言ってみるものだね
混じるぬくもり
藤堂は道場の戸締りを確かめた。最後に静まり返ったそこを見回してから扉を閉じる。南京錠がガチャンと冷たい音を立てる。ここの鍵はある程度の立場の者なら簡単に持ち出せるし、利用者が年少の悪戯っ子ばかりであることを考え併せて扉と一体型の鍵にはなっていない。子供の悪戯の程度は時に大人たちの予想をはるかに超えたり手に負えなくなったりする。子供たちが悪戯を申し出るのはいつだって事態に難渋した時である。この鍵もそれを示すかのように何個目かも明確ではない。扉を揺すって施錠を確かめ、外套の隠しへ鍵をしまう。
藤堂の双眸が闇の帳が下りた中でもはっきりと朝比奈を見分ける。小奇麗な格好や髪形は彼の賢しさを窺わせる。前髪の長さにこだわるような潔癖さを見せるかと思えば道具の扱いなどは思いの外乱暴であったりする。彼の髪と瞳は白昼でさえ気を抜けば黒髪や黒曜石の漆黒であると見間違える。朝比奈の色彩は湿地に生す苔のように黒味を帯びた暗緑色だ。底の知れない沼に息づく苔のように彼はしたたかで奥深い。
「藤堂さん」
歩きだした藤堂の隣へ道具を抱えた朝比奈が並ぶ。年齢の差や互いの性別を思えば友好よりも疎ましさの方が優先するように藤堂は思うのだが、朝比奈は何故か藤堂によく懐く。
「待たせたか」
吐き出す呼気が白く凍る。時間の経過は意識の外へ置いてしまうと早く、すぐに感覚が追いつかなくなる。もう外套や襟巻きが手放せない季節になりつつあった。道場の中での季節感など微々たるものだ。稽古着は衣替えなどしないし一年中裸足。せいぜいが燃料式の暖房を持ち込んだり戸口や窓を開け放ったりして風通しを良くしたりといった程度だ。
「寒くなりましたね」
冷気にさらされていた朝比奈の頬が薔薇色に染まっている。唇は果実のように艶を帯びて紅い。朝比奈は肌も白い方で顔色や血色の程度が鮮明だ。
「ストーブが要るかな。そろそろ当番制にし始めてもいいかもしれない」
藤堂は襟巻に口元をうずめながら相槌を打った。襟巻きが刹那湿り気を帯びてぬくもる。凍る呼気は白く霧散する。いつもならばすかさず返答する朝比奈の反応が鈍い。それでいて朝比奈の目線は様々に移ろい落ち着かない。訝しく思いながらも藤堂は殊更に問いつめたりしない。朝比奈の足が不意に止まった。ざり、と砂を噛む音がする。藤堂も歩みを止めて朝比奈を振り返る。紺色の外套の袖から白い手が剥き出しだ。ぎゅうっと裾を掴んでいるのが月明かりで見えた。何かをなそうとしている決意と努力が見える。
「て、手編みのマフラーとかどう思います?」
飛び出してきた言葉は突拍子もない。寒いという言葉からの連想にしても突飛さに富んでいる。年若いものは一所に考えをとどめず常に新しい話題を探している。朝比奈との年齢差だろうかなどと思いながら藤堂は続きを待った。
「藤堂さん、しませんか?!」
「…手編みを、か? 私が?」
藤堂は自然な動作で小首を傾げた。話のつながりが見えない。
「…私がそんなことをしたら気持ち悪いと思うんだが」
感想を述べた。そもそも手編みなどという地道な作業が報われるのは女性に限る。女性という性別は年齢の差なくそう言った積み重ねの強さを緩和させる。女性がやれば深い想いになるだろうが男性がやればただの執念である。与える印象も影響も天地の差だ。
「き、きもちわるくないです」
「おかしいだろう。だいたい私は手編みの方法など知らないからマフラーを編んだところで当の冬を越してしまう」
襟巻きなどの防寒用品は常々携帯するような性質のものではない。時期を過ぎれば用なしだ。
朝比奈が目に見えてしゅんとうなだれた。藤堂の方がたじろいで己の発言を反芻してしまった。朝比奈を傷つけるような不用意な言動があっただろうかなどと必死に頭を働かせる。
