あぁ守りたかったものが
毀れて、いく
気付かなかったことを免罪符にするの? 前編
考え事で飽和した頭は眠りすら呼ばない。最近寝不足であるのは指摘されるまでもなく気付いている。時折限界を迎えた体が意識を失くすように唐突に眠ってしまう。会議中に眠ることはさすがにないがそれもいつまでもつか判らない。藤堂は何度目か数えるのも億劫な溜息をついた。手元に目をやれば文庫本は逆様におさまっていた。しかもいくらか読み進んだ形跡がある。藤堂は少し前のページを繰ってみるが記憶にない。注意力散漫にもほどがある。諦めて文庫本を閉じた。重心を預けた椅子の背が軋む。原因は判っているのだ。ただこうしたことは行動を起こしにくいうえに行動を起こさなければ事態は前進しない。藤堂は目蓋を閉じた。消耗した体に暗闇は有り難い。そのまま寝台に横になれば眠れそうだが習慣的に時計を見てしまってからは妙に目が冴える。
藤堂は無礼を承知で携帯通信機器で連絡を取った。馬鹿者と一蹴されることを願いながら連絡を取った藤堂に相手は鷹揚に対応した。今から部屋に来ればいいとまで言う。もともと大声で話せる内容ではないことを話そうとしていた藤堂はその申し出に乗った。若干の不安を帯びた藤堂の手は通信機器を隠しへしまう。緊急出撃命令のかかる可能性もあった場所にいた頃の癖が抜けない。気付いた藤堂は逡巡の末そのままにして部屋を出た。
「ゼロ、藤堂だが」
ゼロの秘密性は徹底していて仲間うちに入るだろう黒の騎士団幹部にも素顔を明かさないという。その所為か彼にあてがわれた部屋は人通りの少ない位置に在る。その秘密性が藤堂には有り難かった。密談というには仰々しいがその手の相談であることに変わりはない。仮面をかぶりいつもの着飾った身なりのゼロが扉を開けた。寝乱れた寝台に藤堂の眉根が寄る。ゼロはその声色すら悟らせない機械音声で藤堂を歓迎し、訪問の真意を言い当てた。
「卜部のことだろう」
藤堂の肩がびくりと跳ねる。藤堂の喉が鳴る。それでも恐れを振り切るように藤堂はゼロを見据えた。
しばらく前に藤堂は予定外の時間にこのゼロの部屋を訪った。その時ゼロは卜部と交渉を持っていた。卜部は藤堂の直属と言っていい位置にいた。四聖剣と別称を冠する彼らとの間には一種信頼関係を築いていて隠しごとなど考えられなかった。ゼロは仮面を外さず衣服もさほど乱さず卜部を喘がせていた。その情景を刹那で振り払った藤堂はその場を後にした。だが写真のように灼きついた場面は消えることなく目蓋の裏でちかちか燃えた。その関係が一度きりなのか慢性的なものなのか、藤堂は卜部にもゼロにも問えなかった。藤堂自身も男に体を拓かれた過去がありそれに対する四聖剣の口出しは受け付けなかった。その負い目が藤堂の口を重くさせた。
躊躇する藤堂を揶揄するようにゼロはその指先を優美に閃かせた。
「どうした藤堂。卜部の何を訊きたいんだ? もっとも、卜部のことならお前の方が詳しいだろう」
ゼロはあくまでも当り障りのないことを言う。彼の行動は緻密な計算と予測に基づき、確かな自信がそれを裏打ちした。藤堂のためらいなど予想可能範囲内だ。
「…そ、の…――君は、卜部を」
ふむ、とゼロは顎のあたりを撫でる仕草をした後に間をおいた。嘲るような吐息の気配に藤堂の眉がきりきり上がる。藤堂の苛立ちすら判っていてやっている。相手に与えるものを予見していながらあえて行っている。
「脚を開いているところでも見たか?」
「なッ」
藤堂が言葉に詰まる。実直な性質の藤堂は揶揄であっても閨のことを持ちだされるのは苦手だ。ゼロの仮面が部屋の照明を反射しててらてら光る。
藤堂の脳裏を何度もよぎった光景が浮かぶ。卜部は両手を拘束された上に目隠しまでされていた。ゼロの秘密主義の徹底は確かなものだった。閨の相手にすら正体を明かさない。息を呑んで立ち去れない藤堂の耳朶を卜部の嬌声が打つ。痩せた背がしない、細い腰が震えていた。長身の卜部は手脚も長く見栄えがした。その爪先が敷布を乱して畝を作る。何でも知っていると驕っていたわけではないが裏切られたような理不尽がこみ上げた。藤堂が知らぬ卜部の顔を見せつけられたようで藤堂はひそかに打ちひしがれた。死線をくぐりぬけた者同士、関係に緩みがなかったとはいえない。それでも藤堂は卜部に対して無意識的にですらすべてをさらすことを要求していたのを思い知った。浅ましい。藤堂は自身の甘えに吐き気がした。青臭い連帯感を、卜部を抱くゼロが徹底的に破壊した。同時にその関係は藤堂に枢木ゲンブのことを思い出させた。
濡れた音すら聞こえてきそうなその交わりに藤堂は立ち去ることしかできなかった。刹那、仮面は確かに藤堂を見た。
「――き、みは、知って! 私、が見ていた、のを」
ゼロはその矮躯をよじって大笑した。藤堂の指先が震える。堪えるように握りしめた爪先が皮膚を裂いた。
