好きだ嫌いだ、なんて
好きじゃない、でも嫌いじゃない
正式な通達を何の感慨もなく卜部は受諾した。これで卜部の身柄は正式に藤堂直轄のものとなる。必要な部署へ書類を提出し、署名や判をもらう手続きを何度か繰り返した。それらを携えて卜部は指定された部屋へ顔を出した。先に来ていた面々が戸口の卜部を振り向く。その中心にいた藤堂がゆったり笑う。
「来てくれたか」
「通達があったんで。ヨロシクオネガイシマス」
藤堂に書類をつきつけて一礼すると部屋を出ようとする。飄々とした卜部の態度は時に軽薄であると受け取られがちだ。深部へ踏み込まないし立ち入らせない。
藤堂が卜部を引きとめる。そばの青年が顔をしかめた。まだ少年と言っても差し支えなさそうな年若さだ。確か朝比奈とかいう。鳴り物入りでこの世界へ飛び込んできたものだ。
「卜部、紹介するから」
藤堂が順繰りに手のひらを閃かせて名を告げていく。その仕草はどこか品の良さを感じさせて卜部は砂を噛んだような気持ちになった。
「彼女は千葉、彼は仙波、…彼は、朝比奈」
「ドーモ」
軽視していると明らかに判る態度で卜部が頭を下げた。年嵩の仙波は苦笑したがまだ若い千葉と朝比奈は不快感を隠そうともしない。
「藤堂さん、こいつ誰」
「朝比奈。こいつなどと呼んではいけない。彼は卜部。私の、部下だ」
煌めく眼鏡の奥の大きな瞳が卜部を睨めつける。卜部もその視線に臆することなく睨み返す。無言のにらみ合いを打ち切ったのは卜部の譲歩だった。早々に立ち去るために好ましくない態度を取ったが、卜部は元来諍いを嫌う性質だ。相手が折れなければ自分が折れることを厭わない。そんな場所に卜部の自尊心はない。藤堂の部下だというし、藤堂が目的だと平然とのたまう輩である朝比奈は、藤堂にことごとく絡んでくるだろうことが予想された。卜部がいずれ藤堂のもとを去るにしても所属しているうちは仲間と言う分類になる以上、厄介事は避けるにこしたことはない。卜部が疎ましいと思っているのは藤堂であって朝比奈はおまけだ。
「これからよろしく。じゃあ」
踵を返そうとする卜部を引きとめたのは藤堂だった。
「卜部、これから時間は。みんなで食事にでも行こうと」
「すんませんけど、そう言うのから俺を外してもらえますか。俺ァあんたと慣れ合う気はねェンだよ」
硬質な茶水晶に藤堂は戸惑ったように淡く笑んだ。朝比奈と千葉は明確に敵意をにじませる。仙波だけが見守る位置にいるがそれは彼の年の功と言うものだろう。
「作戦は受けるしこなす、言うことも聞く。だけどな、俺はあんたになんもかんも任せたりはしねェ。俺は俺で、やらせてもらう」
踵を返して部屋を出た卜部の背中で、朝比奈の甲高い声がけたたましく鳴り響いた。
食堂で顔を合わせる。藤堂はどうも卜部を探している様で早く着けば長居をするし卜部がすでにいればそばへ寄ってくる。卜部がどんなに冷たくあしらっても藤堂は次の機会には何でもない顔をしてくる。卜部は作戦上必要となれば話すし会話も成立する。だがそれ以外では藤堂の接触を徹底的に嫌った。
「巧雪」
「呼ぶな。あんたァ何なんだ」
正面に盆をおいてちょこんと座る藤堂は軍属には不似合いに品がいい。箸の扱いや食事の仕方も徹底していて無作法などもしない。無理やりに早食いをすることもなく、キチンと唇は閉じている。咀嚼も怠りなく、かえって献立が貧相な気さえする。藤堂にはそういう気高さのようなものが窺えた。卜部はむやみに食事を消費することに夢中になった。喋る機会を与えないために口の中へ食べ物を詰め込む。藤堂は何度か窺うように卜部を見たが、そのために話す機会を逃している様でもあった。
