爪が、裂いていく
傷が広がっていく
気付かなかったことを免罪符にするの? 中編
ふむ、と心中で呟きながらゼロは食堂の様子を眺めた。藤堂の周りには四聖剣の面々が陣取っているのも朝比奈がわめいているのもいつものことだ。卜部との関係を藤堂に思い知らせてから少し経つが彼らに表立った動きはない。藤堂が騒ぎ立てた様子もなく、彼ら同士気心の知れた関係を続けている。驚くべきは卜部から関係の清算を申し立てられなかったことだ。あの後も卜部の通信機器に直接連絡を入れて何度か関係をもっている。藤堂はこれまで通りの表情を見せている。彼がこれらをどう思っているかは、少なくとも表層に出てきてはいない。
「素晴らしい順応能力だ」
日本人の潔癖さはスザクの例で知っているつもりだったが見方が甘かったようだと苦笑する。藤堂と卜部は事を表沙汰にする気はほぼないとみていいだろう。騒ぎ立てるならその鮮度が命になる。時が経つほど相手に対処時間を与えることになり、利がない。
「…案外、つまらんな」
ゼロはふんと息をついて肩を落とした。のっぺりした仮面の先では朝比奈が元気よく騒ぎ千葉が制裁を加えている。藤堂はきょとんと朝比奈を見て卜部と仙波は静観の構え。いつも通りの風景だ。
ゼロは通信機器を取り出すと短い手順で文面を送信した。あらかじめ機器に登録されている文章を選ぶだけの短い作業だ。卜部が通信機器の変化に気付いた。さりげなく画面を見る表情が凍りつく。だがそれは一瞬で、卜部はすぐに通信機器を隠しへしまう。猫が毛を逆立てるのに似た静かな変化。藤堂の灰蒼は卜部を常に視界に入れている。ゼロが気づいた変化に気付かないわけはない。卜部が席を立つのを藤堂の灰蒼が追っている。ゼロは仮面の奥でほくそ笑むと自室へ戻った。
卜部は藤堂と似ていると思う。己に対する評価をそう高く見積もっていない面や自分が我慢すればいいところはこらえてしまうとか、そういった根底の性質が似ているのだと思う。その反面で藤堂は己の持つ求心力を知っていてきちんと表立つ部分はこなしている。卜部は自分を十人並みだとみている。二人とも己の領分をわきまえている。これが武道に身を置いた者の成果なら武道も捨てたものではない。わきまえると言うのは成功した時のさりげなさと反比例する気苦労が要る。負担と成果を考え併せるならその比率は負担の方が大きいだろう、そのうえ成功したとして誰が褒めてくれるわけでもない。そう言うところに心血注ぐのはさすが日本人か。
「いじらしいじゃないか」
クックッと華奢な肩を震わせてゼロが哂う。素顔や素性といったものを隠すためにゼロは通りすがりの迷いこまない位置に部屋をもらった。扉ももちろん施錠可能なタイプだ。その扉の前で長身の卜部が呆けていた。
「おや、早いな」
「テメェで呼びつけて不在ってなァどういう理屈だ」
「お前はもう少しかかると思ったんだよ」
言いながら施錠を解いて扉を開く。恭しく上がるように促すと卜部は眉を寄せながらもそれに従った。後ろ手に扉を閉めて施錠も確認する。ゼロは仮面を外さない。必要があるときは卜部を拘束したうえで視界をふさぐ。目隠しというのは素材にこだわらなければ案外見つけられるものだ。
卜部はまっすぐ寝台へ向かうと腰を下ろした。スプリングがギシリと鳴った。襟を緩める指先は痩躯に見合うように細い。華奢という分類に入らないのは彼が軍属であるからかもしれない。手折れそうな弱さは感じられない。
「…なンだ、気味がワリィな。交渉が目的じゃねぇってことか」
「卜部、その後藤堂はどうだ?」
卜部は刹那、表情が消えたがすぐに倦んだような笑みを返した。
「あんたでも気にすることがあンだな。気になるか?」
小さな茶水晶は試すようにゼロを見る。煌めくそれは琥珀の艶を帯びた。
「後始末出来ねェなら手ェ出すんじゃねぇ」
つり上がる口の端にゼロの感情が爆発した。しならせて振りあげた腕を思い切り下ろす。高価な布地に包まれた華奢な手が卜部の頬を思い切り打ち据えた。暴発的なそれに手加減はなかったが卜部はこたえるふうでもなく唇を舐めた。切れた唇の端が紅い。
「立場をわきまえるんだな」
言い捨てるゼロにも卜部は憤るでもなく肩をすくめた。
