君だから妥協できなかった
本気でぶつかるってこと
明確な音を立てる呼吸に肩が揺れる。癒着していた体躯がずるりと流れるように分離した。その際の刺激に藤堂は喉を喘がせた。指先が寝台に爪を立てて揺れる脚が敷布の畝を乱す。体が離れていくのを惜しむように卜部は藤堂の唇を奪う。
「卜部…はな、せ」
藤堂の乱れない声が婉曲な拒否を示す。卜部は一瞬だけ間をおいて体を完全に分離させた。藤堂がずるずると体を起こす。明かりの落ちた部屋で二人分の吐息が満ちる。卜部は上体には何も纏っていない軽装で、藤堂に至っては全裸だ。寝台への標のように散る藤堂の衣服が行為の唐突さと激しさを明らかにした。
「…私はしたくないと言ったはずだ」
藤堂の言葉に険がある。卜部は何も言わずに眉を寄せた。藤堂も言葉を続けない。事後の気怠さを打ち消すように険しい気配がした。藤堂は体を起こして座り込んだまま黙り込んだ。身動き一つしない。
あまり欲求を押し通さない藤堂の様子から境界線を越えてしまったのだろうかと卜部は案じた。だがこらえているのは藤堂だけではない。卜部だって、まして藤堂とこうした交渉を持つようになってからはなおのこと、こらえや譲歩を繰り返してきた。もともと藤堂はその稀有な身の在り方や動作、体つきや仕草で人を惹きつける傾向があり独占など不可能に近い。卜部の同僚である朝比奈などはかなりあざとい接触を繰り返している。藤堂は交渉相手の有無などを吹聴する輩ではないから余計に性質が悪い。藤堂への好意を隠さない朝比奈からこうむる被害を鑑みれば少しくらい譲歩がほしいと思う。
「…あんたァいつも嫌だって言うじゃねぇっすか。まともに聞いてたら俺ァ欲求不満で死にますけど。それに」
卜部は手探りでスイッチを探り当てると部屋の明かりをつけた。闇が瞬時に払拭されて藤堂のさまを暴く。腹や内股を汚す白濁は彼らの在り方の証でもある。藤堂は恥じるように目を眇めて顔を背けた。
「中佐だって嫌だって言いつつ、いつも結構乗り気」
揶揄するように卜部は口の端をつり上げる。その刹那に藤堂の腕がしなって卜部の頬に平手打ちを命中させた。
乾いた音の後に藤堂の指先がじぃんとしびれた。咄嗟の行動に手加減などない。それでも藤堂は卜部の位置や年齢を想い合わせて拳ではなく平手にした。卜部は一瞬驚いた顔をしたがすぐに状況を認識したらしく、顔をしかめた。
「冗談にしていいことと悪いことがある! 事後承諾の正当性など」
ほとばしった感情の歯止めがきかない。鬱積したものが見つけた出口は容易にふさがらない。
「…お前がそんな奴だとは、思わなかった」
フイと背けた藤堂の顔にバシャッと冷水が浴びせられた。髪の先や頤から水滴が滴る。茫然とそちらを見る藤堂の視線を避けようともせず卜部は空になったグラスをおいた。置いてあった呑みさしを浴びせたのだと虚ろな思考で藤堂は思った。
「俺もあんたがそんな奴だとは思わなかったっす」
卜部は当然のように言い放つ。非は藤堂の側にあるとでも言いたげなそれは冷静な思考を奪っていく。鬱積の奔流と相手の折れない行き場のない憤りとが藤堂をムキにさせた。眉間のしわが増えて灰蒼は冷徹に卜部を睨めつける。それを真正面から卜部の茶水晶は受けて立った。お互いに自分が折れるとか退くといった選択肢は消えている。普段から堪えの利く分、決壊した時の被害や効果は甚大だった。
「お前が私をどう定義していようがそれは勝手な思い込みだ」
「あんたにそっくりそのまま返しますよ。あんた俺を何だと思って抱かれてたんだ。人を馬鹿にするのもいい加減にしやがれ」
