あなたにどんな仕打ちをされても
私はあなたを嫌うことができないのです
日常の価値
帰宅の始まる頃合いの忙しなさに浮足立つ。帰り支度を整えた気の早いものや少しでも早い帰宅のために仕事に熱心になるものなど様々だ。ギルフォードはちょっとした手荷物を抱えて通路を歩く。それなりの地位にいたギルフォードはこなすべき仕事も自然と増えた。すれ違いざまに会釈や挨拶を繰り返す。なんとかあてがわれた部屋にたどりつくと荷物を下ろす。自然とため息が漏れた。時刻表示や窓の外の暗さに通信機器を取る。いささか躊躇してから発信する。ギルフォードが呼び出し音を数える間もないほどに早く通話が取られた。
『貴様、今どこにいる』
不機嫌さが全開の少年らしい張りのある声に眉を寄せる。ギルフォードが連絡を取ったのは相手にとって不愉快な事態を知らせるものでしかない。矢継ぎ早に不満を浴びせられる予感に口を開く。
「帰りは遅くなりそうなので先にお休みに」
『そういうことは早く言わんか! いまさら休めだと!』
怒りに燃える声が甲高い。ギルフォードは通信機器を思わず耳から離した。そのまま切ろうとするのを知っていたかのように切るなと通告された。
「ルルーシュ様」
名前を呼べば気配がやわらぐ。だがルルーシュはしっかり釘を刺した。
『つべこべ言わずにとっとと帰ってこい。そうでなければ貴様の安寧は保証しない』
今度こそギルフォードが乱暴に通話を断ち切った。
通話を強制的に切りあげたものの後味の悪さや不安が残る。ルルーシュはやると言ったことは必ずやる。そういう頑固なところはギルフォードが敬愛してやまないコーネリアと似ていると思う。姉弟であると思い知る。ギルフォードは何度かつまらないミスを繰り返し、結果として仕事を切り上げる決断をした。喉に刺さった小骨のようにそれは忘却を赦さない。手早く荷物をまとめ後片付けをして部屋を飛び出す。早足が次第に駆け足になっていく。ギルフォードの長い黒褐色の髪がたなびいた。
「切った!」
ブツンと切れた通信にルルーシュはテーブルを思いっきり殴りつけた。ガチャガチャッと食器が触れ合って硬質な音を立てる。ルルーシュは慌ててテーブルを押さえた。何事もなく静まる食卓に肩の力を抜く。得意の料理の腕を惜しみなく揮った食卓がそこにそろっている。しばらく不服げに紅い唇を尖らせていたがいらだたしげに席を立つ。本来ならそこへギルフォードが座っているはずの席を睨みながらあてどなく過去を思い出す。ルルーシュの企んだゼロ継承はうまく運んだ。誤算があったと言えば自身の蘇生だ。あの時ルルーシュは確かに死んだ。だが目蓋を揺らして開いた視界に映ったのはうたた寝するギルフォードだった。よたった包帯と真新しいそれとを持ったまま穏やかな寝息を立てていた。怪我の具合や彼の様子からみて、ギルフォードの看病は疑いなく己の蘇生はその成果と言えるだろう。睡眠時間を極端に削ったらしくルルーシュが起きても気づかなかった。
それからルルーシュは複雑な手続きと重ねた誤魔化しと嘘の果てにギルフォードの家へ間借りしている。ギルフォードは共に暮らすのは障害がありすぎると拒んだがルルーシュがそれを赦さなかった。ルルーシュの引き起こした様々な事象はギルフォードの貴族地位を引き下げたが結果としてルルーシュが紛れ込むにはちょうどいい具合となった。それをいいことにルルーシュはギルフォードの部屋に居座ると昼夜の区別なく張り付いた。何度か肌も重ねている。その際の分担で少しもめたが頑として譲らないルルーシュにギルフォードが折れた。ギルフォードが騎士というある意味従属に慣れた地位にいたおかげもあるだろう。