ゼロが乱暴に衣服を剥ごうとするのにも抵抗しない。ゼロは痩躯を寝台の上に押し倒した。卜部の体は傷もなく綺麗だ。藤堂の体には歴戦の証が刻まれているのだと泣きだしそうに誇る朝比奈の言葉が思い出された。
「…なんだ、拘束しねェのかよ気持ちワリィな」
いつも卜部の自由を奪ったうえでの交渉であったことを嘲るような言葉にゼロはふんと哂う。
「そうだな、お前が蹴りも殴りも突き飛ばしも、抵抗しないというなら目隠しだけで抱いてやろうか」
「くっだらねぇ、やろうたァ思ってねェくせにほざくんじゃねェ」
ゼロは肩を揺らして声をあげて笑った。
「まったくお前はキスしたいくらいかわいいな」
「気色ワリィこと言うんじゃねェ」
卜部の喉首を撫でて鎖骨のくぼみを押すと卜部がぐぅと唸った。反射的に胸部が膨らんで酸素を得ようとする。
「それで? 藤堂はどうだ、卜部」
卜部は答えない。指先をさらに押し続けると喉がぐるぐる鳴った。猫のようだと思いながら力加減を調節する。喘ぎ喘ぎ卜部が言った。
「いつもと同じだよ」
ゼロはいつもと同じように卜部を拘束するとその痩躯を、抱いた。
藤堂は茫洋と献立を眺めていた。すっかり冷めた献立だが藤堂は気づくこともなく時折箸で惣菜を移動させるだけだ。箸でつまんでは口に運びそのまま箸を咥えて呆けている。朝比奈が注意して箸を口から外すものの迷い箸をするあたり通常の藤堂にはあり得ない事態が続いている。
「藤堂さん、どうしたんですか? なんだかぼんやりしているっていうか」
「なんでもないが」
「嘘だぁ、絶対何でもないわけないでしょ。さっきからぼけっとしてるし。千葉さんがいなくなったのいつですか?」
問われてはじめて藤堂は四聖剣の紅一点、千葉がいないことに気付いた。仙波もいない。慌てて辺りを見回す藤堂に朝比奈が深いため息をついた。
「二人とも、それぞれ呼び出されて行っちゃいましたよ」
朝比奈はあえてその中に卜部を含めなかった。藤堂がおずおずと問うた。
「卜部、は」
「あの人いつも通り飄々としてどっか行っちゃいました。個人的な呼びだしなんじゃないですか? それかサボり。いつ消えたかオレだって判らないし」
朝比奈は不満げに惣菜を突き刺していたが不意にそれを口の中へかき込んだ。がつがつと食事する朝比奈を見て藤堂は肩を落とす。藤堂は結局箸が進まず食事を中途で廃棄した。給仕当番のものに詫びてから藤堂は食堂を後にした。朝比奈も気配を悟ってかついてこない。朝比奈は事、藤堂に関する限りでは鋭敏だ。
藤堂はあてどなく通路を彷徨った。卜部だって立派な成人男性である。行動には彼なりの理由と責任があるはずなのに藤堂は卜部の動向が殊更に気になった。藤堂は卜部の自室を訪った。留守ならそれで構わないと思ったが、来訪を告げても返答がない。そのうえ扉は施錠もされていない。藤堂はそっと扉を開けて部屋に入り込んだ。明かりのスイッチを入れると闇は刹那に払拭される。ぐったりと疲れて眠りこんでいる卜部がいた。なんとか寝台にはたどりついたのだという風情で着のみ着のまま痩躯を横たえている。規則正しく上下する胸部と肩に異変は感じられず、藤堂は安堵した。
「巧雪」
そっと膝をついて隅に丸められている毛布をかけてやろうとした手が、止まった。卜部の頬が殴られたように腫れを帯びている。そして留め具の外された襟から見えるそれは。首筋や鎖骨に紅い鬱血点が散っている。その範囲は広く及ぶだろうことを窺わせた。藤堂はそっと卜部の襟を開いた。胸部にまで広がるそれは下腹部にも散っているだろうことが判る。そしてそれが何の証拠であるかを藤堂は知っている。藤堂は震える手で卜部の襟を直して毛布をかけてやるとはじかれたように部屋を飛び出した。
怒りに燃える灰蒼のまま、藤堂はゼロの自室へたどりついた。誰何すれば支障なく扉が開く。飛び込んだ藤堂を待っていたかのようにゼロは椅子に座り、鷹揚に迎え入れた。
「何だ、遅かったな。用件を聞こうか?」
藤堂は扉の閉まりを確かめてから口を開いた。
「卜部と切れてくれ」
ゼロは答えない。藤堂がさらに言い募ろうとした刹那、その肩を震わせて喉を鳴らした。その震えが次第に哄笑へと変わっていく。ゼロはしまいには腹を抱えんばかりに大笑した。藤堂は苦々しげにそれを、見た。
