きっと幸せ
君が包む私の体
煙る湯気に目を眇めながら湯殿へ体を沈める。この湯につかったであろう藤堂の裸体を思い描きそうになって卜部はぶるぶると頭を振った。ここで体の熱を上げても情けない後始末をするだけの上に人様の風呂場でそんなことをするほど厚顔にはなれない。一人暮らしの続く卜部には久しく忘れていた肌触りの湯だ。人の使った湯は人肌によく馴染む。一番風呂は熱いし湯が尖っているので時折ピリピリと刺すように痛む。人によってはそれを嫌ってわざわざ使わせた後の風呂に入るという。藤堂に無理矢理風呂を使わせた身としては申し訳なさも募るが、行為の受け身を担当する藤堂に卜部が風呂を使い終わるのを待てというのも酷な気がする。
藤堂の家の風呂はゆったりと広い。汚れてはいないが使いこまれた摩耗が見える。くせさえも窺い見えそうなそれは時折不意に卜部の使い勝手に馴染む。真新しい尖りのない丸みは差異さえ浮かびあがらせながらも馴染む時は心地よいものだ。卜部の体が行儀悪く湯に沈んでいく。浮かび上がってくる膝頭と対照的に口元までつかる。吐きだした気泡がぶくぶくとはじけた。藤堂とこうした関係に及んでから少し経ち、そろそろメッキも剥がれている。綺麗事を並べる上っ面では済まない状況にも何度かなった。お互いに露骨なところを見せている。それでも卜部は藤堂を嫌いにはならなかったし藤堂の方からも関係の解消を申し立てられはしなかった。役割分担の不満さえも出てこないのは驚いたが藤堂にも思うところがあるようで、卜部はあえて言及しなかった。相手のすべてを見たい欲求はあるもののそれを制御するだけの経験は積んでいる。
十分に温まるだけの間をもって卜部は風呂から上がった。脱衣場は片付いていてタオルのほかに和服の一式がそろえてある。部屋着と寝巻の兼用だ。藤堂は横着者だからだと笑って言う。だが藤堂の家に泊まる際にはいつも和服を出され卜部もそれを当然のように受けた。家に馴染むのだ。藤堂も可能な限りでは和服を身につける。今時珍しいと思うが目隠しを兼ねた庭樹の茂りをくぐりぬけたここは特別であるように違和感さえもない。雫を拭ってから以前に教わったように何とか着つける。藤堂の道場へ顔を出す程度には武道に馴染みがあり道着の着付けも覚えている卜部だが普段着の着つけの具合は案外勝手が違う。いつも難渋しながら着つける。あまりひどい時には藤堂が直すだろうと踏んでそのままだ。
よく磨かれた廊下をぺたぺた歩いて顔を出せば藤堂は正座して待っていた。奥座敷には布団が敷かれている。行為を終えた布団の乱れは直されてちゃんと敷布まで取り換えられている。先に寝ていればいいのにと思うが藤堂の性質ではそうもいかない。
「風呂、もらいましたけど」
声をかけると振り向く藤堂の目線がじぃっと卜部の踝あたりを移ろう。卜部が出された着物をまとうと常に藤堂は何か言いたげな目線を投げる。似合わないですかねと冗談交じりに問うと真剣な顔で違うのだがと返されたが真意は有耶無耶だ。卜部は座ることもはばかられるような気がして廊下につっ立っている。藤堂の灰蒼は蠱惑的に潤んでいるがその眼差しは真剣に思い悩んでいるようでもある。普段使いの和服の着付け程度は学んでおくべきだろうかと卜部が本気で悩みだした頃、藤堂の唇が動いた。
「足りない」
「…何がッすか」
行為の程度の至らなさでも指摘されたのかと思って卜部は思わず身を乗り出すように膝をついてにじり寄る。攻める側に属する身としては至らなさを指摘されるのは不徳どころか恥である。
「丈が足りない」
明確に指摘されて卜部はそれが借りているこの着物なのだと知った。藤堂と深い関係になり泊まりあう仲にまで進展したとはいえ、互いに体に合わせた衣服を整えるまでには及んでいない。まして卜部は日本人でもまれにみる長身の上に痩躯で、既製服では寸法が合わない。衣食住の衣に卜部はこれまで何度も悩まされてきた。横幅に合わせれば寸足らずだし丈を合わせれば幅が余るといった具合の不都合は常だ。どうも藤堂までその煩いにとらわれているようだ。
「見苦しいですかね」
「…見苦しいとは思わないが。それでは冷えるだろう」
