白く灼ける
冷たい慕情
最寄駅からの道のりを藤堂は黙々と歩いた。後ろからはひょこひょこ卜部がついてくるが口を利かない。二人とも、ともに能弁な性質ではないし沈黙を苦にしない。藤堂は歩きながら卜部の足音に耳をすませた。長身である藤堂より卜部の背丈は高い。その分手脚も長く標準的なものとは四肢の動かす間が違う。微妙なそれは一定の律動でありながら藤堂のそれと同調しない。藤堂も同調を欲しがるほど幼くないし卜部の方で藤堂を嫌っている節がある。結果として沈黙が場を支配した。ついてきているか、まいてしまっていないかと振り向けば卜部は見計らったように藤堂と目線を合わせてから視線を外す。突き放すような冷たさこそないが隠された好意も感じられない。表現がうまくいかずに不愛想になっているとは思えなかった。卜部の冷淡さは明らかに意識的なものだった。
藤堂は自宅につくと施錠を解いた。卜部がわずかに嘆息して門構えを見上げる。潜り戸を開けた藤堂は卜部を招き入れてから玄関へ向かった。家の建てつけは古い所為で歪んでいる。鍵をかける際にも解く際にも微妙な手加減が要る。卜部は臆することもなく庭を見ている。時間のなさを理由に手をつけずにいたことに藤堂はそっと頬を火照らせた。人を招くならばそれなりの準備というものが要る。
「俺ァ庭ぁ、掃除しましょうか。家ン中のもん動かされるよりいいでしょう」
藤堂は慌てて鍵を探りながら離れのようになっている倉庫の前にいった。軋んだ音を立てて扉を開けばそこは庭以上に手付かずだ。行き届かない配慮に藤堂は顔が燃える思いをした。卜部は気にしたふうもなく藤堂の後ろから倉庫を覗きこんで道具を物色している。
「使われたら困るもんさえ教えてくれればそれでいいっすから。あんたァ家ン中やってりゃあいい」
藤堂は穏やかに説明を加えながら卜部を見た。卜部は積極的に誰かを嫌ったりしない。嫌いになるほどの深い付き合いを持とうとしない。片鱗に触れて不可だと判じた場合、卜部はその者に積極的にかかわらない。だからこうして藤堂のいうことを消極的にでもきいてくれたりするのはそれなりの好意があるのだと思うのだが、卜部は殊更に藤堂に冷たい。作戦も戦闘もうまくこなす。藤堂の命令もきく。だが、藤堂の人格に触れてこようとはしない。上っ面だけであるという明確なぬるさ。
「では、私は家の中にいるから。何かあったら呼んでくれて構わない」
藤堂は足早に家の中へ駆け込んだ。その背中を奇妙に冷めた卜部の視線が貫いた。
体に染みついた手順で藤堂は掃除をこなす。風を通すために障子や唐紙を開け放ち、上から順繰りにはたきでほこりを落としていく。けほけほと咳き込む。多忙を理由に掃除を怠けたつけである。欄間や長押に埃がたまる。定期的に掃除用具の交換や補給をしてくれるサービスもあるが、不定期に家を開ける藤堂はそういったものを利用しない。昔ながらの、といえば聞こえはいいが古臭い方法で時折家の掃除をする。ぱたぱたとはたきを揺らしながら藤堂の目線は庭の卜部に向く。除草から手をつけ始めたらしく卜部が長身をかがめて雑草を抜いている。こうした作業は日々の積み重ねがものを言う。怠っていた藤堂は人に見せるのも恥ずかしいようなありさまだ。それでも卜部は煽ても貶しもせず黙々と作業する。藤堂は思い出したように卜部の方を見ながら掃除を続けた。掃除機をかけたり雑巾がけをしたりする。卜部の方も特に支障なく作業を進めている様で、芝を刈ったり植木の下まで雑草を抜いていたりと案外繊細だ。卜部が最後に打ち水をする頃には藤堂の掃除も終わりに近づき、畳表も溜めこんだ湿気を吐き切る。
