気づいてしまったらもう
戻る道なんてなかった
気付かなかったことを免罪符にするの? 後編
食堂に顔を出した卜部の口元が引き結ばれる。藤堂は不慣れな風情で淡く笑むと卜部を呼んだ。卜部は割当分の食事を盆に載せて藤堂のもとへ行った。朝比奈が不満げに唸っているが藤堂の方は気にしたふうもない。卜部も知らぬ顔で席に着いた。藤堂は綺麗に箸を使う。廃れつつある作法だがさりげないそれらはけして不快に思わせない。きちんと止めるべきは止める作法は藤堂が非力ではないことを示す。体のつながりは思わぬ深部に及ぶことが多く、指先の動きの根源が胴体部の筋力の結果であったりする。そういった面からみても藤堂は綺麗に物を使う性質だ。朝比奈や卜部などは横着して刺し箸などしばしばする。朝比奈に至ってはそれが不作法であるとも知らなかったらしく、藤堂に諭されて初めて知ったと言っていた。藤堂はいつも通り咀嚼も怠りなく、ゆっくりと食事をする。
いつも通り、すぎるのだ。ゼロは卜部との関係に藤堂の侵入を赦した。卜部にとっては完全な異分子となった藤堂の動向が気にかかる。藤堂はゼロと卜部の爛れた関係を知った。実直な藤堂の性質を考えれば何もなく済むとは思っていない。事によっては露見することも考えていたのだが藤堂は何もしなかった。いつもと同じように卜部におはようと挨拶してお休みと別れる。一度や二度なら気付かなかったことに卜部は気づいた。いつも通り、すぎるのだ。判で押したように藤堂は『いつも通り』と定義される行動をとっているだけだ。一定の時刻になれば自室から出てきて食事を摂り、仕事をこなして夜半には自室へ引っ込む。その繰り返しだ。乞われれば食事もともに摂るし会話も成り立つ。だがこの定義された普段通りを藤堂がこなしている違和感が卜部の背筋をざわつかせた。嫌な予感がする。
予感とは経験からくる推察結果でありすなわち、過去にそういうことを経験しているということになる。だが卜部の思考はこの嫌な予感がする、でいつも停止した。藤堂のどこが違うというわけでもない。だが違和感を感じるということは卜部は藤堂のこうした行動を以前に見ているということになる。そして卜部の思考は堂々巡りを繰り返す。思春期でもあるまいに何をこうも思い悩むのかすら卜部の思考は靄をかけてぼかしてしまう。見たくない知りたくない気付きたくない。それこそ思春期のガキだ、と毒づいても結局のところ打開策も改善策もないのだ。
「卜部、食欲がないのか」
問われて卜部は初めて意識の外に置いていた献立を見た。朝比奈の暗緑色は意味ありげな煌めきで卜部の困惑を映した。卜部は箸を放り出すと肩をすくめた。
「そうっすね、あんま食べたいって気ィしねェんで」
「お前は痩せている性質だがら無理にでも食べないと体力がつかないだろう。食べられるだけでいいから食べたほうがいい」
口を出す藤堂の皿はあらかた空になっていて、卜部はハァと首をすくめた。藤堂は役職の上下関係の責任を公私切り分けずに考えるきらいがある。そんなところまで責任を負う必要はないと思うところまで気に病んでいたりする。これは親切なようでいて時にひどく厄介でもある。
藤堂はきびきびと食事を片づけると盆を片づける。卜部たちに一言言ってから食堂を出ていくあたり上官とは思えない。卜部は軍属内でもっと偉そうにふんぞり返る上官を知っている。
「ねぇ」
朝比奈の声になぜかとげがある。卜部は知らぬふりで先を促した。朝比奈の箸がブスッと惣菜に突き刺さった。
「藤堂さんさ、疲れてると思わない?」
「疲れてる?」
卜部は藤堂の消えた出入り口を見た。むろん、藤堂は影も形もない。卜部のそんな仕草に呆れたような表情を向けてから朝比奈は箸をむやみにもてあそんだ。