「…卜部」
藤堂の箸が止まる。こと、と椀をおいた。卜部はむぐむぐ口を動かしながら目線だけで藤堂を見た。
「私は君の負担なのだろうか。先日、君の…その、深い関係だというものから一方的に目障りだと。私の存在が負担なのだと。…もし、そうなら、私は」
ごくんと口の中のものを嚥下した卜部はあえて否定しなかった。その深い関係のものとやらが誰かは知らないが胸の裡に立ち入らせないのは藤堂に限ったことではない。
「…だったら」
藤堂の目がすがるように卜部を見た。
「だったらどうだっていうんだ。あんたになんか関係あんのか、それ」
藤堂が減っていない献立を載せた盆を手に席を立つ。食事を廃棄してどこかへ立ち去る藤堂の背中を見送りながら、藤堂の方が早く席を立つのはこれが初めてなのだと思い知った。
「卜部巧雪いる?!」
殴りこみのように声高く飛び込んできたのは朝比奈だ。同じ部屋に居合わせた全員がちらりと卜部の方を見る。その目線を追って朝比奈は卜部を見つけると足音荒く歩み寄った。卜部は黙って椅子に腰かけたまま朝比奈を見上げた。その目線を手元の冊子に戻す。朝比奈がそれをはたき落とした。
「…あんた」
卜部は何も言わずにそれを拾う。
「あんた、藤堂さんに何言ったのさ! 藤堂さん、は」
くっと口元を歪めて卜部が哂った。嘲りのそれに朝比奈が息を呑むように言葉を区切った。
「テメェみてェなのに心配されるなんざトウドウキョウシロウってなァ深窓の姫君か。くだらねぇ」
刹那、しなった朝比奈の手が卜部に平手打ちを食わせた。予告も前触れもないほどの発露の早いそれに卜部は対応しきれなかった。視界がくらくらする。腫れた頬がじんじんとしびれて痛い。
「藤堂さんの気持ちくらい考えたら? そんなことも出来ないほどの馬鹿じゃないだろ」
冷たく見下ろす暗緑色が静かな怒りを湛えていた。
「それとも、ほんとに判らない、ただのバカ」
「――テメェ俺が堪えてりゃあ好き勝手」
「言うさ。藤堂さんが言わないからオレが言ってやってるんだよ、ありがたく思えよ。あんたのその変なプライドみたいなものの所為で藤堂さんが傷つくなんて許せないんだよ、絶対に許せない。あんたの前歴も戦績も関係ない、あんな態度とるんなら最初から来なきゃあいいんだ。なにさのこのこ顔出しちゃって。馬鹿じゃないの。藤堂さんがかまってくれてるからって調子のっちゃってさぁ、あーァ、やだやだ」
そこで朝比奈の言葉が途切れた。卜部の拳が朝比奈の華奢な体をぶっ飛ばした。軍属の下積みが長かった卜部はそれなりに基礎が出来ている。朝比奈のような若輩一人、大した苦労はない。
「堪えてるって言ってあったからな。謝らねぇぞ」
落ちた眼鏡が冷たい音を響かせて転がる。朝比奈が口元を拭ったそこに深紅がにじむ。
「…ホント、嫌になる」
「藤堂ってなァテメェみてェな若造伝言板によこすのかよ。なめるな」
「なめてるのはどっちさ。オレだって藤堂さんが関係してるとこで舐められてたまるかッ!」
飛びかかった朝比奈の爪先が卜部の頬を引っ掻く。卜部も手加減なしに腕を振るい、朝比奈も食らいつく。周りの人間に引きはがされるまで二人の取っ組み合いは続いた。
「入りなさい」
藤堂の声が心なしか固い。卜部はいつもどおりに一礼して藤堂の部屋へ入った。藤堂は椅子から立ち上がった姿で卜部を迎えた。しゃんと背筋の伸びた立ち居振る舞いはどこか凛として美しい。藤堂の履歴として武道に身を置いていた時期があったのを思い出した。その時の産物かもしれないと思う。