吐き捨てるような卜部の言葉尻から敬語が消える。
「テメェが要るときだけ応じるなんて都合のいいもんある訳がねェだろ、あんた専用で動く人形じゃあねぇんでね」
明らかな罵詈雑言に藤堂の指先が扉を示した。しなやかに躍動する腕ががんとした態度で卜部を追い出そうとしていた。
「もう一度殴られたくないなら出ていけ」
「言われなくったって出てく、用なんざねぇ」
卜部は手早く衣服を拾って身支度を整える。卜部が扉の外へ出る刹那に藤堂が叫んだ。
「理想を押し付けられるなど御免だ!」
「都合のいいときだけ抱かれようって奴に言われたかァねェな」
はん、と嘲るような息を吐いて卜部が出て行った。
「たまにはあんたから股ァ開いて誘ってくれたって罰は当たらねェと思うけど」
「出ていけッ! お前にだけは金輪際抱かれないッ!」
物を投げつける動きを見せる藤堂に背を向けて卜部は扉を閉めた。
標的を失った怒りが藤堂の呼気を荒くさせる。フーッと威嚇のような呼吸音をさせて肩を揺らす。にじんだ汗が不意に脇腹やうなじを伝う。がしゃがしゃと指先がかきむしるように鳶色の髪を乱した。振り下ろした拳が寝台を殴りつけるが予想していた固い痛みではなく鈍い弾力に藤堂は振り切るように立ち上がった。そのまま浴場へ向かう。栓を全開にした強い水流を藤堂は頭から浴びた。
藤堂が与えられた課題をこなしてから食堂に顔を出す。途端に卜部がガタリと席を立つ。中途の食事を廃棄して食堂を出ていく。藤堂は声をかけそびれた。誰の呼びとめも迷惑なのだと言わんばかりの背中に藤堂は負けた。朝比奈がびっくりしたように目を瞬いて卜部と藤堂を見比べた。
「へぇ、珍しー。藤堂さんと一緒に食べないなんて…」
朝比奈に言われて、卜部と行動を共にする機会は確実に増えていたのだと自認する。愛機の調整が終わるのを待っていてくれたり食事を摂るのにつきあってくれたりといった小さな積み重ねを今になって切実に感じる。肩を落とす藤堂の様子に朝比奈は賢そうな眼をきょろりと巡らせた。卜部の姿は疾うに消えている。途端にそがれる食欲に藤堂は思いのほか受けている痛手を感じた。
「藤堂さん、こっち」
進まない食欲のままに給仕された盆を持つ藤堂を朝比奈が呼んだ。向かい合わせに腰を下ろせば朝比奈が興味深げに覗きこんでくる。
「どうかしたんですか? あの人も大概だけど藤堂さんだってだいぶなんか…」
「…どうも、しない」
「嘘。嘘ですね、藤堂さん嘘つくの下手だから判りますって。ケンカでもしたんですか?」
黙り込む藤堂に朝比奈が目を輝かせた。
「だったら、オレに乗り換えませんか? オレだったら絶対藤堂さんのこと赦せるし受け入れられる自信、ありますよ。文句なんて絶対言わないし。藤堂さんが好きなようにしてあげますって」
藤堂は困ったように朝比奈を見た。
ここ最近藤堂を悩ませていることを朝比奈は妙に言い当てている。卜部と交渉関係を持つにあたって、卜部が譲歩してくれるだろうことは想像に難くなかった。だが藤堂はきっと反抗してほしかったのだと思う。欲望を抑えこませて我慢させたり焦らしたりするのを諫めて欲しかったのだろうと今なら思う。朝比奈は間違いなくそうするだろう。だが藤堂がほしいのはそういう従属ではないのだ。互いの希望をぶつけあえたうえで続く付き合いがほしかった。拒否する権利と拒否される経験とを積んだ上で続くならそれはきっと理想。
「…ふぅん、やっぱり?」
しばらく藤堂を見ていた朝比奈は心得たように苦笑した。
「無理だろうなーとは思ってたけどこんなあっさり無理だと判るとは思わなかったです。やっぱり、いいんだ」