濡れ縁の雑巾がけをしていた藤堂は卜部に声をかけようとして思いとどまった。すでに薄暮の差す頃合いであり影は妙に長い。卜部の体躯は細い。軍属であるに必要な力がどこに秘されているのだろうと思うほどにすんなりした四肢や胴部を持っている。動かし方も独特の間をもって、その呼吸やリズムは容易に同調しない。馴染みこそするが寄り掛かりはしない卜部の在りようのようだ。浅い付き合いで人間関係をすますというのは案外辛い。確立した自己と相手への依存を断ち切る必要がある。相手のいない世界の寂しさを藤堂は片鱗でしか知らない。
「卜部」
声をかければ振り返る。土にまみれた指先をパタパタ払いながら卜部がなんだと問い返した。
「今日はこのくらいでいいから。食事にしよう。腹がすいたろう」
洗面台の位置を教えてから藤堂は逃げるように台所へ移動した。軽い惣菜を作るだけの間にも卜部の動きが気になる。包丁を使いながら野菜を刻む。一定のリズムをもつその動きに背筋がびりっとした。振り返れば卜部が黙って藤堂を見ていた。
「どこで待ってりゃあいいんですかね」
藤堂は好きな場所で構ないとだけ告げて手元の作業に没頭した。卜部の茶水晶の煌めきを思い出すだけで体が燃えた。
藤堂が何度か盆を抱えて台所と部屋とを往復する。それなりに体裁の整った食卓にいただきますと声をかけて食事が始まる。黙々と進む食事に藤堂の箸が鈍る。卜部は黙ったまま割当分を消費した。沈黙の降りた食事がすんで間が空く。食器類を片づけようと思うのに藤堂の四肢は重く動かない。場を離れがたいのが何によるためなのか藤堂には判断がつかなかった。
「うらべ」
名を呼べば卜部は目線を向ける。そろそろ明かりがないと手元さえ危うい頃合いだ。薄闇がその範囲を広げつつある。それでも卜部は暗いと不便を訴えることもなく藤堂を待った。
「あんたァ枢木ゲンブに脚開いてるって本当か」
びくんと藤堂の体がすくむ。応えない藤堂をどう思ったのか、卜部は鼻を鳴らした。
「誰にでも脚ィ開くのかよ。節操ねェな。じゃあ俺にも開いてもらえんのかな」
いざり寄ってくる卜部を藤堂は拒絶できない。藤堂は逃れるように立ち上がると後ずさった。
「…風呂を、立てる」
浴室の方へ逃げるように駆けていく藤堂の背が闇に融けた。
卜部が湯を浴びている間に食卓を片づける。卜部は好き嫌いもないようでどの器も綺麗に片付いている。茫洋と食器を洗いながら藤堂は卜部の唇の動きを思った。近づいてきたそれは明らかに接触の意を含んでいた。
「こう、せつ」
藤堂の唇が名を紡ぐ。ザァザァと流れる水流の冷たさにはっとした。作業を終えると客間に布団を敷く。今から家に帰すのは藤堂の気が許さない。どうせ藤堂と卜部の仕事場は同じ場所なのだという気安さがあった。
「先に頂きましたけど」
卜部が濡れ髪のままでてくる。藤堂が用意した浴衣は少し丈が足りないようだ。くすりと笑うと卜部がむっとした。
「丈が足りんようだな」
「そりゃあんたより背の高い奴なんて想定外でしょうからねェ」
つけつけとした嫌味にも藤堂は笑う。客間を示して先に就寝して構わないと言っておく。
湯を浴びて戻った藤堂は卜部が布団の上で座り込んでいるのを見た。差し込む月白が卜部の肌を白く染める。