「馬鹿者め」
ルルーシュが料理の腕を揮う、その日に帰宅が遅れるなどタイミングが悪いとしか言いようがない。ゼロとしてのルルーシュが死んだときに運も使い果たしたのだろうかとルルーシュは心中で嘆いた。いつでも始められる食卓にルルーシュは行儀悪く頬杖をついた。料理はゆっくりと確実に冷めていく。それでもルルーシュは辛抱強く待った。食事くらいは先に済ませようと思うものの手をつける気にならない。常に隣に誰かがいた生活との決別はルルーシュに一人の寂しさを教えた。
「…ギルフォード」
ルルーシュの紫苑の目が眇められる。ルルーシュはかつてギルフォードの大切な人を奪った経験がある。あれは確かに必要だったのだと自己弁護のように言い訳しながら、その間のギルフォードの寂寥感を思った。ギルフォードとコーネリアが食事を共にしていたかどうかではなく、彼の隣からコーネリアを一時的とはいえ奪った。度重なる戦闘と経験にルルーシュは奪われる激痛を改めて知った。最も手ひどい形でルルーシュはギルフォードにそれを与えた。こうして面倒を見てくれているのは彼の優しさに他ならない。それ以上など期待してはいけないのだ。そう自制しながらルルーシュはとどめきれない慕情をギルフォードに感じた。
ジワリとルルーシュの目の奥が熱くなる。乱暴に拭っているとバタバタと足音が聞こえた。乱暴に音を立てて開かれる扉。手荷物を抱えて髪を乱したギルフォードが肩で息をしていた。
「…ギルフォード」
「…早い帰宅を望まれるなら理由をおっしゃってください。何も言われずとも了解できるほどに私はできた人間ではありません」
テーブルの上の料理を見たギルフォードは柳眉を寄せて諫めるように言った。
「お…――お前が切っただろうが、通話を! オレが言う前に!」
子供っぽい不満をぶちまけている自覚がルルーシュにはあった。だがギルフォードはその怜悧な顔立ちを困ったように歪めて頭を下げた。
「申し訳ありません」
「やめろ…謝るのは、ずるい」
ルルーシュの手が震える口元を隠した。声の震えを抑えるので精一杯だった。ギルフォードの困ったような微笑はひどく愛らしい。怜悧な容貌の裏をかくような無邪気さは目を奪う。
「言葉が、ありません。私は至らないですから」
「来い、ギルフォード」
その真意が悟れないほどギルフォードは野暮ではない。躊躇するのに焦れたルルーシュがギルフォードの腕を引いた。
「オレの手料理に遅れたんだぞ、対価は支払え」
「何をすれば?」
無垢に真正面から問うてくるギルフォードが小首を傾げた。ルルーシュはこらえきれない笑いに細身をよじる。
「なんだオレが言っていいのか? だったらお前から誘えよ。オレをその気にさせろ」
子供っぽく紅い唇が重なる。白皙の美貌が融けあった。ギルフォードの薄氷色の瞳が驚きに見開かれていく。解けかけている結い紐をルルーシュの指先がほどく。さらりと滑る黒褐色の髪が広がった。
バサバサと荷物が落ちる。書類がふわりと花弁のように舞う。ギルフォードのたおやかな指先がルルーシュの白い頬に触れた。唇がおそるおそる重なる。
「ルルーシュ、様」
「…オレはお前に助けられたんだぞ? 様はいらない」
「です、が」
心底困ったようなギルフォードの憂い顔にルルーシュは声を立てて笑った。ギルフォードは吹っ切るようにあわただしく襟を緩めベルトを解く。そこかしこにちらちらと覗く肌は肌理が細かく、官能的な白さを帯びている。駆け引きの起こりえる地位にいながらのこの不慣れさが愛しい。ルルーシュはギルフォードの細い手首を掴んだ。引き締まったそれは造り物めいて美しい。鋭角的なフレームの眼鏡の奥の薄氷色の瞳とかちりと視線が合う。空調の利いているはずの室内でギルフォードは汗がにじむ思いをした。ルルーシュの視線は強くて強くて、美しくて。紫水晶がかすむほどに美しく煌めく紫苑の瞳はぱっちりと大きい。ギルフォードとは違う黒絹の艶を持つ細い髪。日に焼けていない白い皮膚。