「なんか、疲れてるみたいでさ。ちょっと気にかかること、あるんだよね。たださぁ」
朝比奈の目が卜部を睨む。朝比奈に睨まれるいわれのない卜部はむっと唇を引き結んだ。朝比奈はすぐ何でもないように目線を逸らす。
「なんか、消耗してるっていうか。あーぁあ」
朝比奈は食事を中断すると盆を抱えた。藤堂の後を追うつもりなのだろうと見当をつけた卜部は殊更に止めもしない。朝比奈が藤堂に張り付いているのも『いつも通り』だ。
卜部がゆらゆらと明かりを映す鏡のような面を見た。残された味噌汁が分離していく。ゼロのことを思い出す。ゼロは下調べも完璧に卜部に反論の余地なく追い込んだ。
「上官を守る気はあるか?」
ゼロは確かにそう問うた。藤堂を出汁にしたのだ。だがその関係を続けることは卜部の判断であった。だから藤堂が殊更に責任を感じる必要はないのだ。だがそれを藤堂に直接言うことなどできない。藤堂はゼロと卜部の関係を隠している。それを知っているのだと卜部自身に言ったこともない。卜部が藤堂に気にするなと進言するのは様々に秘匿されたそれを暴くに等しい。詰まるところ卜部はなにも出来ないのだ。無力。
卜部は結局ほとんど手をつけていない食事を廃棄した。腹部は妙に重くものを嚥下するのにすら苦労した。その状態で一人前の食事を片づけるのは少々無理だった。あてどなく通路を歩く。ゼロの目が届かない場所にいれば呼び出しから逃れられるという甘さの名残でもある。実際のところ、ゼロは卜部の状態など考えることなく自身の都合だけで卜部を呼び出しては抱いた。卜部は辺りが静かなことに気付いてようやく自身の位置を考えた。ゴォゴォと腹に響く音が間近に聞こえる。機械室の近くなのかもしれない。その時卜部の前に藤堂が現れた。卜部はへらりと笑って片手をあげて挨拶する。藤堂もゆったりと微笑する。
「中佐、珍しいとこで――」
藤堂の体がたたらを踏んだかと思うとぐらりと傾いだ。卜部は声を発するより早く駆け寄った。倒れる藤堂の体を抱きとめるように体を滑り込ませて、床との接触による衝撃を和らげる。それでも強く打ちつけた個所が痛んだ。
「中佐、中佐?」
藤堂の拍動が妙に間延びしている。指先がひどく冷たい。四肢は自重でわずかに曲がっているが直す力もないらしく、藤堂はゆっくりと長い息を吐く。首筋や額がじっとりと湿る。体温が妙に低い。喘ぐように胸部が上下を繰り返す。
「藤堂さん? 藤堂さぁん! どこですかー?!」
後を追ってきたらしい朝比奈の声に卜部が声を張り上げた。卜部の声に気付いたらしい朝比奈が駆けてくる。倒れこんでいる藤堂を見て朝比奈がサッと顔色を変えた。
「藤堂さんッ! ちょっと、なんで、どうして! 鏡志朗さぁんッ!」
「馬鹿野郎、治療できるやつ呼んで来いッ! 中佐の部屋ァ近いのか?」
「すぐそこだよ」
朝比奈は卜部の見失っていた位置情報まで与えてから駆けだしていった。卜部は何とか藤堂の体を抱えると部屋まで引きずって行った。藤堂は入浴中など居るのに対応できない時に訪うものを不憫がってある程度の親しいものには部屋の解除キィを教えてある。卜部はそれを打ち込んで扉を開くと寝台の上に藤堂の体を寝かせた。
襟を開いて脈や拍動を確かめる。遅いし弱いが止まることはない。間延びしているが生きていくだけの強さがあった。倒れた当初より顔色が戻りつつある。貧血かもしれないと考えながら卜部は鼻を鳴らした。独特の気配がある。卜部が顔をしかめて確かめに行こうとした時、扉が開かれて医療スタッフを引きずった朝比奈が飛び込んできた。
「藤堂さん! 藤堂さぁんッ!」