着物は密閉性などないので隙間があけば冬の冷気は身にしみる。卜部は剥き出しの踝を撫でる。藤堂は何事が逡巡していたが決着を見たのか一人で頷いている。
「明日、出かけよう」
「ハァ」
藤堂は奥に床を敷いてあるからと断ってから自室へ引き取った。卜部は半ば茫然と返事をしながら布団にもぐりこんだ。
朝食と昼食の中間の間頃になって藤堂が卜部を連れ出した。徒歩で行けるだけの近い距離にある呉服店へ連れて行かれた。昔から世話になっているのだと前おいてから藤堂は店先をくぐる。明確に主張する宣伝もなくひっそり看板があるだけだ。だがそれだけに老舗であると思わせる。卜部一人ならまず縁のない店柄だ。藤堂は慣れた仕草で硝子戸をあける。卜部はその後ろにのこのこついていくだけだ。建具の軋む音を聞きつけたらしく出てきた店のものと藤堂は親しげに言葉を交わす。することがない卜部はあてどなく店先を見て回る。店先にはお愛想程度に品が並ぶ。卜部の財布でも大丈夫そうなものがあるかと思えば目を見張るような値段がさりげなくつけられていたりして卜部は触れることさえ怖い。指の油が影響したらと思うと品を見る目が変わりそうだ。藤堂は慣れたように会話をしている。そういう品格さえ備えていることに卜部は己の至らなささえ思う。藤堂との付き合いに不安を感じるのはこういう時だ。己は不釣り合いなのではないかと不安になる。戦闘や作戦の立案といった専門的なことから普段の食事の用意にさえ差を感じてしまう。僻み根性もいいところだと思う反面で警戒心が働く。
並ぶ小物の繊細さに嘆息しながら帯留や半衿の鮮やかさに目を奪われる。さりげない淡色から鮮やかな紅色まで様々だ。合わせる着物によって変わる衿は透かし模様など手が込んでもいる。門外漢である卜部には価値などさっぱり判らないがとりあえずえらい額の金がかかるのだろうということだけ察しがつく。
「卜部」
藤堂の玲瓏とした声が響いて卜部が顔を上げると手招かれた。卜部がひょこひょこそちらへ向かう。意識してそうしているわけではないのだが手脚の長さの関係上飄々としているとみられることが多い。標準と要する間が違うのだろう。まさか手脚を短くするわけにもいかないので言われるままに放置している。
「なンすか?」
藤堂は答えずに店の者がはぁと相槌を打って卜部を見る。藤堂は二言三言足すだけだ。卜部には話の内容が見えない。だが二人の間では成り立っているらしく店のものが一度奥に引っ込んだ。次に出てきたときは生地を手にしていて藤堂に何事か添える。藤堂は頷きながら余る分には構わないから多めにお願いしたい、と言って店の者が独特の測り方で布地を測って鋏を入れる。受け取って反物を抱えた藤堂が手続きを踏む。藤堂が店を後にするので慌ててその後ろへくっつく。店員が硝子戸の外まで出て御贔屓にと礼をする。
「あの、俺が行く意味ありました?」
「? お前のものを作るのにお前がいなくては話にならない」
噛みあわない会話に卜部が首をかしげている間に家へ着く。帰れとも言われなかったので卜部は上がり込んだ。帰りついてからすぐ藤堂が巻き尺を持ち出した。卜部の体の要所の寸法を測る。卜部は訳が判らないが判らないなりに腕を上げろだの膝を曲げろだのといった注文に応える。
「あの、何しているンすか」
「お前の部屋着を縫おうと思っている。寝巻と兼用になると思うのだが…嫌か?」
藤堂の言葉に卜部が呆気にとられた。測り方や交わした会話からみて明らかに和服だ。そんな高価なものを受け取るわけにはいかないと断りを入れようとした卜部に先んじて藤堂が遠慮はいらないと言った。
「お前には世話になっているし」
すぐさま作業を始めそうな藤堂を止めることも出来ない卜部は茫然とするだけだ。くぅうと鳴った腹の音に藤堂が顔を赤らめる。時計を見れば確かに昼食の頃合いだ。
「俺が作りますから」
