君じゃなかったら、きっと?
発端はぬくもり
藤堂はひと段落した作業に濡れた手を拭う。藤堂の自宅と違って単身者を想定しているこの住まいはこじんまりしている。卜部は独り者用なんで狭いんですよとあっさり言った。卜部曰く安普請だというが広さの具合から言ってあまり大がかりな暖房器具も要らず考え方次第なのだと思う。藤堂は作業で冷えた足先や指先を温めるべく炬燵へ歩み寄った。ほんのり温もった炬燵布団は魅力をいかんなく発揮している。だが藤堂は部屋の主である卜部の姿が見えずに小首を傾げた。膝をついてにじり寄るように炬燵を回り込む。
「うらべ」
痩躯を横たえた卜部が手脚を炬燵に突っ込んで眠っていた。これも炬燵の魔力だろう。炬燵のぬくもりは何故だか睡魔と相性がいい。寝息と呼吸や表情を確かめると藤堂が安堵して肩の力を抜いた。意識がないのも睡眠によるものだ。
藤堂が毛布を引っ張り出して卜部の体にかける。食事の時間は延ばした方がよさそうだと見当をつけ、卜部の四肢の位置を確かめてから藤堂も炬燵にあたった。氷の融けるように指先の感覚が戻ってくる。じわじわとしたそれは痺れにも似て表層を侵食する。気を抜いた藤堂の指先が卜部のそれとぶつかる。
「ンッ」
鼻にかかったような声で卜部が呻いて藤堂が一人で顔を赤らめた。藤堂と卜部は閨を共にするようになってしばらく経つ。その時の嬌声にも似た響きが即座に寝床を連想させた。卜部は藤堂の気も知らず眠りこけている。もぞもぞと長い手脚を器用に折りたたんで暖をとる。
「…わ、私は何を」
卜部はたんに冷たかっただけなのだ。藤堂は火照る頬に触れる。燃えるように熱い。元来藤堂も卜部も艶事には淡白な性質で執拗な交渉はあまり持たない。卜部から不満を言われたこともないし藤堂から言ったこともない。藤堂は気恥かしさに肩をすくめた。身の縮むような思いだ。置きどころない感情をもてあまして藤堂は殊更に指先や爪先を温めることに熱心になった。炬燵布団を持ち上げれば橙色が鮮やかにさす。卜部の指先や足先が見える。痩躯の卜部はその体つきが骨ばっている。余分な蓄えのない四肢は駆動部が明瞭に判るほどに細い。肉をつけなさいと事あるごとに藤堂が注意しても卜部は聞き流すだけだ。藤堂が見た限りでは偏食もしていないしそういう体質なのだろう。
藤堂はそっと炬燵から這いだすと卜部のもとへにじり寄る。敏いほうの卜部だが藤堂の気配にも気付かない。藤堂の指先が卜部の髪を梳く。縹色の艶を帯びる髪色は目を引く。ぺたぺた頬に触れたりしていたが卜部が起きない。きゅっと鼻をつまんでやればうぅンなどと間抜けたように呑気な呻きを発する。ひそめられる眉はすぐさま緩んで眠りの海へ沈んでいく。藤堂はしばらくそれを微笑ましく見ていたが時が経つにつれて悪戯の程度が大胆になっていく。確かに夕食の支度を申し出たのは藤堂だし家に押しかけたのも藤堂だ。だがこうも罪なく眠られては交渉相手としての応対に不満が出る。すっかり油断している卜部の四肢は弛緩していて藤堂のされるままだ。まったく警戒されていないというのは藤堂の立場からみれば複雑だし立つ瀬がない。しばらく考え込むように唸っていたが藤堂はふむと言ってから行動を開始した。
卜部の体を仰臥させて襟を緩める。くっきりと浮かんだ鎖骨や筋肉の付き方の判る首筋があらわになる。卜部の頬に触れる流れで指先を滑らせる。卜部のぬくもりは炬燵などの暖房器具とは明らかに違う。一定基準を満たすようなものではなくどこまでも泥のようにまとわりついて皮膚に馴染む。思わぬ深部にまで侵入を赦しその深さに不意に驚く。
「巧雪」