「あれは、ふふ、卜部は本当にいいぞ。名器と言っていい。あいつの後ろはいい締まりをしているし、何より突っ込んだ時のあの目がな、たまらんよ。泣きそうで泣かないんだあれは。そう言うところはお前と似ていそうだが? しかも次の日には何でもない顔をしてしれっとしている。とことんまで壊してみたいだろう、そういうものは。あの飄々とした声に焦りがにじんでくるのがまたいいんだ、あいつの喘ぎは――」
ガァンと響いた打撃音がゼロの能書きを止めた。藤堂の拳がそっと下ろされる。壁を思い切り殴りつけた手のしびれは腕にまで及んだ。びりびりと走るその痛みは目眩すら呼ぶ。藤堂の灰蒼が殺意をにじませてゼロを睥睨した。ゼロは刹那、呼吸を止めた無機物のように動きを止めた。
「卜部、は」
「――私の、部下だ! 侮辱させはしないッ」
藤堂の激昂にゼロはふぅと笑った。機械の合成音声がふふっと笑う。
「お前がそれを、言うのか。艶事にまで口を出すか。ふん、とんだ過保護だ。いやお互い様なのか? お前も昔、男に抱かれていたと小耳にはさんだぞ? 情報というのは大事なものだよな」
ゼロの仮面に目鼻はない。それなのにその仮面が確かに笑んだような気配を、藤堂は感じた。侮蔑した笑みでゼロの中身は藤堂を見ている。
「卜部とは、寝てみたか?」
藤堂は踵を返して部屋を飛び出した。後先考えずに発散だけを求めて藤堂は施設内をうろついた。気付けば自分の位置すら見失ってどこにいるかすらしばし考えた。
つんざく電子音が通信機器の着信を知らせた。震えで不自由な指先で何とか受諾すると通話を開始する。声の震えを消すのに必死で相手が誰かすら確かめなかった。
『藤堂、さん?!』
とろりと張りのある若い声に力が抜ける。かくんと膝が抜けてその場に座り込んだ。
『藤堂さんッ今どこにいるんですかッ? 部屋に何度も行ったのにいつもいないんですからぁッ』
無邪気に藤堂の不在を責める朝比奈に安堵しながら戦慄した。
――卜部はどうした
卜部もこんなふうに私を探して? 何でもない顔をしてゼロとの交渉をもって?
理不尽だと知っている判っている。それでも感情は黒々と重たく腹に溜まった。
――同じ、事だ
枢木ゲンブに体を拓かれたとき、藤堂はどうしたかを克明に思い出せる。すべてを伏せてくれるよう藤堂はゲンブに懇願した。四聖剣の面々の耳には入れたくないのだと両手をついた。その藤堂が卜部を責めることなどできはしない。
『…うさん? 藤堂さん? どうしたんですか、あッまさか、またどっかで倒れてッ?! 今どこにいるんですかッ?!』
まくしたてる朝比奈の明るい声が藤堂の体を動かす。辺りを見回して何とか見当をつけるとすぐに戻るからと言い含めて通信を切る。涸れたと思った涙がにじんでくるのを藤堂は唇を噛んでこらえた。
ゼロはつかつかと浴室へ続く扉の前に立った。おもむろに手を差し伸べると思い切り扉を開けた。ばぁんっと扉が開いて湿気を帯びた空気がぶわりと広がる。噎せるような圧迫もなく空気はただ冷たい。水流の栓を止める位置に手を置いたまま硬直している卜部にゼロは仮面の奥で口の端をつり上げた。濡れた縹色の髪が水気を吸って群青を帯びる。ぽとぽとと滴る雫は見るからに冷たそうで卜部がシャワーの栓を止めてから時間が経っていることを示す。
「もうとうに上がっていると思ったんだが? そう言えば水音がしないと思っていたよ。あぁ、藤堂が来た頃合いからだったな?」
ゼロは怒りをあおるのを承知の上で言葉を選んでいるとしか思えなかった。卜部は黙って栓を全開にした。冷えて水となった水流が一気に降り注いでゼロが慌ただしく飛び退った。卜部はそれに口の端をつり上げて笑うと再度取っ手をひねって水流を止めると浴室から出た。用意されていたタオルで体を拭う。絡みつくようなゼロの視線も気にしない。体を拓いている以上、裸体をさらすことを恥じる意味はない。
「藤堂も案外堪え性がないと思わんか。あれしきの挑発に乗っていては奇跡の名が泣くぞ。それとも、お前はそれだけ特別なのか?」
卜部は明らかにゼロの言葉を黙殺した。襟までかっちりと身なりを整える。
「まさか覗かれていたとはな、ふふ、私の正体も暴かれかねんな」
うそぶく言葉はそれが不可能であると知っている軽薄さだ。ゼロは足取り軽く寝台に飛び乗り、寝乱れた敷布を乱して肩を揺らす。笑い声はしだいに甲高くなって卜部は癇に障るそれに眉をひそめた。
「巧雪」
小首を傾げる仕草で仮面が揺れた。優美な指先は計算されつくしたようにぴたりと嵌まる。
「知らない方が良かったことなど、溢れていると思わないか?」
卜部の唇がわなないて何事か言葉を吐こうとしたが結局呑みこんだ。引き結んだ唇にゼロが指先を這わせようとするのを叩き落とす。ゼロはくすくすと吐息に笑みをちりばめた。
「あぁそうだなテメェの体なんざ知りたくもねぇけどな」
卜部が吐き捨てるのをゼロはけたたましく笑った。仰け反って笑うのを睨みつけてから卜部は部屋を出ていく。
「あぁ、上等だよ! 本当に」
ゼロは仮面を取ってルルーシュに還るとほくそ笑んだ。
「本当にお前たちは面白いな」
毀れていく音が、する
《続く》