はじめてだ。
お前みたいな、ヤツ
泣き声が聞こえた気がした。卜部の目蓋が揺れて茶水晶が覗く。物憂げに身じろぐと端々に真新しい敷布の感触があって卜部は初めて位置を認識した。派手に寝乱れた敷布は散々であたりに白濁とした体液が散っている。無造作だがかけられていた毛布にくるまって眠りそうになるのを目の前にたたずむ華奢な姿が引きとめた。すんなりと見栄えよく伸びた背筋は肩幅もあまりなく華奢だ。白い肌は肌理も細かく蒼白いような不安定さはない。確かに息づいているだけの色を帯びていて官能的であるほどだ。白の膨張を引き締めるような漆黒の髪は墨を流したかのように完璧だ。脱色したり染めたりしているわけでもない天然ゆえの馴染みがある。うなじを隠す程度に長さのある髪は細く空調の微風にすらなびく。
「…ルルー、シュ」
秘されている彼の名を呼べば肩が揺れる。それでも振り向かない彼にもう一つの名を呼びかけようとした刹那に、ルルーシュは卜部の方を見た。大きな紫苑は濡れて揺らめく。熟れた果実のように紅く艶めく唇は引き結ばれて厳しい表情を作っていた。
卜部は先刻のあれは幻聴であったと決着をつけた。元よりルルーシュは泣くような性質ではないし、立場的に卜部に泣き顔を見せることもあり得ない。ルルーシュにとって卜部はただの欲望の発散相手であると卜部は認識している。日頃の彼の様子や作戦の合間に窺える性質やこれまでの出来事を振り返っても、ルルーシュが泣く理由などない。むしろ泣きたいのは卜部の方である。ルルーシュは気まぐれに卜部を呼びつけては問答無用で寝台になだれ込み腰を立たなくさせている。それでも浅からぬ関係にある藤堂たちへの対応はどうしているのか、卜部は面と向かって質されたこともなく済んでいる。
ルルーシュはつかつかと歩み寄ってくる。その行動の端々に窺えるのは悲哀ではなく憤怒だ。眉間にしわが寄って柳眉が吊り上がるのを堪えているのが判る。朱唇の端が震えているほどに怒りを示すのは真意を隠すすべに長けた彼には珍しい。怒られる前の不穏な空気に卜部が身じろぐ。いっそ開き直って眠ってしまえればいいのにと思うが、そうするだけの度胸もないと判っている。開き直って立ち向かうのも身をひるがえして逃げることも出来ずにその場へとどまるしかない。もっとも全裸で部屋から飛び出す根性は卜部にはない。絡まる毛布で何とか腰部を隠しながら卜部はルルーシュの言葉を待った。
「…お前」
ルルーシュの双眸が玉眼のように強い力を帯びる。美しいものは何をしても美しいが怒ると怖い。藤堂がいい例だ。彼に怒られるのはこの年になってもかなり怖い。
「お前、は! オレをどう思っている!」
吐きだされた音の内容を卜部は反芻した。よっぽど間抜けな表情をしたと見えてルルーシュは地団駄でも踏みそうな勢いで卜部を睨めつける。
「…意味が判らねぇよそれ」
「貴様はいつも、そうだな! 閨へ誘っても藤堂がああだこうだと! 確かにオレはこの行為に情緒の付随など求めなかったな?! だが目の前で抱いた相手が別人を褒めるのを間抜けに聞いているほど朴念仁でもないッ!」
「ちょっと待て、それ言いがかりだろ。だいたいテメェと中佐ァ同列に並べて論じられるかよ」
振り上げられたルルーシュの平手が命中した。手加減の一切ないそれが頬を腫らせていく。意見のすれ違いが明確な形を帯びる。ルルーシュはヒステリックに卜部を押し倒した。
「あぁそうだ、お前の中で藤堂は特別さ。何せ黒の騎士団に藤堂という個人奪還を求めてくるほどだからな!」
ルルーシュの言い分は公私混合もいいところだ。そもそも藤堂を気にかけるのは卜部の中では当たり前のことであり比較のしようもない。ましてやルルーシュは無理矢理に体をつなげた関係だ。だがルルーシュの個人的な矛先がまさか向いてくるとは思わず卜部も警戒を緩めていた感は否めない。正確な年齢は知らないがルルーシュの年代から推し量るにまだ感情と現実が混じり合っている頃合いだろう。そして彼にはゼロという実績があり、自由にならない事柄などなかったと思われる。それがルルーシュの感情の増長を招いていると卜部は心の端で計算した。
落ちつけと諫めたくなるのを殺す。ルルーシュの紫苑が濡れていた。言葉を失くす卜部の体をルルーシュは翻弄した。溢れそうになる嬌声を口を引き結んで殺す。引きつる喉にルルーシュの指先が触れた。
「藤堂を忘れろとは言わない。だが…オレのことだって、考えて欲しい」
噛みつくような口付けの後にルルーシュは卜部を無理矢理犯した。