藤堂はしぱしぱと目を瞬かせた。不思議そうに小首をかしげる様子を横目に朝比奈は食事を再開した。
「あっちの方がいい、って顔、してます。オレじゃ物足りないって」
朝比奈が指し示す出入り口に話題の彼はもういない。思わずそちらに視線を投げる藤堂を見てから朝比奈はごっくんと口の中のものを嚥下した。
「藤堂さんは尽くしたい人なんでしょう。相手にいっぱい尽くしてそうだと実感させてくれる人がいいんでしょ? そんで、たまには足りないって言ってくれる人がいいんだ。それでいて尽くされたい。相手の何かを犠牲にしてる証もほしい。厄介ですよね、それ」
言葉がつらつらと述べられていく。藤堂は反論しようとして明確な論拠が見つからない。ただ、違うと言い訳するのが精一杯だった。岡目八目という言葉を藤堂は実感した。藤堂はしまいに朝比奈の説を拝聴するだけになる。
「ま、自分が頑張った分の評価がほしいのが人情ですもんね、責めませんけど。オレだってこれだけの頑張りの評価として藤堂さんがほしいし。でも、あなたは」
きょろっと暗緑色がめぐる。愛しむような穏やかな諦めが見て取れた。
「卜部巧雪がほしいんでしょう」
藤堂はかき込むように忙しなく食事を始めた。話を聞く間に食事はすっかり冷めて胃の腑に落ちていくのがありありと感じられた。
藤堂は生唾を飲み込むだけの間をおいてから来訪の旨を告げた。数瞬の間をおいて鍵は開いているという返事がする。藤堂はそっと扉を開いた。寝台に行儀悪く腰かけたままの卜部が藤堂を見た。緩められた襟から喉仏の尖りが見える。藤堂は扉を閉めながらさりげないふうを装って施錠を確かめた。卜部の方は気にもしていないらしく藤堂を無視して手元の帳面に目線を下ろした。しばらく沈黙が続く。互いに能弁な性質ではないし、まして気まずい空気の続いた今までを引きずっているのだからますます口を利きづらい。卜部の指先がぱらりとページを繰る。藤堂は黙ったままその場へ立ち尽くす。卜部の部屋への訪いを後悔した。時間が解決してくれる問題は確かにあるがそうではないものも多々あるのだ。機会の早急さを藤堂は悔いた。朝比奈にけしかけられるままに卜部の元へ来たが策がない。己の落ち度は判っているのだから謝ればいいことは判っている。それでも卜部の頑として藤堂を視界に入れない頑なさは藤堂の気をくじいた。詫びを入れて退出することを考えだした藤堂の目の前で卜部は嘆息した。
「中佐、こっち来てください」
呼ばれるままに卜部の元へ向かう。藤堂が寝台に近づいたところで卜部は読みさしの帳面をおいて膝をついた。
「う、らべ?」
「…――すんませんでした」
両手をついて額づくように頭を下げる。あまりの展開に藤堂は対応しきれずにいた。卜部は藤堂の沈黙をどう取ったのか自嘲するように口の端を歪めた。
「手遅れでも何でもいいんで一度だけ俺の詫び聞いてくれませんか」
「…詫び、など。お前の落ち度など」
藤堂の声が掠れた。卜部は膝をついたままぎゅうと両手を握りしめる。とっかかりを掴もうと模索しているのが判る。藤堂は返す言葉もなく立ち尽くした。
「中佐の言うことが正しいって判ってるつもりだったンすけど…感情に負けました。俺のあれはただの言いがかりっす」
「…お前の言うことは一理あると思う。そう取れる行動や態度に出た私にも落ち度が」
藤堂の謝罪を卜部が手で制した。痩せて細い指先が藤堂の声を止める。
「あんたァ悪くない。俺のあれはただの身勝手です。いまさら詫びたって間にあわねェと思うけど、言っとかないと、後悔するんで」
「やめろ!」
卜部がびくりと体をすくめる。藤堂はへたりと膝をついた。