「朝比奈と取っ組みあったそうだが」
「別に。よくある諍いでしょう。殴り合っちまえばそれでしまいだ。あんたに関係なんかねェ」
「朝比奈からも話を聞いた。…私が絡んでいると、彼は言っていた」
見据える藤堂の灰蒼は静謐に美しい。誰のものかも判らぬ体液にまみれた己はそれだけで退くべきであるような気さえする。
「関係ねぇ。…あんたは何にも知らねぇ顔してそこに収まってりゃあいいんだよ」
疎外されたことを殊更に感じたような傷ついた顔の藤堂に卜部がひるむ。
「卜部。私は、君にとって…迷惑なだけなのだろうか。私のいる価値などなく、ただ障害になるだけなのだろうか」
そうだ、と言ってしまえばすべては終わる。なのに卜部はそうだと言えずに目線を逸らした。
「…っとけよ」
「巧雪?」
「俺なんかほっとけって言ってんだ! あんたが気にかけるような人種じゃあねェンだよ! 俺は! 俺は誰にでも脚ィ開くし腰振るし相手にかまってなんかいられねェんだよ。乞われれば誰とだって同衾するし体ァ開くッ! あんたみてェなお綺麗なのがかまっていいやつじゃあ、ねェんだよ…」
卜部の手は口元を覆う。ほとばしる言葉の意味が追いつかない。卜部がそうと意識する前に言葉は吐かれた。
「…――あんたの綺麗さァ、いてェンだよ」
絆創膏や塗り薬まみれの顔を歪めて卜部が言った。涙があふれそうな状態は情けなく、うつむけた顔を起こせない。藤堂の思考のありようは卜部の劣等感を刺激した。誰にでも乞われるままに脚を開いて受け入れる状況がひどく惨めだった。見えなくてよかった醜い部分が露出した。藤堂の清廉さは時に周りを脅かす。
「…私は、お前が好きだ」
藤堂の言葉に卜部の目が見開かれていく。うつむけた顔を起こせない。
「好きなものを理解したいと、思う。お前の在り様を否定する気はない。だが一方で私はお前と体の交渉を持ちたいと思う。浅ましいと哂ってくれていい。私は、お前をそういうふうに見ている…穢れて、いる」
藤堂の何がそこまで自己評価を貶めるかを卜部は知らない。知ろうとも思わない。誰にでも秘された部分があるし、暴かれたくない部分はある。
「お前が好きだ。穢れた私で、いいなら、お前と交渉をもちたいと」
藤堂の灰蒼は濡れて揺らめく。藤堂の双眸に迷いはない。潤んだような灰蒼は蠱惑的だ。
「卜部。お前は、私を嫌いか?」
唇がわななく。それでも音を紡がない。吐き気がした。藤堂の好意にすがり隙間を縫うようなそれに卜部は嫌悪した、だが拒絶はしなかった。朝比奈のように明確に好意を示すこともためらい、千葉のように尊敬もせず、仙波のように従いもしない。見捨ててくれればどんなにか楽だろう。藤堂の方から要らぬと言ってくれればいつでも退ける。だが藤堂は、卜部が欲しいと、言った。
「…馬鹿だ。あんたァ馬鹿だろう。俺みてェなのは問答無用に犯せばいいんだ。それで事実は、出来るのに」
「お前の特別になりたかったと言ったら、お前は哂うか?」
いつの間にか近づいていた藤堂の唇がふわりと触れる。熱く融けるようなそれに卜部は身を任せた。
「ひどい傷だ。痛くないか」
「痛かったらやめてくれんのかよ」
藤堂がむぅと黙った。唇を尖らせたようなそれは子供じみて愛らしい。切れた卜部の傷ごと唇を舐る。
「巧雪」
「それ、ずりィなァ…俺があんたのこと鏡志朗って呼んだらどうする」
「抱くさ」
笑い合う唇が融けあった。卜部は抵抗することを放棄した。
《了》