藤堂は耳朶でささやきながら覆いかぶさる。かじかんでいたはずの指先はとろけて卜部の体躯を味わう。卜部のぬくもりは藤堂のそれと同化した。わずかな呼吸に薄く開いた唇を吸う。自然な動作として弛んだ口元を犯す。開いた歯列の固さがどこか異質だ。
藤堂と卜部は職場が同じであり上官と部下の関係も維持している。真っ当とは言い難いこの関係を成立させているが殊更に吹聴したりはしていない。秘め事を抱える負担は案外大きく、疲れを呼ぶ。藤堂はこの関係が卜部にとって負担であるという考えに何度もとらわれた。だが卜部から別れを切り出すことも気配さえもない。別に相手を作るという婉曲な拒否もない。
「巧雪」
独特の響きを有するこの名前を卜部はあまり好きではないと言った。揶揄の種にしかならないから疎ましいのだと言うが同時に慣れもあって手放せないのだと笑う。
「こう、せつ」
唇の触れる直前でその名を紡ぐ。揺れる吐息と濃厚な気配に卜部の目蓋がぴくぴく揺れた。少し眉根の寄るその動作は覚醒の兆候だ。藤堂の口元が緩んだ。目蓋が開いて色素の抜けた茶水晶が覗いた刹那、むさぼるように卜部の唇を奪った。
「ンむッ、ん゛んゥッ!」
卜部の口元が揺れる。開いた隙を狙って舌先をねじ込むのだから卜部は受け入れと逃れようとする足掻きとを繰り返す。逃れようとあがいて開くそこを狙う。
「――ッん、む゛ぅうッ! ッふ、は、ぁッ」
卜部の両手が藤堂を押しのけた。藤堂の方も両手を卜部の頬に添える。互いの濡れた吐息が行き交った。濡れ光る卜部の唇を藤堂の舌がぺろりと舐める。
「なんッ、なんなンすかッ! 何してッ」
「寝ていたから」
「いや待てそれ理由じゃねぇッ! 絶対理由じゃねェそれ!」
ぎゃんぎゃんわめく卜部に藤堂が唸る。バタバタと痩躯が暴れる。がづんと音を立てて炬燵が揺れた。乗っかっていた湯飲みやら小物がガチャガチャと陶器の触れる甲高い摩擦音をさせる。どうも炬燵の脚に脚をぶつけたらしい。痛みに耐えるように卜部の動きが収まる。
「大丈夫か」
「…あんただ。原因はあんたじゃねぇかちくしょう痛ェ」
よほど強くぶつけたのか卜部の目に薄く涙がにじんでいる。余分な脂肪のない卜部の四肢は骨や筋肉に直接打撃が響く。藤堂は器用に炬燵を避ける位置にいて被害は被っていない。
「暴れるから」
「暴れさせてんなァ誰だッ! だいたいあんた飯作るって言ってたじゃねぇかッ」
「…そういえばそうだった。ひと段落したので暖を取ろうと」
「…それがなんで俺にキスしてんだ。意味判らねぇよ」
「いけないのか」
藤堂の方に罪悪感はない。無垢に問い返す藤堂に卜部は脱力した。頭を抱えそうになるのを藤堂は不思議そうに見ている。卜部はただ不明瞭な呻きを漏らすので精一杯だ。
「巧雪?」
「反則だろ、それ」
藤堂の玲瓏とした低音が卜部の下の名を紡ぐ。藤堂の低音が心地よく体に響く。きちんと腹を使って発音しているその音が不安定さもなく安心して聞ける。広く抜ける道場に掛け声を響かせるのはコツがあって会得するまでにある程度の間が要るのだという。藤堂の声はよく響いた。
「こう、せつ?」
藤堂は卜部が拒否できないのを知っていてこの声を使う。藤堂にしては珍しく揶揄するような色を含んだ表情で呼びかけてくる。弛んだ口元がその証だ。藤堂の表情は平素から引き締まっている。卜部はその響きや一連の動作を好ましく思っているから拒否できないし、藤堂もそれを承知している。その上でのこの態度は戯れの一種だ。
「ずりィですよ、それ…」
「なにがだ?」
あえて問えば卜部が言葉に詰まる。藤堂は笑みを浮かべたまま口づけた。震える唇が応えるように揺れる。
「…あの、飯」
「メシ?」
「飯作ってたじゃないすか。冷めますよ。それに…ど、どいて、下さい…」