「…してくれないんですか」
「…だから、気持ち悪いだろう。私のなりを見ればそう思う」
藤堂にはそういった女性性はかけらもない。武道を指導する者としてそれなりの体躯を維持しているし、刺繍や手編みといった手作業を好むような性質には見えないだろう。藤堂自身、己がそんな繊細な性質だとは思っていない。藤堂と朝比奈の無言の押し問答が続く。朝比奈がそこまで望む理由が藤堂には皆目見当がつかない。だが望まれているからといって己の嗜好を変更できるほど藤堂は柔軟ではない。
「…あー…もう!」
朝比奈が大きく息をついて肩を揺らした。瑠璃紺の襟巻を取って外套の襟を開き、手であおいだ風を送る。朝比奈の頬が発熱している様に紅い。朝比奈のこの申し出はそれなりに覚悟が要るものだったらしいと藤堂は茫洋と思った。冷える外気さえ厭わずに朝比奈は襟巻を振り回した。鮮やかな瑠璃紺がひらひら揺れる。朝比奈は蒼を好む。怜悧な容貌の彼には確かに似合った。
「だって、不安だったから!」
朝比奈はすねるようにその薔薇色の頬を膨らませる。藤堂の門下生であるスザクより年上であるのにこうした朝比奈の仕草は幼い。そのあたりに彼らが諍いを起こす原因があるのかもしれない。
「藤堂さんと一緒にいたくって。だから…なにか。何かつながりを持てるようなものが、欲しかったんです! 藤堂さんがオレのこと忘れていないって思える何かが欲しくって!」
朝比奈が一息にまくしたてる。藤堂は目を瞬かせてそれを聞いた。
「だってオレだって不安です。藤堂さんは人気あるし、みんなに好かれてるし藤堂さんも人を嫌ったりしないし! こうやって一緒にいるだけじゃあオレのこと、忘れちゃうんじゃないかって。だから何か欲しくって」
藤堂の口元が堪えきれずに笑んだ。噴き出すような笑いに朝比奈がキャンキャンわめいた。
「藤堂さんは絶対気付いてないから! みんな藤堂さんの腰見てるんだから!」
朝比奈の言葉はいささか理解に苦しむが彼が何度も繰り返した逡巡の末の言葉であるらしいことだけは判った。つながりを持てば人はさらなる証を求める。次から次へと望みがわくのは人の習い性だ。
「鏡志朗さん!」
呼ばれた名前に藤堂は何とか笑いを引っ込めた。それでも口元が震える。未熟な朝比奈の性質が見えたようでそれはどこまでも微笑ましい。
「つながり、か。そうだな…」
藤堂の指先が唇を撫でて頤を伝う。扇情的なその仕草に朝比奈が見入る。藤堂の色香は当人が意識していないだけに押しつけがましさもなく自然だ。それでいて威力が十分ある。藤堂の手首や踝などの駆動部の細さは意外なほどで、しかし脆弱ではない。藤堂の指が襟巻を取る。黒い外套の襟からすんなりした藤堂の首が見える。喉仏が明確なそれは狡猾に息づいた。藤堂の指先が自身の灰白の襟巻を朝比奈の首に巻いた。朝比奈がびっくりしたように動けなくなる。緩く巻いてやるそこには呼気を含ませるだけの余裕と保温がある。
「と、藤堂さん、これ」
「やる」
短いが無駄な装飾のない藤堂の言葉は明朗で簡潔だ。朝比奈の鼻孔を藤堂の香りがくすぐった。
「で、でも、藤堂さぁん!」
藤堂は無駄に物を購入したりしない分、長く大切に使う。藤堂の持ち物はそれなりに愛着があるはずだ。特にこの灰白の襟巻は藤堂の灰蒼の双眸と呼応したようによく似合っていた。それを藤堂も知っていて大切に使っていたはずで、こんな簡単に朝比奈にくれてやるわけにはいかないだろうし、朝比奈としてももらうわけにいかない。
「駄目、駄目ですよ! 藤堂さん、この色苦労して見つけたって言ってたじゃないですか! 大事にしてたのに! オレなんかがもらうわけには」
朝比奈が慌てて言い募る。藤堂は淡く笑んだままだ。
