あなたの気を遣わせるのは心苦しいけれど
あなたが気を遣ってくれるのが嬉しいのです
嘘のような一時
夏の日差しは妙に強くて時折目眩のような陽炎を呼んだ。ぼやぼやと揺れる景色に藤堂は義務的に腰をあげた。濡れ縁から履き物をつっかけて庭へ出る。ある程度の広さの庭を維持するにはそれなりの水場が必要である。藤堂が茂みの奥から蛇口を見つけ出すとバケツに水を汲んだ。今では散水用のホースも高性能で小型化したものが平然と安売りされている。いつか購入しようと思いつつも家を空けることが多い所為か後手後手に回って結局柄杓にバケツの間に合わせが長引いている。柄杓がカタカタと笑うような音を立てる。金属部分が歪み木地の取っ手も黒ずんでいる。使い慣れて手に馴染む分、年季が入っていて耐久の度合いも落ちている。
打ち水を済ませるとすることがなくなる。草木の茂りは旺盛な繁殖力をもてあますように迎え入れたくないものまで育んでしまう。時折鼻先をかすめる藪蚊に閉口して藤堂は蚊遣りに火をつけた。つんと鼻にくる独特の香りがして細く白い煙が上る。風もないらしく煙はまっすぐに上って空へ融けた。硝子を通したような日差しは妙に蒸し暑い。庭木の緑陰がむせるように圧迫感を増す。嘆息して部屋へ引き取ろうとした藤堂の背で枝折戸の軋む音がした。造りの古いそこは開くのにも微妙な手加減が必要で力任せに開こうとすれば容赦なく耳障りな音を響かせる。日差しの加減で本来持つ以上の緑が映えた。暗緑色であるはずの髪は黒というより海藍に近い。陽炎の揺らめきの融けていきそうなそれに藤堂は履き物を履くのもそこそこに駆けつけた。枝折戸が開かなくて難渋しているのかと思ったがどうやら違うようで倒れないために枝折戸を掴んで体を支えていると言った方が正しそうだ。
「省悟」
藤堂は自宅に戻った時だけ通じる下の名を呼んだ。俯いていた顔がわずかに上げられてへらりと笑った。汗ばむような暑さであるのに朝比奈は不自然に汗をかいていない。ずれた眼鏡を直すことにも思い至らないらしく口元を震わせて無理矢理笑う。
「藤堂さん。すいません、なんか」
藤堂は朝比奈の体をずらして枝折戸を開くと内へ引き入れた。木陰を通るたびに朝比奈は息をつき、むせるような緑色に口元を引き結ぶ。藤堂に支えられるようにして朝比奈は何とか濡れ縁までたどり着いた。玄関へ回るより縁側から座敷へ上がった方が早い。
「…すいません、オレ」
「無理はするものではない。…いいから、気にしないで上がりなさい」
朝比奈がのろのろ履き物を脱ぐ間に藤堂は座敷の唐紙や障子を開け放って風を通す。薄い夏布団を敷くと扇風機を引きずって何とか設置した。朝比奈も自身の状況を感じているらしく素直に布団の上に横になる。
朝比奈の肌が妙に蒼白い。藤堂が朝比奈の額に手を当ててもされるままになっている。暑さで消耗していた体が限界を迎えたらしいと見当をつけて藤堂は台所へ行く。氷嚢を作ると朝比奈に渡す。薄く開いた瞳が暗緑色に揺らめいた。
「これで少し冷やしなさい。眠りたかったら眠りなさい。私のことは、気にしなくていい」
「…とーど、さ…ごめん…」
藤堂は朝比奈の眼鏡を取ると枕辺へ置いた。朝比奈が目蓋を閉じる。しばらく付き添っていたが朝比奈が穏やかな寝息を立て始めると足音を殺してその場を離れた。濡れたタオルと水を張った洗面器を持って戻る。固く絞ったそれで額や首元を拭ってやる。襟を緩めると華奢な体躯に見合うだけの鎖骨が見えた。規則正しく上下する胸の動きに安堵しながらベルトを緩めたり手脚を拭ってやったりする。応急的な処置を終えると藤堂は電話の脇に救急病院の連絡先を控えた。必要があれば他者の手を借りるという判断を藤堂は下した。己の限界を知ってもいる態度だ。