朝比奈は傍目にも判るほどにうろたえて平静ではない。しがみつこうとするのを卜部が押さえて、その間に医療スタッフが診察した。朝比奈共々邪魔だと部屋から追い出された。朝比奈が膝を抱えて丸まる。卜部の根底を嫌な焔がちりちり灼いた。知っている。朝比奈がこんな状況になっていたことを。
卜部は唐突に思い出した。
――枢木、ゲンブだ
四聖剣の面々には藤堂一人に負荷を負わせた苦い過去がある。枢木ゲンブの無茶な要望にすら藤堂は真摯に応えた。その結果として藤堂が倒れた。その時も朝比奈はこんなふうに膝を抱えて丸まっていた。同時にパズルが嵌まるように卜部の考えが嵌まっていく。藤堂の『いつも通り』は枢木ゲンブに抱かれた後に顕著だった。藤堂は過度のストレスを処理しきれなくなると日常生活ですら基本となる型を求めるほどに毀れるのだ。
「…クソッたれ」
毒づいたところで医療スタッフが扉を開けた。はじかれるようにして朝比奈が部屋に飛び込んでいく。
「点滴を取ってきます」
「点滴?」
怪訝な声を出しながら卜部は便所の扉を開けた。途端に違和感が確かな形を取る。それに裏打ちするようにスタッフが卜部に告げた。
「食事を吐いていた可能性があります。とりあえず点滴で栄養を」
「…判った」
卜部が力任せに扉を閉めたくなるのを何とかこらえた。寝台にすがりつく朝比奈の背が細い。
「なんで気付かないのさ」
朝比奈の言葉は完全に暴論だ。そもそも藤堂が隠していた以上、それを表層に見せなかったことを責めるいわれはない。
「うるせェ、テメェだって同じじゃねぇか」
「オレは知ってたよ。藤堂さんが消耗してるって言ったじゃない。でも藤堂さんが、言ったんだよ」
朝比奈の目が奇妙な鋭さで卜部を貫いた。涙でぬれた目がまだ彼の年若さを示す。後先考えない無茶な性質がよく見える。
「卜部には言うな、私の様子がおかしいことは言うな、って。藤堂さんが――…そう、言ったんだ」
卜部が踵を返す。つんざく呼び出し音が鳴って卜部に通信の受諾を教えた。卜部が機器を取り出せばゼロからの呼び出しだ。受諾して通信を開始する。
「…なんだよ」
『御挨拶だな。せっかくお前を抱いてやろうと』
「中佐ァ倒れた。だからテメェのところに行く時間は」
『だから?』
変わらぬ声で問い返すゼロに卜部は震えた。
「だから? テメェよくそんな」
『医療スタッフは呼んだのだろう? 動きがあったことは聞いているよ。専門家を呼んだ以上、門外漢であるお前がいる意味はない。違うか?』
冷徹なほどに静かなゼロの機械音声が卜部の中で何度もこだました。
『その無駄に感情的な時間をもっと有効に使えと言っているんだよ。その導を私は出しているんだよ。違うか? 卜部、よく考えろよ…――私の言うことは違うか?』
卜部は慄然とした。目の前で倒れた藤堂を前にしてその場を後にしろとゼロは言っている。
「――ば、かやろう…!」
『どうせ朝比奈もいるんだろう、お前がそこにいる意味はない』
卜部は唇を舐めると何もかもを嚥下した。
「――判った…行く」
そっと部屋を出ようとする背中に冷たい声が突き刺さった。
「どこ行くの。…――ゼロの、所」
「…そうだよ。中佐ァ倒れたこと言っとかねぇとまずいだろうがよ」
卜部は顔を向けなかった。朝比奈がヒステリックに笑った。
「ばっかじゃないの? あんたの目の前で倒れた人放っておくの?! 藤堂さんがどう思っても言っても関係ない、オレならそばにいる! あんた、そう言う情はないわけ? 藤堂さんがッ」
「――うるせェ黙れッ!」
がぁんっと卜部の拳が扉を殴りつけた。殷々と余韻が沁みとおる。朝比奈にも卜部にも言うべき言葉はなかった。卜部は黙ったまま、その場を後にした。
「待っていたよ」