「構わない。私とのつながりが欲しいのだろう」
「そうですよ、でも。でも、でも」
朝比奈は言いながらぬくまる襟巻に口元をうずめた。藤堂の香りがする。藤堂は衣類の保管もきちんとする性質で樟脳の香りがほのかにする。人肌に温もった襟巻はことのほか朝比奈の肌によく馴染む。ましてそれが好いている藤堂の香りをさせていては朝比奈に抗うすべはない。
「だから私はこちらをもらう」
藤堂の指先が朝比奈のそこから瑠璃紺の襟巻をかっさらうと剥き出しの襟もとへ巻いた。朝比奈が目を瞬かせる。藤堂は外套の襟を調節しながら瑠璃紺をまとう。
「待って藤堂さん、そんなの。そんな色はガキっぽいって、そんな」
「お前からもらったものなら気にしない。それとも似合わないか」
うそぶくように微笑して藤堂が口の端をつり上げる。他人がやれば嫌味なだけの仕草も藤堂がすれば蠱惑的だ。朝比奈はぐうの音も出ない。藤堂の皮膚に瑠璃紺の蒼さが反射する。冷え込むようなその蒼は灰蒼と濃淡を呼応させてグラデーションを見せる。美麗な人は衣服を選ばないというのを朝比奈は実感した。
「嫌か?」
藤堂は明確に朝比奈の了承だけを問うた。朝比奈はすでに肌に馴染んだ藤堂の襟巻を手放すのが惜しかった。
「…嫌じゃないです。嬉しいです。でもオレ」
「それならかまうことはない」
藤堂は襟巻をしっかり巻いてから外套の裾を翻すように歩きだす。朝比奈が慌ててその後を追う。堂々とした態度はちょっとした不自然や不具合を呑みこんでしまう。瑠璃紺は藤堂の肌にすんなり馴染んだ。
「これっぽっちのつながりでは不満か?」
藤堂の挑戦的な笑みは肉欲を呼ぶ。音を紡ぐ唇の動きが目蓋の裏に灼きついた。藤堂の低音はどこまでも心地よい。朝比奈のような甲高さもないし落ち着いた男性としての魅力が十二分にある。
「嫌ならば戻す」
「いえッ!」
朝比奈が反射的に首を振った。藤堂は微笑して襟巻に触れる。
「ならば構わないと言ったはずだ。私に不満はない」
朝比奈は藤堂に抱きついた。まだ細い腕が藤堂の体躯を抱きしめる。桜色の爪先が藤堂の黒い外套を掴む。
「大事にします! オレ、これ絶対、すごくすごく、大事にします! ありがとうございます!」
頬をこすりつけるように朝比奈が抱きついていくる。藤堂が微笑する。呼気を呑んだそれはゴロゴロと猫のように喉を鳴らす。その振動に朝比奈が笑顔を向ける。
「藤堂さん、喉鳴りましたね。可愛いなーホント可愛い」
藤堂は恥じるようにそっぽを向く。朝比奈の香りがする瑠璃紺の襟巻に顔をうずめてむぐむぐと唸る。
「ごめんなさい、ありがとうございます。すごくすごく嬉しくって、オレ。嬉しいんですそれは事実」
灰白が朝比奈の首や肩で揺れる。藤堂の指先が朝比奈の髪を梳く。冷気にさらされたそれは別物のように冷たい。肉体の一部であるとは思えないほど別離して冷えていた。
「きちんと巻きなさい」
藤堂が緩く巻いた灰白を直してやる。朝比奈はされるままになった。
「鏡志朗さん」
言葉の違いを悟った時には遅すぎた。朝比奈の熟れたように熱い唇が重なる。弾けてしまいそうな熱と張りを保つそこの感触に身震いする。
「省悟」
朝比奈がすがりつくように頬を寄せた。
「ごめんなさい。大好き。大好きでごめんなさい」
藤堂の黒い外套に朝比奈は爪を立てた。藤堂はそれを押しのけたりしない。
「ごめんなさい、ありがとう。本当に嬉しい…ありがとう、ございます」
朝比奈は震える唇で藤堂の唇を吸った。熱く濡れた舌が絡む。
冷たい夜気の中で長身と華奢な体躯が重なりあう。朝比奈の白い指先が藤堂の頬をとらえる。噛みつくようにむさぼりながら朝比奈は藤堂の唇を吸った。
「ありがとうございます。大好きです。本当に」
熱源は領域を超えて融けあった。
《了》