卜部は衝撃についてこない頭への処置として没頭できる手作業を選んだ。冷蔵庫にあるもので何とか惣菜を拵える。単純作業でこなす調理の惣菜など知れたものだが卜部の意識はそこまでまわらない。とりあえず出来上がったものを運んで作業を一段落させた藤堂と簡素な昼食を摂った。すでに物を購入してしまった藤堂に不必要なのだというのも失礼なような気がして卜部は言い淀む。藤堂はもとから口数が少ないし卜部だって弁が立つ性質でもない。言葉少なに昼食を摂ってから卜部は藤堂の私邸を辞した。
幾日か後に藤堂が仕立てたものが出来たから寸法を確かめて欲しいと卜部に言伝があった。卜部は了解の旨、連絡を取り訪問の日程も決めた。軍属として日々をこなす卜部もその上官たる藤堂も予定は似たり寄ったりだ。卜部が訪うと藤堂は着慣れた和服で応対した。卜部は乞われるままに上がり込み、渡されたものに着替えた。藤堂が着付けを直しながら丈を測る。卜部はされるままだ。和服の理屈など判らないから口のはさみようもない。卜部の感じる長短など些細なものであるかもしれないし逆もある。膝をついて丈を測る藤堂のうなじが覗く。照るような藍染めは瓶覗きの半衿で映える。藤堂の灰蒼の双眸と呼応するように瓶覗きの薄色が目につく。手首や踝の際に反射する二藍が蒼白い。藤堂の動きは自然で不具合など感じさせない。藤堂の動作はあくまでも自然で無理をしているとは見えなかった。
「大丈夫そうだな、よかった」
卜部は何気なく袖口を見て仰天した。手縫いだ。大量生産の機械で縫ったとは思えない幅と几帳面さで続く縫いとりはどこか人肌を感じさせる。合わせた帯を調節しながら藤堂は満足げだ。
「よかった」
「よくないですって! あんたァこれ、手縫い?! そんな手間ァかけさせてたなんて」
「かまわないが」
藤堂はしれっとしている。二の句が継げない卜部に藤堂は満足げにふむ、と唸って見せた。
「和裁は洋裁と違って曲線がないから特に手間は要らないし…誰にでも出来る」
「出来ませんから! あんたなんで知ってんだっそんなことッ!」
「母親から教わったが。身のまわりで出来ることは出来るようになれと」
「普通は出来ませんから! …て言うか、いいンすかこんな」
「下手か?」
「上手いから困ってんです!」
泡を食う卜部をよそに藤堂は満足がいっているかのように一人で頷いている。
鼻歌でも口ずさみそうに上機嫌で着つけた裾を直す藤堂に卜部が言った。
「なんか」
「なんだ?」
「奥さんみたいですね」
ぽかんとした藤堂の顔が無防備だ。しばらくの間をおいて藤堂は言葉を呑みこんだらしくぼっと頬を染めた。見る見るうちに耳や首元まで真っ赤になる。上気した肌が半衿から覗く様はあざとく艶めいている。
「…お、おくさ、ん?! 私は別に…ッそんな、だが…でも」
藤堂の指先が唇を撫でる。その爪先を燃える舌先がぺろりと舐める。無意識だろう反応はそれだけに欲をそそる。藤堂の燃えるように紅い舌先がちろちろ覗く。何度も唇を湿すのはなんとか事態の打開を図ろうと苦心しているのが見て取れる。
「そうっすよね? こうして寝巻用意するってこたァ泊まれってことでしょう。しかもわざわざ手縫い。手製。これはちょっと素気無くできねぇよな」
言い募る卜部に藤堂が真っ赤になって唸る。音とも言葉ともとれる唸りが発せられる。卜部が膝を折って視線を合わせる。灰蒼をとらえる前に唇を吸った。
「鏡志朗」
ぴく、と藤堂の体が震える。その体躯を押し倒しながら卜部は指先を這わせた。触れるたびに発生する震えはどこは恍惚を呼ぶ。
「こう、せつッ!」
「あー、あんたにそう呼ばれんなァいいね。もっと呼んでほしいくらいだ」
卜部は噛みつくように藤堂の唇を奪う。舌先と同様に指先が乱暴を働く。それでも藤堂はそれらを切り捨てられずにいた。享受する藤堂に卜部の目が眇められる。
「大丈夫ですよ、ちゃんと尽くしますから。もらった分は…返しますよ」
「ンッこ、…せつ…ッ! 巧雪ッ!」
「あんたに呼ばれるならこんな名前でもいいんだから現金だよな。もっと、呼んでくださいよ」
乱れた裾や衿から覗く皮膚は艶めいている。下肢の際どい位置をさらす裾を割って卜部の指先が這いまわる。藤堂の体が揺れた。卜部は藤堂の脚の間に体をねじ込む。
「こ、う、せつ」
藤堂の指先が仕立てた着物をぎゅうと掴んだ。
「鏡志朗」
卜部は藤堂の体を抱いた。
《了》