものも多い。街灯の効果はあまりなく黒々とした夜は奥行きの感覚を狂わせて景色は消失する。闇を薄める月明かりに夜露で湿った表面が露呈する。それでもこの道を使う人々は歩き慣れて具合を知っている所為か不便は感じられず何年も工事は行われていない。白銀の煌めく月明かりの中を濃紺の外套が裾を閃かせて踊る。不規則であるはずなのに常用している眼鏡を落としたりせずに踊るように歩を進める朝比奈を藤堂が見た。一見すれば黒一色に見える朝比奈の髪と瞳は目を凝らせば緑の混じる鈍色であることが判る。朝比奈の動作は幼い顔つきそのままに無邪気だ。
「藤堂さん、足音がする、ほら。もう霜柱が」
朝比奈が闇へ身を躍らせるようにザクザクと霜柱を踏み鳴らす。碧瑠璃の襟巻の裾がひらひら揺れる。暗緑色の朝比奈の髪とよく似合う色あいだ。
朝比奈は藤堂を慕って時折家へ泊まり込むほどだ。度重なるうちに藤堂の家には朝比奈の私物が増えていって、しまいに藤堂は一間を朝比奈に与えた。藤堂の家は古めかしい作り通りに部屋数だけはある。先を歩く朝比奈は愉しげに蛇行する。人通りの少ない夜間であることもあって藤堂はそれを言い咎めたりはせず、朝比奈の方でもそれを承知していた。目の前を横切る猫などには素直に道を譲る。朝比奈の動きに合わせて眼鏡の硝子が白色と透明とを繰り返し見せる。冷たい外気に剥き出しの耳が紅い。あたたかく温もった部屋から繰り出してきた所為か寒さは殊更に強く感じられた。目的などなく当てもない。それでいて朝比奈の歩みに迷いはなく、藤堂も口を出さない。乾燥した部屋で傷んだ喉に外気の湿気はありがたい。襟巻にうずめて暖をとっていた頤を上げて冷気を吸いこむ。適度な湿気が喉に沁み、同時に凍える冷気に震えて襟巻の中へ頤を戻す。二人ともがそれぞれの呼吸でそんな動作を繰り返す。吐息で襟巻や口元がほんのりとぬくもる。立ち止まれば冷気が足元からしのぶ。体の熱を上げる運動も兼ねて足早に歩いた。同じ場所を周回するのも不自然な所為か自然と足を延ばす。
気の騒ぐ時期である所為かこうした夜半の外出を藤堂はとがめなくなった。朝比奈はそれに便乗するように出歩く。ほとんど一人で出歩くが時々こうして藤堂を伴った。ポツンと明かりを提供しているのは終日営業している店舗で大手の系列店だ。同系列である店の品揃えや値段などは画一化されているはずなのにこうした郊外に建てば案外、人が入る。遠出を嫌う人は値段のわずかな差は気にしない。藤堂はさらに先へ進もうとする朝比奈に声をかけた。店の強く突き刺すような白色灯に照らされた道路と対比されているように夜道は暗い。
「省悟、そろそろ戻ろう」
朝比奈はにっこり笑って頷くと軽やかに藤堂のもとへ戻ってくる。二人とも申し合わせたように同じ角で曲がると帰路につく。ブルッと猫のように身震いして朝比奈が襟巻や外套の襟元を調節する。ポケットへ突っ込んだ手を握り締めて寒さを堪える。
「冷えてきたな」
日没から日の出まで空気は凍るように冷える。
「そうですね、藤堂さんの布団で一緒に寝ようかな」
悪戯っぽく笑う朝比奈の言外に含まれた意味に藤堂がたじろいだ。朝比奈が夜気を震わせるようにカタカタ笑う。細い肩が揺れて翻る濃紺の裾が融けた。藤堂は閨を揶揄するような冗談に驚くほど弱い。
冷やされた耳と反対に頬を火照らせる藤堂に朝比奈が満面の笑みを見せる。藤堂は正反対の感覚と同様の現象とに無為に思考をはせた。その隙をつかれた。
「鏡志朗、さん」
朝比奈の声の近さに思いが至った瞬間、温もった唇が重なった。ご丁寧に藤堂の襟巻に指を引っ掛けて引き下げ、スペースを確保している。温んだそこに滑り込む冷気が喉首を撫でて藤堂が思わず体を震わせた。店舗や家屋の少ない道であることに救われたがその隙間を朝比奈が狙っていたのだということもうかがえる。たたらを踏んで後ずさる藤堂を朝比奈は追う。ポケットに突っ込んだ両手は寒さに凍えて咄嗟の反応が出来なかった。明敏な運動神経を有する藤堂はそれだからこそ気を赦したものを警戒したりはしない。唖然とする藤堂の唇を貪ってから朝比奈の体が離れていく。暗緑色と目を惹く碧瑠璃が離れていくのを他人事のように藤堂は静かに見ていた。
「怒らないんだ」
外気に反応した朝比奈の唇の紅さが月明かりで見て取れた。熟れたように艶さえ帯びるそれを舌先が拭う。藤堂は反射的に唇を拭った。わずかな湿りに顔が赤らむ。口元を引き結んでそっぽを向く。襟巻に頤をうずめたが外気に馴染んだそこは融けるようには温もらない。吐息でのぬくもりを求めるように何度も息を吐く。そのたびに藤堂の吐息が白く煙るように凍てつく。