藤堂が台所に立って軽食を作る。消化の良いものがいいだろうと思いながらもあまりに軽くしてしまうと腹がくちくならない。惣菜を用意しながら粥を作る。あの様子では食事も摂っていないだろう。無理をして訪う必要などないのにと憤りながらも藤堂は朝比奈にそうさせてしまう己の不甲斐なさを感じた。朝比奈は藤堂が面倒がって食事を抜いてしまうのを知っている。
「…そう、させているのは私か」
灰蒼を眇めて藤堂が苦々しげにつぶやいた。粥がくつくつと煮詰まった。
「ん、むぅ」
目蓋を揺らして朝比奈の目が覚めた。空腹だ。どうせ藤堂と摂るのだからと食事を抜いていたのだから当たり前か。自宅の戸締りを始めたころから違和感に気付いてはいたのだ。交通機関を乗り継ぎながらだんだんと不調が明確になっていった。藤堂の不養生を責めたばかりの己がこれでは醜態もいいところだと思いながら気分はどんどんと悪くなっていった。停車場の間隔が短く感じられて藤堂の家までの道のりが遠い。舗装されていない地面の照り返しにすら負けて藤堂の家にたどり着けたのは奇跡だ。濡れ縁の上でぼんやりしている藤堂を最後にまともな意識は途切れている。断片的に触れてくる藤堂の大きな手のひらや優しい肌触り、氷嚢の冷たさがよみがえる。省悟、と呼ばれる名前の心地よさと安堵感がありありと思い出せる。真新しい敷布や夏布団が藤堂にかけた面倒を物語る。扇風機が静かな低音をさせて風を送っていた。氷嚢の氷が解けてくたりと頼りない水袋になっている。タオルに包まれたそれは水滴を吸って重く湿っていた。
「藤堂、さん」
朝比奈が動きを止める。濡れ縁に腰を落として雨戸に背を預けた藤堂は転寝をしていた。その手には団扇があり、そばには火の消えた蚊遣りの跡がある。灰白の塊が自重で崩れていた。汗の浮かんだ衿は寝返りを打つ際にでも手が緩めたらしく無造作だ。白藍に竜胆色の模様があしらわれた浴衣で濃紺の男帯で締める。朝比奈は着のみ着のままで倒れ込んだ己が藤堂の服装すら記憶にないのを思い知る。藤堂の片足は踏み石の上に裸足で落ちている。意識的にそうしているとは思えず、眠っているうちにずれたのだろう。
「鏡志朗、サン?」
朝比奈の顔が近づいても藤堂は身動き一つしない。
「迷惑だった、かな?」
朝比奈は空腹を満たすべく台所へ顔を出す。控えめに置かれていた鍋に翡翠粥が出来ていた。行儀悪く指を突っ込んで舐める。塩加減も朝比奈好みだ。冷蔵庫を開ければ保存の利く総菜がいくつかできていた。梅干しまで皿にのせてある。朝比奈は足取り軽く台所を出た。足音を殺して寝付いている藤堂のもとへ屈む。
「藤堂さん。ありがとう」
そっと唇を重ねる。藤堂の唇が薄く開く。それでも深追いはせずに唇を軽く食んで舌先を這わせると離れた。
「優しいよね、そういうところ嫌いじゃないです。でも、辛い」
朝比奈は顔をうつむけた。
ごろ、と身じろぎする動きを大腿部に感じて藤堂は目蓋を震わせた。うっすら開いた灰蒼が自身の脚元でごろりと横たわる朝比奈をとらえた。
「あさ、ひな?」
「あ、起きました?」
「…布団で眠りなさい」
藤堂は寝ぼけ眼のまま説教臭い口を利いた。朝比奈が喉を震わせて笑う。
「もう大丈夫です。おなかすいているくらいですから。藤堂さんこそ何か食べました?」
言われてみれば食事を摂っていない。空腹に慣れている所為か特に不自由は感じなかった。そのまま朝比奈に伝えると、朝比奈が子供っぽく頬を膨らませた。
「もう、そんなこと言ってると倒れますよ。食べてくださいってば。オレも食べるから食べてくださいよもう」