「ははははは、ぁは、ははは! そうか、そうか、…っふ、ふふふ」
ゼロはおかしくてたまらないと言わんばかりにその矮躯をよじる。藤堂はただ不愉快そうに眉根を寄せて口元を引き結んだ。ゼロは妖艶な仕草で指先を閃かせる。表情が見えないのにその仕草が雄弁だ。
「お前はそうやって腹心の努力を無駄にするわけだ?」
藤堂の灰蒼が見開かれていく。提示された条件の真意が見抜けない藤堂ではない。それは、つまり。
「まさ、か…君は…――卜部、に」
藤堂の指先が震える。藤堂ががっくりと膝をついた。脚が震えださないのが不思議なほどだった。その場にへたり込む藤堂にゼロの仮面は変化すら悟らせないまま言葉を投げつける。
「お前が私に抱かれるとでもいうのか? そうして卜部のこらえてきた月日を無に帰すわけだ、ふふ、とんだ上官じゃないか? いや、そこまで身勝手に投じられるならそれはそれで尊敬しよう、私には出来んよ」
ゼロの言葉は藤堂の上っ面を滑る。
「部下の努力を水泡に帰すことも厭わぬというなら、それはそれで素晴らしいではないか、そこまで厚顔になれるのも一種の才能だよ」
「一つ、訊きたい。何故卜部を殴った」
「しつけは飼い主の役割であり義務だ」
藤堂の手が伸びてゼロの胸倉をつかみ上げた。ぶるぶる震える手にすらゼロは嘲笑を向ける。
「判っていないのか? あれはもう、私のものでもあるんだよ。お前だけのものだと思うな」
ゼロは胸倉を掴まれたまま携帯用の通信機器を取り出す。短いコードで通信を開始した微音が藤堂にも聞こえた。しばらくの呼び出し音ののちに相手が通話を受諾した。
『…なんだよ』
響いた卜部の声に藤堂の背筋が震えた。ゼロは感知せぬと言ったふうに堂々と通話を続ける。
「もう一度貴様を抱きたくなったんだよ、だから今から、私の部屋に来い」
『とんだ色ぼけじゃねぇかよ。英雄色を好むにもほどがあンだろ』
「否か応かを問うているんだよ、さっさと答えろ」
『…――判った。今、からいく、から』
ゼロは短い通信を終えると機器を隠しにしまいながら傲然と言い放つ。
「そう言うわけだよ、藤堂。今から卜部が来るぞ。言い訳があるならともかく、何もないならとっとと立ち去れ」
「――君は! 何を、何をしているか判って…!」
「判っているよ、卜部を抱くのさ。お前になにか不都合でもあるか、ん?」
ゼロの問いは明らかな悪意に満ちていた。卜部を呼びつける必要性も感じられない。藤堂へのあてつけに他ならないのだと悟らせた。
ゼロは藤堂の腕を引っ張って部屋の外へ突き飛ばした。藤堂の体がされるままによろける。
「呑気すぎたな、お前は」
嘲るゼロの言葉に藤堂は言い返すこともできなかった。閉じられる扉の前で茫然とする藤堂を響いた声が慄然とさせた。
「…中佐?」
「――うら、べ」
藤堂は体の震えを必死に殺した。ゼロを訪う目的を悟られることはすなわち卜部のこらえを無に帰すことに直結した。藤堂はなんの音も発しない唇をわななかせた。卜部は黙って歩み寄ると藤堂の鳶色の髪を梳いた。ポンと優しく頭を撫でる。
「…俺なら何でもねェですから。――休んでください、あんたァ何も知らねェ方が、いい。大丈夫、ですから」
卜部は難なく扉を開けると部屋の中へ体を滑り込ませた。ばたん、と閉じられた扉がガチャンと施錠される。その音が妙に強く藤堂の耳朶を打った。
藤堂の脚が床を蹴る。解き放たれた勢いのまま無為に床を蹴って自室へたどりつくと浴室へ直行した。水流を全開にして冷水を頭から浴びる。着ていた服がみるみる水を吸って重い色へ変わるのも厭わず藤堂は冷水を浴びた。冷たいはずの水の温度すら感じない。
「く、ぅ…――ぁッ、は、…ぁ――…ッ」
押し殺した嗚咽がこみ上げる。ズルズルとへたり込む衣服が濡れていく。爪先が床に立てられてぎちりと不穏な音を立てた。
大丈夫、ですから
「こうせつ…――…ッ」
卜部の声は何でもないように平静を保っていた。何の揺れもないそれを。卜部が寝台に沈むほどの疲労を強いていたのは何より己の存在であった。藤堂は唇を噛んで声を殺した。卜部の声が何度も、何度もこだました。
《続く》