藤堂は卜部に覆いかぶさったまま動かない。中途で止まっている調理が頭をよぎるが目の前で展開されていく体躯の方が魅力的だ。藤堂は知らぬふりを通した。藤堂の両手が卜部の両手首をとらえて縫いとめる。開く襟から痩せた胸部が覗く。
「お前は痩せている」
「言われなくたって判ってますから。…あの、マジで退いてください」
「嫌だと言ったら、どうする」
卜部が耳まで紅くなる。寝床のことを連想しているのは明らかだ。唇が触れ合うほどに近づいたその距離は体の交渉を彷彿とさせた。
「お前を食べたい」
「そういう冗談は嫌いだってあんたが言ったんだろ! 言うな!」
ばたばたと卜部が暴れるが藤堂だって伊達に今の位置に収まっているわけではない。それなりに体を鍛えてもいるし拘束力も有する。藤堂の指先が手首を圧迫する。帯びるかすかなしびれはどこまでも心地よい。ぐぅとくぼみを押さえてくる藤堂の手管は巧みだ。労力をかけずに卜部の抵抗の意を殺ぐ。
藤堂は不意に唇を重ねた。卜部は声もなくそれを受ける。触れてくる唇の瑞々しさや熱く濡れた舌の感触に卜部は動揺した。体温で温んだ末端は容易に同化する。己の領域の不明瞭さに卜部は手加減を失って迷走した。ぴくぴくと痙攣的に震える卜部の指先ですら藤堂は愛しげに愛撫した。
「ん、ん、んッ、ぅうッ」
卜部の抵抗は声にさえならない。卜部の抵抗は呑みこまれていく。藤堂の不慣れな仕草は卜部の抵抗のすべを奪う。真摯な様子が罪悪感を呼ぶ。藤堂はあくまでも他意など感じさせず、不特定多数を相手にするような軽薄さもなかった。離れた互いの舌先を銀糸がつなぐ。藤堂の灼けつく紅い舌先が艶めいた。唾液に濡れたそれは妙に色っぽい。卜部が唸るように息を詰めるのを知っているのかちろちろと覗かせる。唇の間から覗くそれは明確に艶めいていながらわざとらしさなどは感じられない。あくまでも自然な動作の線上にある。
「巧雪」
卜部の体は緩やかに拘束されている。それでいて抵抗のすべはなく赦されてもいない。藤堂の拘束は明らかな無理強いではなく卜部の意識を尊重している。それでいて抵抗のすべは穏やかに奪われその意思すら持てない。
「こうせつ?」
「…ずるいよなァ、あんたずるいってそれ…」
藤堂の指先が卜部の痩せた腹を撫でる。
「空腹か? ならば先に食事を」
「先にってこたァあんた後で絶対やる気か。そこは変わらねェのかよ」
「男性体は腹が膨れていたほうが性欲が増すのだと健康番組で言っていたから」
しれっとして言う藤堂に卜部の体から力が抜ける。藤堂は何がおかしいのか判らぬと言ったふうに小首を傾げている。命を懸けたぎりぎりの場面では明敏な判断力を発揮する藤堂なのだが日常生活においてそれはほぼ生かされていない。むしろ無駄だ。
「いやテレビ信じるのいい加減にしとけよ。信じるなたァいわねぇけど任せきるなよ」
むぅと藤堂は不満げに唸る。唸りたいのはむしろ卜部の方である。卜部は背中にじとりと汗をかいたまま藤堂を押しのけようとする。だが藤堂の方もそう簡単には退いてくれない。
「鏡志朗」
卜部の言葉に藤堂が微笑む。重なった唇は緩やかに融けあった。触れてくる指先さえ融ける。指先は卜部の驚くような深部にさえ不意に及ぶ。たじろいだりおののいたりする反応を藤堂は愉しんだ。平素から飄然として動じない卜部の動揺は愛らしいだけだ。まして不慣れなそれを見れば無性に保護欲がわく。
卜部の体がしなる。幌のようにしなう背は予想以上に柔軟だ。
「お前が、欲しい」
噛みつくようなキス。卜部の体のタガが外れ、藤堂も抑制を振り切った。融けあう体温はどこまでも心地よく。藤堂は炬燵から卜部の体を引っ張り出した。触れる冷気に卜部が身震いして、その体を藤堂は抱いた。
《了》