「卜部」
倦んだような卜部の視線を藤堂をとらえた。卜部の視線を受けるのはこれが初めてかもしれない。卜部はいつだって藤堂の目線をすり抜けるように逃れたのだ。枕辺へ膝をつく藤堂の唇を卜部が奪った。噛みつくような激しさを有しながら舌先は気遣うように歯列をたどるだけだ。藤堂の体が布団の上に押し倒される。
「うら、べ」
乱れた衿元から卜部は手を差し入れる。湯を浴びているわりに冷たい指先に藤堂が身震いした。藤堂の喉をたどり、鎖骨を撫でてくぼみを押す。
「あんたは俺を脅かす」
卜部の独白が何を含んでいるかは明確だ。藤堂と枢木ゲンブとの関係は気づくものは気づく。卜部もそういったことに鈍感な性質ではない。上っ面を選んで付き合う卜部は感情の機微には敏いというべきだった。
「ならば、私など相手にしなければいい。こんな穢れた、体」
卜部の喉が震える。尖った喉仏の陰りさえ月白に照らされて美しい。藤堂は卜部の浴衣を撫でた。白藍に藤がかたちどられた絞りだ。濃紺の男帯が白い画面を引き締める。卜部の指先は乱暴に衿や裾を割る。
「なんで」
卜部の声が掠れた。
「なんであんたァ俺を嫌わねェんだッ」
いつも藤堂の身の回りに張り付く朝比奈の都合が悪いと知ったとき、藤堂は卜部を指名した。暇ならば、手伝ってはくれないか。穏やかにそういった藤堂に卜部はついてきた。藤堂は卜部がいくらつれない態度をしても折れなかった。気にしたふうでもなく声をかけてくるし雑談も持ちかける。
藤堂の脚が開いて卜部の腰を抱え込む。長い脚が月光に照らされる。すんなり伸びた脛は長い。足首も踝も締まりがあって見苦しくはない。
「卜部、お前は私にこういうことをするくらいには好いているのだと思っていいのか」
卜部の眼差しが揺れる。その揺らめきを藤堂は黙って見つめた。卜部はむやみに他人を無下に出来るほど人が悪いわけではない。
「…俺はあんたなんか大ッ嫌いだ」
吐きだす卜部の声が震えていた。藤堂の衿を掴む指先が振動する。卜部の痩躯を撫でてやりながら藤堂は笑んだ。ふぅと吐き出される吐息にさえ卜部がたじろいだ。
「でもお前は私を犯すのだろう。私を好きでもないものに犯されるなど、私には似合いかもしれないな」
卜部は何か言いたげに唇を震わせたが結局何も言わなかった。いざとなれば卜部の体躯を押しのけるだけの瞬発力も筋力も藤堂は有している。それでもそれらを使わないのは、卜部ならばいいという赦しのもとで。
「巧雪」
「呼ぶな」
「こう」
「呼ぶなッ!」
卜部の指先が藤堂の皮膚に爪を立てた。ぎちりと軋むそこからは深紅がにじむ。
「俺はなァあんたなんか大ッ嫌いだッ…そうでなきゃ、そうで、なきゃ」
「嫌いでいい」
卜部の体が硬直した。
「私は私を抱く人が、私を好いているなどと思っていない。厭うものが私を抱くことさえ私は」
ぎりっと卜部の唇が噛みしめられる。千切れた裂傷から鮮血が滴った。
「あんたァいつもそうだッ! テメェに関係ねぇってツラァしていつもッ」
藤堂の灰蒼は静かに卜部を映した。
「いつも、…」
卜部の言葉が続かない。藤堂も先を急いたりはしなかった。
「いつも、あんたァ…」
藤堂は妖艶に笑った。つり上がる唇の紅さや眇められる眼差しの灰蒼。藤堂は四肢から力を抜いた。卜部はかき抱くように藤堂の体を、抱いた。
「俺はあんたを守ったりしねぇからな」
「構わない」
触れ合う場所から融けあった。
《了》