何かと人の集まる食堂へゼロが顔を出す。大半が受け入れを好意的に示す中で卜部だけは表情を変えなかった。拒否はしない。受け入れもしなかった。ゼロの華奢な肩がわずかに落ちる。黙々と食事をする卜部の前にゼロが立つ。卜部はそれでも頑なにゼロを無視した。声をかけることはおろか名前すら呼ばない。気付いていないと言われればそれだけの態度をしていた。何かと連れ立つ傾向のある藤堂と四聖剣の面々が意外さと興味深さを同時に窺わせて卜部とゼロの成り行きを見守っている。藤堂はあっけにとられた様に箸を咥えたままゼロと卜部を見ている。
「卜部。卜部巧雪」
初めて卜部は目線をあげた。それでも積極的にしろ消極的にしろ、そこに好意はなかった。ただ続きを促すだけの沈黙を持って卜部は応える。ゼロの方がたじろいだように言葉を続けられない。ごくんと卜部が口の中のものを嚥下した。細い首は喉仏の動きまでありありと判る。
「…時間が空いたらで、構わない、から。…部屋に来てほしい。話が…ある」
いつになく遠慮がちなそれに朝比奈が驚いたように目を瞬かせた。実年齢よりはるかに幼く見える朝比奈の動作はまだどこか幼い。
「判った」
短い返事にゼロは長居を嫌うように踵を返す。時間の指定をしないあたりにゼロの譲歩が窺える。
「へぇえぇーゼロがあんたに用事。すっげぇめっずらしぃー」
揶揄する口調の朝比奈を無視して卜部は中途で食事を止めた。
「卜部」
静かな藤堂の声は乾いた土に沁みとおる水のように自然と馴染む。不愉快など感じさせず控えめで心配りもある。卜部は黙って藤堂の言葉の続きを待った。藤堂は話の突端こそ唐突だがその後の展開は相手の様子を見てからという慎重な面もある。
「なンすか」
「…ゼロの様子が少し変わっているのは、お前が関係しているのか?」
卜部は目線だけ出入り口へ向けた。ゼロの姿は疾うにない。藤堂の勘はいい。卜部は肩をすくめた。
「俺はそこまで重要人物じゃねぇと思いますがね。暇つぶしじゃねェですか」
言いながら卜部はゼロの声が震えていたことに気付いてしまったことに忸怩たる思いをはせた。卜部は藤堂ほどに他者への影響を読み取れないことくらい知っている。それでも犯してしまった己の態度に砂を噛む。発端はゼロたるルルーシュの暴言暴行であるのにここまで罪悪感を感じてしまうのは何故なのか卜部にも判らなかった。このままゼロの申し出を無視してしまえはわだかまりは抱えるにしろ爛れた関係は清算できるのは間違いない。だが卜部はその選択肢を選べなかった。
「ゼロはお前を酷く好意的にみていると思うんだが」
藤堂の言葉に卜部がぎくりと足を止めた。
「…ゼロが、俺を?」
「あぁ。詳しい理由は判りかねるが…そんな気が、した」
卜部ははんと吐き捨てる。肩をすくめる仕草をとがめるように藤堂の灰蒼が卜部を映した。
「ゼロはお前を好いている。…同族としての勘だがな」
いささか問い詰めたい点があるが卜部は何も言わずに食事を廃棄した。藤堂の艶めいた顔が卜部の意識に灼きついた。
――お前を、好いている
卜部は自室へ戻ると寝台に転がった。ルルーシュとの諍いの後に無理矢理体をつなげられて以降、彼からの逢瀬はすべて黙殺か断りを入れている。年頃の生娘でもあるまいし不義だとかそういう感覚はない。ただ感情的にわだかまっているだけなのだと思う。卜部自身は感情の伴わない行為は別に何でもない。好き嫌いの傾向はあるにしても道義的にどうだとかそういうものはない。体を拓くことに抵抗もあまりない。軍属であった頃の方がむしろ露骨で乱暴でさえあった。
「…ゼロ、なァ」
ルルーシュの所属名は聞いていない。名前の響きはどこかで聞いた覚えがあるが、その程度であり卜部自身もその先を突き詰めて考えなかった。そもそも名前の所属など平和な世界でしか意味など持たない。
名前が記号であるというならゼロの名こそその象徴たりえるだろう。だから彼がそう言ったことに固執することはないだろう。そうなると彼の行動は卜部個人への慕情の表れということになってしまって、卜部は行き詰る。ルルーシュの声が響いた。鈴を転がすようなそれの高さはどこが浮世離れして甲高い。
ウラベコウセツ。
コウセツ。
コウセツ――
「――…呼ぶなッ」
卜部は浴室へ飛び込むと火加減もせずに水流の栓をひねった。熱されない冷水が降り注いで卜部の肩やうなじを強く打つ。着衣のままの卜部が黙って水を浴びた。衣服が水気を吸って黒ずんでいく。縹色の髪も黒味を増して紺青へと変わっていく。耳の裏や首を不意に撫でるように滑る冷たい水に身震いする。ルルーシュの朱唇が思い出された。熱っぽく触れてくるその感触は明瞭だ。卜部は黙って水流を止めると髪や体を拭いもせず新しい服に着替えて部屋を出た。