「鏡志朗さん?」
窺うように朝比奈の声が揺れる。藤堂の灰蒼がちろりと見る。藤堂は長身に合わせた山藍摺りの外套に灰白の襟巻をしている。流行に過敏であろうとして選択基準を移ろわせることのない藤堂の持ち物は落ち着いた色合いが多い。灰白の襟巻は藤堂の灰蒼の双眸に似合うものを苦労して見つけた結果だ。ころころと好みを変えない藤堂はそれだけに選別の基準は厳しく妥協しない。
朝比奈の両手が藤堂の外套のポケットへ突っ込まれた。藤堂は驚いたが声さえ出ない。朝比奈は体温で暖まったそこで丸まる手を包むように握る。ピクリと身震いしたが藤堂は朝比奈を突き放さなかった。そこにあるのはぬくもりであって熱さではない。温もりはすんなりと肌に馴染み、分離することを拒む。まして何度もまじりあった相手のぬくもりであればこそ厭う理由はない。朝比奈の体温は何度も藤堂と同化した。心地よささえ伴うそれに対する嫌悪はなく、藤堂の方でも殊更に疎んじたりはしなかった。朝比奈も積極的に触れ合おうとする。朝比奈の積極性はその障りを取り除いて融化してくる。
藤堂は朝比奈の体温との交錯にはいつも驚く。朝比奈の熱は藤堂さえ知らぬ場所まで忍び込んではその強張りを融かしていく。よく揉みこまれたかのように柔軟性を取り戻した藤堂の体は境界線すら忘れて野放図に広がる。抱き合えば触れてくる体温がどちらのものであるかやどこに触れているのかすら曖昧になり、外界と藤堂との境界は薄れる。朝比奈の体内へ触れているのかとさえ思わせるほど朝比奈はあけすけに己をさらす。だが朝比奈の警戒の緩さはある意味あつかましさにも通じて、朝比奈の末端は藤堂の警戒をいともあっさり取り払う。
藤堂のぴんと張ったうなじが急激に冷えた。その冷たさは到底異質なもので藤堂は肩を跳ね上げて振り向いたがそこには夜が広がっているだけだ。その視界をひらひらと白いものが舞う。
「雪だ!」
朝比奈が無邪気に言って藤堂から手を離した。痛みさえもない分離に藤堂はちろりと目線を投げる。
「雪、か」
つられたように藤堂も空を見上げる。群青の夜闇に黒の薄まった部分が見える。雲と空との境界を眺める藤堂の目にひらひらと雪片が舞い落ちる。蒼や黒で統一された夜空に雪白が舞う様はしんみりと染みいるようだ。二人とも言葉も交わさず緩やかに降る雪を見た。指先が落ちそうに凍えていた空気も和らいで欠片を降らせる。張り詰めた緊張を維持しながら崩壊には至らない心地よさを雪が彩る。触れれば溶ける雪片は積もるようには見えなかったが冷えた空気の中で不規則に揺れた。渦を巻いたり蛇行するように左右へ揺れたりとした動きは不規則で手のひらで受けることさえままならない。それでも欠片は肩や髪を少しずつ濡らす。
藤堂が丸めていた手を解くと虚空へ延べる。ひらひらと触れる雪片は暖まった藤堂の肌へ触れれば水滴に変わる。外套の肩へ白い欠片が散った。朝比奈は白銀にさらされた藤堂の横顔に見入った。通った鼻梁や灰蒼の双眸は弛みなどない。それでもいつもは引き締まって厳しい表情を作る口元がわずかに笑んでいる。わずかに上を向いた口元は程度をわきまえていてあざとくも押しつけがましくもない。藤堂の無意識であることを示すように燃える舌先がぺろりと唇を舐めた。上を向いてわずかに開く唇は気づかれていないからこそ殊更に艶めいた。わずかに色づいたそこは控えめに主張する。藤堂のほころびのようなこう言った動作や仕草が朝比奈は好きだ。
「冷えるわけだな。でもこれで少しは」
寒さも和らぐだろうな、と呟いてから藤堂は朝比奈を見た。理知的な灰蒼が穏やかに見つめてくる。
「雪が降れば少しは寒くなくなる。降った後が冷えるのだがな」
藤堂の言葉は声だけでなく皮膚感覚のように沁みとおった。体中が藤堂のあらゆるものを受け入れる姿勢だった。言葉も声も仕草も震わせる空気の振動さえ感じようとする。藤堂の何気ない仕草や言葉は奇妙に色を帯びて艶めいた。冷気にさらされて潤んだ双眸はそれだけで蠱惑的だ。夜空のわずかな光を吸収して煌めくそれは濡れた艶だ。湖面のようにどこからともなくやってくる細波に揺れる。藤堂が瞬きをするたびに様を変える面は次の瞬間には違う場所を濡れ光らせる。
凍てつく白い息を吐きながら朝比奈の指先が藤堂の頬に触れた。反応しない藤堂の唇を奪った。薄く開いたそこから舌を潜り込ませる。火照る藤堂の頬に触れた指先の冷たさが融けていった。深々と沁み入るように雪の降る音さえ判るほどに静まり返った空間で、二人分の体が密やかに熱く燃えた。
《了》