「お前の食事は用意してある。食べるか?」
「翡翠粥にしてくれたでしょう。そういう気は回るのにそれ、自分自身にはないんですか? 藤堂さんはもう少し藤堂さんを大事にしてください」
朝比奈が仔犬のように藤堂の膝にまとわりつく。藤堂も殊更にそれを邪険にはしない。
「オレ、迷惑かけませんでした? 来るなり倒れるなんて迷惑の極みですよね。本当にごめんなさい」
顔を伏せた朝比奈が矢継ぎ早に言葉を紡いだ。藤堂は朝比奈の髪を梳くように撫でてやりながら笑う。
「気にするな。大した手間はかかっていないから。お前に頼られるのも、悪くない」
「藤堂さん。オレのこと、省悟って、呼んでくれた」
藤堂の顔がみるみる紅くなっていく。首筋まで真っ赤になりながら藤堂は、うぅとかあぁとかうめいた。
「お、お前は私のことを鏡志朗と呼ぶから。だから私もお前を省悟と」
朝比奈は軍属であることが明確な場所と私的な場所とで呼び名を分けた。藤堂の私宅を訪う際は殊更に鏡志朗さんと下の名を呼んだ。藤堂も自然の流れで朝比奈のことを省悟と下の名で呼んだ。
「なんか、通じあった恋人同士みたいですね。嬉しいなぁ。鏡志朗さん、オレのこともっと呼んでよ」
「回復したなら少し食事を摂りなさい。今、支度をするから」
発熱は消耗する、と藤堂が一人ごちながら立ち上がろうとする。朝比奈はその脚に絡みついた。
「いやでーす。藤堂さんと抱き合っていたいです」
「省悟! 食事はきちんと摂りなさいと」
「鏡志朗さんだって食べてないでしょ。おなかぺったんこですもんね」
朝比奈の指先が淫靡に着物の衿を這い、胸をたどる。合わせから滑り込む手の動きに藤堂は不覚にも動揺した。身じろぐ動きを察知したように朝比奈が笑う。
「恥ずかしい? 恥じることなんてないでしょ? オレは鏡志朗さんのこと大好きなのに」
朝比奈が藤堂に抱きつく。ぎゅうと抱きしめる腰の細さに朝比奈はひそかにほぞをかんだ。藤堂が他者を優先して己をないがしろにする性質なのはよく知っている。
「ねぇちゃんとごはん、食べてますか? 鏡志朗さん、すごく細いよ。暑さ負け、してませんか? ごはん、食べてる?」
「…腹がすけば食べている。お前こそ、食事は」
朝比奈は藤堂の唇を奪った。少し乾いて熱っぽいそこは夏の気候のようで肌に馴染む。
「一緒に食べましょう。あなただけ食べないのは嫌だし気が引けるんです。おなかすいていない?」
藤堂がぎゅうと朝比奈の体を抱きしめる。嬉しくなる一方でそれが藤堂のその場しのぎであるのを知っている。藤堂の体がずるずると崩れていく。そのまま倒れ伏すのを朝比奈は撫でた。
「…ねむ、い」
「鏡志朗さんこそ無理しすぎ。寝てないんだ。寝ていいですよ。オレ、待ってるから」
「省悟、腹が減ったなら粥が作ってあるからそれを食べなさい。私は気にしなくて、いい、から」
とろとろと藤堂の目蓋が落ちる。朝比奈が藤堂の体を無理のない姿勢に横たえる。胸に耳を当てれば規則的な鼓動が響く。藤堂は戦場をくぐりぬけてきているのだから頑丈な体なのだと思いたいが時折無理をする。しかもそれを意識していないのだから性質が悪い。人に体には気をつけなさいと言っておいて自分がぶっ倒れるのだから説得力がない。
「…ま、そーいうとこも大好きですけど」
朝比奈が藤堂の衿へ顔をうずめる。焚き染めた仄かな香りが漂う。藤堂の懐を探れば香り袋が出てくる。藤堂は己の体に血臭が染み付いているような気がするのだと笑っていた。
「大好き、ですよ。あなたが血にまみれてもね」
縮緬の布地の紅さが目蓋の裏に灼きついた。
《了》