「…無理を通したのは私の方だ。お前の都合など考えもせず…私は」
藤堂の灰蒼が潤んで揺らめく。自身の落ち度は朝比奈に指摘されるまで目を背け、卜部のように潔く謝る気概もない。卜部の部屋を訪いこそしたがそれだけの努力を言い訳に逃げかけた。藤堂がぎゅうっと唇を噛みしめる。色を失うほどのその強さに卜部は目を眇めた。
「身勝手なのは、私の方、だ」
「中佐」
藤堂がハッと顔をあげると唇が重なった。触れるだけの優しいそれに藤堂の意識がとろける。
「じゃあ、お互いさまってことにしてくださいよ。そうじゃねェと俺もあんたも辛いから。でも」
卜部はクックッと笑って茶水晶を眇めた。穏やかでありふれた、けれどそれゆえに安堵させる笑顔だ。
「あんたがわがまま通そうとするだけの間柄だってうぬぼれていいっすか? あんたの我儘なんざめったに聞けねェし」
「お前の方こそわがままなど言わないだろう。お前の真意に触れるのはひどく難しくて遠く、て」
ぽろっと藤堂の目から雫がこぼれた。その雫を卜部の舌先が素早く舐め拭う。熱く濡れた舌先に藤堂は赤面した。藤堂はそれを振り切るように卜部の手首を掴んで引き寄せた。傾ぐ卜部の肩を掴み噛みつくように唇を重ねる。驚いて反応しきれない卜部の口腔内を好きに犯しまわってからおずおずと離れた。
「…――…」
卜部が言葉を発する前に藤堂が押し倒した。どたん、と床を卜部の腕が打つ。藤堂は脚を開いて卜部の上にまたがる。卜部の体は軍属というには痩せている。高い背丈と見合うだけの長い手脚。しなう幌のように柔軟に動くそれは時に藤堂を拘束した。藤堂は舌を絡ませながら、卜部が藤堂にしたことを思い出すようにたどるように指先を這わせ自身のベルトを緩める。
「…お前が、欲しい」
卜部は返事をしない。慎重で用心深い彼らしいと思う。卜部は強味を持つのではなく弱味を持たぬことで世間と渡り合ってきた。攻めるべき弱点がないというのは思いのほか攻略しがたい。藤堂は揺るぎない強味を持つが故に崩れた時の脆さは人一倍だ。堪えの利く性質であることは似ているのにそれまでの処世術は正反対だ。
「…こう、せつ。お前がほしい」
「中、佐」
藤堂は耳まで真っ赤になって叫んだ。
「お前に抱かれたいと、言っている! 何度も言わせるな…ッ」
藤堂の剣幕にぱちくりと目を瞬かせてから卜部が笑いだした。
「中佐、名前呼んでもいいっすか」
藤堂は黙って目を背けた。黙々と下肢の衣服を脱ぐ。長くすらりとした藤堂の脚があらわになった。そこに指を這わせながら卜部が問う。
「中佐。許可を。赦しを俺に下さい」
「…構わない。お前が、呼ぶのは、構わない…私の名など…呼ぶ、価値も」
「鏡志朗さん」
びくっと藤堂が体を震わせた。そのまま頬に指先が触れる。
「俺がほしいってあんたの言葉ァ、腰に来る…いいンすか。俺で? 俺なんかで?」
「お前が反抗するなど初めて見た。初めてだと…私が初めてなのだと、思って…自惚れても、いいのか?」
「俺なんかにそんな価値があるたァ思いませんけど…俺が好きなのはあんただ」
藤堂は卜部の手を振り切って唇を寄せた。
「お前が、いい! 私はお前に…――お前に抱かれたいのだと、言っている」
卜部の腕がかき抱くように藤堂の体を抱き寄せた。互いの拍動が響いて共鳴し同調する。鳶色の髪を卜部の指先が梳いた。藤堂は卜部の背に爪を立てた。灰蒼と茶水晶が交錯する。互いに引かれあうように自然に、唇が重なった。温く濡れたそこは体温と同化してみる間に境界線を失っていく。心地よい喪失と解放に二人は舌先を絡めあった。
《了》