お前の
あんたの
それ。
性質が悪い
手加減に慣れてしまえばその位置がやがて通常の位置にとって代わる。卜部は板張りの床の上に行儀悪く座ったまま茫洋と思いをはせた。時間帯の所為もあってか鍛錬に励んでいるのは年長の者が多い。悪童たちは暗くなる前に家へ帰される。責任者といっていい位置にいる藤堂が年少の者に対して妙に過保護な傾向がよく出ている。卜部は突き刺さるような視線を感じながら無視し続ける。目線すら向けない。ピンと張りつめたそこは卜部が何か行動を起こすのを手ぐすね引いて待っているかのようだ。きっかけさえあればすぐさま理由をつけて飛びかかろうとしている。卜部は諍いを好む性質ではないからすり抜けるようにしてその矛先が収まるのを待っている。
卜部が目線をずらさずに見ている先には藤堂がいる。白い道着と紺袴の対比が鮮やかで意外と細い腰回りが殊更によく見える。長身で脚が長く腰の位置も高い。成熟した肢体と禁欲的で清廉な雰囲気が藤堂を包む。門下生の掛け声に負けない声で指示を飛ばし、教える位置に立てば熱心だ。暇や手間を惜しまず、人柄もいい。乞われれば必ずそちらへ向かうし目を盗んでサボるのも見逃さない。時折気がかりそうに卜部の方を見るのは、皮膚に突き刺すような朝比奈の闘気を感じるからだろう。卜部はその闘気から逃れるすべをわりあい本気で考えている。卜部と藤堂を結ぶ線上に青年が立つ。そろいの白い道着の紺袴。卜部よりも藤堂よりも年少だが勝気で利発な性質が明確に見てとれる。
「なにさ藤堂さんばっかり見ちゃって」
言いがかりである。そもそも卜部が目線をずらせなかったのは朝比奈につっかかる機会を与えたくなかったからであって、位置が固定されている以上道場内をまんべんなく動いている藤堂はどうしても目に入る。説明しようとした卜部は唇を開いたがそれだけで音は漏れてこなかった。億劫になった。朝比奈の思考基準が藤堂に固定されているのは有名な話でその程度も半端ではない。言い訳には違いないし、ならばするだけ無駄であると卜部は判じた。
卜部はだらしなく四肢の力を抜いた。壁に寄り掛かるように背を預けて目を閉じる。ばしんと慣れた感触で頭を殴られた。眉を寄せて目を開けば竹刀を持った朝比奈が仁王立ちで卜部を見下ろしていた。手に持った竹刀で殴ったことを隠そうともしない。
「ねぇじゃあオレと試合してよ。暇でしょ」
朝比奈の唐突な申し出に周囲の数人がざわめいた。朝比奈は年若いが確かな腕をもってもいる。逆に卜部は早々名をはせているわけでもないと自認している。そもそも卜部は戦闘要員の条件として剣戟を学んでいる感が否めない。止めると言えば簡単にこの道場や剣術自体から足が遠のくだろう。
「なんで俺だよ」
「なに、逃げんの。へぇえ」
「うるせェな、俺ァやらねェで済むこたァしねェんだよ。面倒くせェ」
「じゃあオレより弱いって認めるんだ」
「はいはいそうですね。テメェより俺ァ弱いよ、これでいいか、ほっとけ」
卜部のぞんざいな言い草に朝比奈の顔がみるみる紅く染まっていく。びしっと竹刀を刀のごとく突きつけて朝比奈が叫ぶ。瞬間的な怒りにわいた声はどこか少年じみて甲高い。
「むかつく、絶対ぶちのめしてやる! 勝負しろ!」
周りが好戦的な興奮に満ちたざわめきに揺れる。見ているだけの勝負なら楽しいに違いない。
「お前たち、何をして」
ざわめきや野次を聞きつけた藤堂が歩み寄ってくる。朝比奈の顔が一瞬華やいだ。だがすぐに引き締めた顔で藤堂に試合がしたい旨を伝える。朝比奈の言い分を聞いていた藤堂が卜部の方を見た。卜部はようやく立ち上がって折れた袴の裾を直す。
「いいのか、卜部」
「ハァ。断ってんのにするって言ってますからね、そいつ」
卜部の言葉にすぐさま朝比奈が噛みついた。発火するように早いその反応は朝比奈の若さのようだ。
「なにさむかつくことばっか言っちゃって! 絶対ぐうの音も出ないくらいに叩きのめすからな!」
つけつけと放たれる言葉の内容に藤堂は目を瞬かせたが動じない卜部に淡く笑んだ。
「ならばちょうどいい。私もお前の腕を見てみたかったから」
「…あァそうですか」
冷たく応じる卜部に朝比奈がますますわめく。藤堂が慌てたように朝比奈をいなす。卜部は黙したままずれた衿や腰紐を直した。
「絶対、絶対ぎゃふんて言わせてやるからな!」