王侯貴族の気高さでゼロは卜部を迎え入れた。卜部は口元を引き結んだままだ。唇は一文字に結ばれて、この訪いがけして友好的ではないのだと言っていた。ゼロはクックッと肩を揺らして笑う。子供じみた我儘を通すかと思えば老獪な仕草をする。ゼロの年齢は計り知れない。
「不満そうだな。顔がそう言っているよ」
「テメェ、中佐ァ倒れたの知ってて俺を呼んだな」
「そうだな、お前はどう思う? 藤堂が、私にお前から手を引けと言ってきた」
卜部は不機嫌に結んだ唇のままふんと言った。
「それで? 非常事態に無理矢理呼び出して別れ話か」
「馬鹿を言うなよ。私がお前から手を引くと思うのか」
目鼻のない仮面はそれだけでざわざわと深層意識を揺らした。相手の感情が完全に読み取れないとなると自意識は不安に揺らめいた。
「来い、卜部」
ゼロの手が導くままに卜部の体が寝台に横になる。襟が開かれて首筋や胸部をさらさらと指先が這う。喉仏をたどり鎖骨を撫でて下腹部へ降りていく。身震いする卜部にゼロが哂った。その時遠かったざわめきが明らかに近づいた。制止する甲高い声が朝比奈の声色とよく似た。バタンと慌ただしく扉が開かれて人影が飛び込んだ。彼は後に続こうとするものをさえぎるように扉を閉めた。
「――藤堂か」
卜部の目が見開かれていく。藤堂は緩められた襟のまま、身なりも直さずそこにいた。袖もまくられた腕、肘の内側からわずかに出血している。点滴を振り払ってきたのかもしれない。
「ちゅ、うさ…」
卜部は寝台から跳び起きて藤堂のもとへ行った。
「あんた、点滴は?! 倒れてたんだ、無理は」
「卜部ッ!」
藤堂の指先が卜部の腕を掴んだ。刹那、機械音声の哄笑が響き渡った。
「ははははは、はあははは、とんだ、とんだ上官じゃないか! ずいぶんとまぁ情に篤いな、藤堂!」
卜部の意識が冷えていく。ゼロの存在、が。藤堂の指先が震えた。
「うら、べ。卜部ッ私は、私は」
藤堂が喘ぐように言葉を紡ごうとする。あぁその先は。頼むから、その先は。藤堂の声は確信に満ちていた。
「卜部、私はお前を」
卜部は藤堂の肩を掴んで引き離した。藤堂の膝がかくんと折れてその場に座り込む。
「…あんたが、言ったんだ」
「こうせ、つ」
「あんたァ、俺を部下だと言った」
藤堂の灰蒼が絶望に満ちていく。卜部はただ無為に繰り返した。震える指先が藤堂の肩を抉る。引き離そうと腕を突っ張らせながら指先が離れたくないと言わんばかりにきつく爪を立てた。
「あんたは俺を部下だと言った。それが、全部だ」
藤堂の唇がわななく。凛とした眉が頼りなさげに寄せられる。潤んだ灰蒼が痛々しい。
「…だから。あんたは俺の上官だ、上司だ。だから、命令、を」
藤堂の喉から震える声が絞り出された。
「私を、嫌わないでくれ」
卜部の目が眇められた。バタバタと飛び込んできた朝比奈の腕に託すように卜部は手のひらを引き剥がした。
「…あんた、何して」
乱れた卜部の恰好に朝比奈が眉をつり上げる。ゼロは事を静観する構えだ。その指先や仕草が愉しいと言っている。卜部は黙って藤堂を引き取るよう言った。
「中佐ァ連れて行けって。休ませた方がいいんだよ」
俯いたままの卜部を藤堂は言及せず、朝比奈もその意向をくんで問い詰めはしなかった。
ゼロはクックッと肩を揺らした。機械仕掛けのようなそれに初めて嫌悪がわいた。
「とんだ茶番だ。いや、面白いがな。お前はそれでいいのか? 朝比奈に取って代わられそうだが、いいのか?」
卜部の目線が藤堂の出て行った扉を見る。茶水晶が濡れたように煌めいた。
「…いいんだよ」
卜部が上着を脱ぎ捨てた。
「ヤるんだろ? テメェはそう言うやつだ」
「ほう、よく判っているじゃないか。だったら早く脚を開くんだな」
卜部は振り切るように顔を背けた。藤堂の声だけで生きていける、気がした。
最適ではない
最善でもない
限界だった
《了》