卜部の訪いをゼロはあっさり受け入れた。施錠は難なく解かれて扉が開く。体を滑り込ませれば扉は自動的に施錠される。部屋の奥へ進むと目鼻の全くない仮面をかぶったゼロがいた。
「…ゼロ」
ゼロは顔を向ける。もっとも目鼻のない以上彼の向いている方向など判りはしない。卜部は覚束ない足取りのままゼロの方へ行った。ゼロははねつけない。手を差し伸べることもない。
「あんたァ何で俺を抱く…?」
卜部は長身でこそあるが痩躯であり、軍属内でも明確な高位にいたわけでもない。戦略を組み立てる位置に上れるほど頭はよくない。だが肉弾戦に強いかというとそうでもない。ただ戦闘機の扱いを要領よく済ませているだけだと卜部は自認している。藤堂の直轄である四聖剣という別称を冠する位置にこれたのもそのおかげだろう。そもそも卜部は諍いが苦手だ。長引く性質のものはもっと苦手だ。自分が頭を下げて収まるなら喜んでそうする。
卜部の指先が仮面に触れる。硬質で冷たいそれはルルーシュの拒絶を示しているかのようだ。
「…取れよ」
卜部は繰り返さない。ルルーシュはそっと仮面を取った。整った目鼻立ちが堪えるような緊張を帯びる。眇められた瞳はまだ大きくて零れ落ちそうだ。震える唇は噛みしめるように色を失くす。その唇へ卜部は唇を寄せた。触れてくるそれにルルーシュの緊張がほどかれていく。力の抜けた華奢な体躯を卜部は床の上に押し倒した。
「…うら、べ。お前はオレを、忌んでいると」
「あァそうだな俺はてめェより中佐の方が好きかもな。あの人は誠実だしな」
「ならば、なぜ来たッ! オレは、お前が来なければこれで終わるつもりだった! お前、はお前…」
ルルーシュの紫苑が潤む。眼のふちに水滴を湛えた瞳は息づくように揺らめいた。震える朱唇は熟しきった果実の重みを見せる。指先を離したら落ちてつぶれてしまいそうに紅く熟れた。
「確かに中佐ァ好きだが俺は別にあんたァ嫌っちゃいねェんだと思う」
ルルーシュの目が瞬く。
「中途半端で悪いたァ思うんだけどな…これが正直なところだ。俺は多分、あんたに何されても赦しちまう」
「…なんだよ、本当に半端じゃないか。だってオレの周りはオレに媚び諂うかとことん嫌うかのどっちか、で。お前みたいな、そんな…そんなの、どうしたらいいというんだ」
ぼろぼろと涙をこぼすルルーシュに卜部が笑う。
「別に白黒つけなくたっていいだろ。嫌いじゃねェのと好きじゃねェなァ違うんだよ」
「馬鹿が…はじめて、だよ。お前みたいな馬鹿なやつは…初めてだ。嫌いじゃないなら好きだと嘘をついても判らないのに。馬鹿だ、馬鹿…」
卜部がむぅと口元を引き結ぶ。ルルーシュはしゃくりあげるようにして乱暴に顔を拭った。溢れてくる涙が指先を濡らす。鼻をすする音が部屋に満ちた。
「ひとのことバカバカ言うな。確かにあんたァ頭ァいいがな」
「事実だ。お前は実にまずい手を打っているぞ! 持ちあげて知らぬふりを通せばいいのに馬鹿正直に…! これを馬鹿と言わずして何を馬鹿と」
「マジで切れるぞ」
こめかみを震わせて堪える卜部にルルーシュは濡れた眼差しを向けた。
「本当に初めてだ。お前みたいに正直なのは…だったら、オレにも好きになってもらえる余地があるということか? 嫌いではないのだと言ったよな?」
すがりつく仔犬のようなそれに卜部がたじろいだ。うぅとうめくのをルルーシュは罪なく見つめて待っている。
「しよう。お前が上がいいなら騎乗位だな」
「待て待て待て」
たじろいで退こうとする卜部をルルーシュが引きとめた。ルルーシュの指先はすでに卜部のベルトを緩めて下腹部を這っている。
「ちょっと待て、俺ァいいって言った覚えは」
「駄目なのか」
途端に萎れるルルーシュの様子に卜部が詰まる。儚いようなルルーシュの嘆きは諸悪の根源が己にあるような気を起こさせる。根拠のない罪悪感だがそれだけに始末に負えない。
「駄目じゃねぇから困るんだろ馬鹿野郎」
卜部は下肢の衣服を自ら脱いだ。ルルーシュの蠱惑的な笑みが卜部の茶水晶に映り込む。吸いついてくる朱唇を卜部は拒否しなかった。ルルーシュの細い指先が卜部の濡れ髪を梳いた。滑り落ちる雫の冷たさに卜部が身震いする。ルルーシュは笑んで卜部の耳の裏へ吸いついた。こぼれる雫を吸い取るようなその動きに卜部は何もできなかった。
泣き声はもう、聞こえない。
《了》