藤堂が試合の開始を宣言した。判じるのも藤堂だ。卜部は向かい合う朝比奈にならうように正眼に構えた。朝比奈はすぐさま勢いよく打ちこんでくる。竹刀で切っ先を逸らしながら重心を移動させて一撃をかわす。半瞬背中を向ける朝比奈が振り向きざまに放つ一撃は卜部の竹刀をかすめて空振った。卜部はすり足のまま体の位置を自在に変える。上段下段中段と全ての突きをかわされて朝比奈の頭に血が上る。卜部は最低限の動きでそれらを行っており疲れもない。そも、卜部に朝比奈を倒そうという気は見られない。竹刀を振りあげて空いた腹部や突きをかわされた直後の背後に卜部は剣を向けなかった。朝比奈が体勢を立てなおすのを待つ。それでいて負けてやる気もなく打ち込みは巧みにかわす。
朝比奈を何とかさばきながら卜部は藤堂を見た。藤堂の灰蒼は貪欲に理知的に二人の動きを目で追っている。その時々に応じた最善の手を瞬時に講じているのだろう。そう言うところで藤堂に隙はない。卜部の眼鼻の先を竹刀の先端がかすめる。焦れた朝比奈がいささか卑しい真似にでた。鼻先をかすめるのは明らかな挑発行為だ。案の定、藤堂が渋い顔をするが血が上った朝比奈はそこまで気が回っていないらしい。再度かすめようとするところを思い切り卜部が払った。朝比奈の体が揺らぐ。そこへ一撃すれば試合は決する。だが卜部は構えを直して退いた。明らかに手加減をされたそれに朝比奈の指先がわなわな震えた。卜部の型どおりの構えに朝比奈の理性が灼き切れる。
「馬鹿にしてんの?!」
型も何もなく朝比奈がただ突っ込んでくる。ひらりとかわす卜部の体を追って竹刀が投げつけられる。それすらかわす卜部に朝比奈が飛びかかった。見てとった卜部も体を反転させて床を蹴る。卜部の方が脚は長くそのぶん歩みも早い。朝比奈が見栄も型もなくただ卜部を追い、卜部も逃げる。逃げる卜部の裾や手足に掴みかかろうと朝比奈が憤怒の形相で迫る。卜部もひらひらとうまく逃げる。戸惑う門下生を飛び越え、時に盾にして卜部が逃げ、朝比奈も執拗に追いかけまわした。門下生を隔たりに引っ張り込んだりと周囲を巻き込みながらの朝比奈と卜部の追いかけっこが続いて道場を何周しただろう頃合いになってから藤堂の怒鳴り声がこだました。平素から窺えない藤堂の憤怒にほかの門下生たちまで縮みあがる。
「いい加減にしろ!」
防具もつけていない卜部は腹に響く藤堂の怒声に肩をすくめた。同じく無防備でいた朝比奈が背中を丸める。藤堂の指先が道場の隅を指し示す。
「二人とも正座! 終わるまでそうしていろッ掃除も二人でする!」
「えぇえーそんなぁ、藤堂さんッ」
「言い訳するな!」
にべもない藤堂の言葉に朝比奈が目に見えて萎れた。卜部に飛びかかっていた時の勢いすらない。卜部は肩をすくめて竹刀をしまうと指し示された隅に言って正座する。朝比奈ものろのろと従う。唇を尖らせて泣きだしそうだ。
「オレは悪くないのに」
卜部はそれをきっぱり無視した。試合を挑んできたのもぶち壊したのも朝比奈だ。卜部は完全に巻き添えである。肩を怒らせた藤堂が元通り稽古に戻るよう指示を飛ばしている。藤堂のしゃんと伸びた背筋が美しい。藤堂の髪は黒色というより鳶色に近く色が若干抜けている。灰蒼の双眸や健康的な色艶を帯びる肌色と相まってそれらは美しい。道着の白さは艶めかしい。藤堂の背が引き締まる。視線を感じているかのようなそれを見てとりながら卜部はあえて目線を逸らさない。おずおずと卜部を見る藤堂の眼差しを無機的に射抜く。何の感慨もないと公言するように平常な視線に感じたことを恥じるように藤堂が目をそらす。朝比奈も見据える卜部にならうように藤堂を見た。二人分の視線を感じた背が引き締まる。肩甲骨がきゅっと寄るのが道着の上からでも見てとれた。
「藤堂さんみてるの」
朝比奈にわだかまりは感じられない。朝比奈の諍いは発火が早い分長持ちもしない。朝比奈も後に引かせる気はないらしく何でもないように話しかけてくる。卜部も殊更尾を引くでもなくその言葉を受けた。元より卜部は朝比奈に拘泥する理由もない。
「…あの人、いつもああ」
「藤堂さん? いつもそうじゃない。しでかした時には怒るしいいことすればほめてくれるし。公平な人じゃないの」
いいながら朝比奈はそれに不満があるのだと言いたげに鼻を鳴らした。卜部は黙って藤堂の立ち居振る舞いを見つめた。
卜部が道場に顔を出すようになったのは藤堂の直属に配置されてからだ。それまで軍属が道場を開いて子供たちに教鞭を揮っているなどとは思いもしなかった。年嵩のものにも教えている、お前も来ればいいと気安く誘われて顔を出し、結果としてのこのこ通っている。一度顔を出しただけの卜部を藤堂は覚えていて道場でにっこり笑ってありがとうと言った。卜部が来なくなればその理由を問われるに違いなく、その厄介さに卜部は妥協した。コウヘイナヒト。反吐が出ると卜部は心中で思った。卜部は藤堂の直属にこそなったが心根の在り様まで藤堂に依存する気はない。軍属としての命令系統の上部に藤堂がいるというだけだ。公平であろうとする藤堂の姿は卜部には偽善であると受け取れた。好みがある以上差別化は避けられずそれがないように振る舞うなど卜部には偽善でしかなかった。あるならあると認めればいい。
「何その顔」
朝比奈の言葉で卜部は引き結んでいた口の端や寄せた眉に気付いた。
「うるせェ、なンでもねぇよ」
卜部は力を抜いた。朝比奈が暇を持て余すと言いたげに話しかけてくる。藤堂を賛美するそれに相槌を打ちながら卜部は藤堂を嫌いなのか好いているのかを思案した。藤堂の灰蒼が意味ありげに卜部を見ては移ろった。
たったったっと軽く床を蹴って雑巾がけをする。朝比奈も卜部と反対側から雑巾をかけている。藤堂が卜部を見てくすくす笑う。敏感に聞きつけた卜部が顔をしかめて問うた。
「なんだよ」
「いや、脚が長いから雑巾がけは大変だろうと思っただけだ」
「判ってんならさせんじゃねェや」
言い捨てて卜部の足が床を蹴る。口笛を吹き吹き雑巾がけをしていた朝比奈がゴガッと顔面から床に追突した。眼鏡がポロリと落ちる。
「いった――――い!」
「あほか」
調子に乗っていると床が不意に足止めを食らわせて勢いのまま顔面から床に突っ込む羽目になる。
パタパタと散る紅い雫に朝比奈が色を失くす。
「藤堂さんッ、鼻血出ちゃいましたよ!」
げんなりする卜部をよそに藤堂はトイレットペーパーなど持ちだして呑気なものだ。子供の中にはよく鼻血を出す性質の子もいたりする。慣れた扱いで朝比奈の手当てを藤堂が行う。卜部は一人で黙々と雑巾をかけた。朝比奈と藤堂の戯れなど見ている趣味はない。朝比奈はおとなしく手当てされているが明らかに他意が見て取れる。
「大丈夫か?」
「はい」
トイレットペーパーを鼻に詰めた朝比奈がにっこり笑う。安堵したように藤堂も微笑した。呑気である。藤堂の目線が卜部の動きを追う。感じ取った卜部が睨みつければ藤堂は平然と言ってのけた。
「卜部、腰が細いな」
がくっとこけた卜部はその場に突っ伏した。雑巾の湿り具合が指先から感じ取れてその臭気に情けなくなる。
「…あんたァほかに言うこたァねェのか」
毒づいた卜部の言葉にも藤堂は微笑で応える。朝比奈だけがやきもきしたように藤堂を見ている。藤堂がそっと膝をいざって卜部のもとへにじり寄る。
「巧雪」
名前を呼ばれた刹那に唇を奪われた。そのまま吸いつかれて押し倒される。
「ばッ、なッ、あんたァ!」
卜部の喉をあらゆる罵りと抗議が埋め尽くす。結果として何の音も紡がない。藤堂は知っているかのように卜部の唇をむさぼった。舌が絡め取られてきつく吸われる。溢れた唾液がまじりあって口の端から伝い落ちた。
「――ッは…」
卜部が喘ぐのを藤堂は愉しげに見ている。藤堂の指先が卜部の袴の腰紐に至って初めて、卜部が身じろいだ。
言葉にならない抵抗に藤堂がクックッと笑う。
「何に対しても無感動なのかと思っていたがそういうわけではないのだな。…私のことを少しでも感じてくれる」
うそぶく唇が近い。熟れたように紅いそれは弾ける直前の果実に似た。卜部は力いっぱい藤堂を押しのけた。体の下でバタバタもがくのを藤堂は鷹揚に見逃した。藤堂の手が卜部の膝を開かせる。
「お前の意思は尊重する」
「嘘くせェ…」
「藤堂さぁんッ! そんなのに引っかからないでくださいよ!」
泣き声のような朝比奈の悲鳴がこだます。鼻に詰めたトイレットペーパーの所為かいささか詰まったような音程だ。
藤堂は卜部の内股を撫であげる。ぞくぞくとするそれに身震いしながら卜部は藤堂を見た。灰蒼は愉しげに潤んで卜部を映していた。
「離せ」
「いやだと言ったらどうする」
挑戦的な藤堂の眼差しを卜部は目蓋で受けた。閉じられた目蓋がぴくぴく震えるそこに藤堂は唇を寄せる。縹色の髪を梳くように撫でながら藤堂は卜部の目蓋に唇を寄せた。
《了》