「…駄目、です。私があなたを敬称なしに呼び捨てるなど…赦せません」
ギルフォードは震える目蓋を閉じた。ルルーシュの聡明な瞳がギルフォードを映す。長い髪は日に透ける黒褐色。一見すると黒髪に見えるそれは気づくものだけが気付く差異。震える睫毛が水気を帯びる。ルルーシュの指先がそれをぐいと乱暴に拭う。驚いたようにギルフォードは目を瞬く。潤んで息づく薄氷色が煌めいた。
「馬鹿だな。大馬鹿者だ」
ギルフォードの白く細い喉元があらわになる。ルルーシュは乱暴にギルフォードの衣服を脱がせた。
「オレなど捨てればいい。利益などないぞ。オレが、生きる意味などない」
「わた、しは! あなたに死んでほしいと思ったことはないッ」
ルルーシュはふんと哂う。
「ゼロを殺そうとしていた輩がよく言う」
ギルフォードは苦しげに眼を伏せた。泣き出しそうに潤んだ薄氷色は薄く揺れた。
「ゼロは殺したかった。姫様を奪い、あの惨劇を引き起こした。けれど、私はあなたを、ルルーシュ様を殺そうと思ったことはありません!」
ギルフォードはそれだけ言うと唇をきつく噛んだ。紅いそれが噛みしめられて色を失くす。ルルーシュの手がギルフォードの裸体を暴く。脱がせた衣服をわざとらしく遠くへ放る。
「嘘のうまいやつも嫌いじゃない」
「嘘ではありません! 私、は」
そこでギルフォードの言葉が途切れる。白い喉が震えた。浮かび上がった鎖骨が陰影を落とす。躍動する体つきはすっきりと細くしなやかだ。骨格も整い筋肉も具合よくついている。過度の暑苦しさとは無縁の美しさだ。
「オレに従ったことを後悔してはいないのか」
ギルフォードの抵抗がやんだ。
「ギアスの所為だとすればいい。それでもオレに、従ったことをどう思う」
ルルーシュの持つギアスの能力と効果によってギルフォードは仕えるべき主君であるコーネリアとその敵であるルルーシュを混同する事態に陥ったことがある。ギルフォードにとっては不可抗力とも言えるどうしようもない事態であったことはルルーシュがよく知っている。
「…赦せません」
ルルーシュの目が泣きだしそうに眇められた。
「私は、姫様とあなたを混同した。一時とはいえあなたに従ってしまった私を赦してしまう私が、赦せ、ない!」
「…回りくどいやつだな。素直にオレが好きだと言えばいい」
「私はあなたが好きです、でもそれが、赦せ、ない!」
ギルフォードの目からぽろぽろ雫がこぼれた。紅い唇は色を失くすほどに噛みしめられて泣き声を殺す。息づく白皙の美貌が涙に歪む。
「すまない、嬉しい。お前に無理を強いているのは辛い、だが嬉しい」
崩壊寸前で自我を保つギルフォードの体をルルーシュは抱き締めた。裸の胸から確かな鼓動が響いた。
「お前の中にオレがいると、それだけでひどく嬉しいよ」
ギルフォードの手がきつくこぶしを握り締めた。うつむける顔を長い髪が隠す。ほとぽと滴る雫が染みた。
「嘘くらいつけよ。オレの所為だと嘘を吐けばいいのに。優しいな、お前は」
ギルフォードの顔が美しく微笑した。頬を擦り寄せてくる。その頬の冷たさにルルーシュは罪の重さを知る。
「…もう、お判りなのですね」
ルルーシュの肩にギルフォードが顔を伏せる。すがりつく指先がルルーシュの背に爪を立てる。
「う、ぅう…――…ッ」
ギルフォードはその怜悧な顔を歪めて泣いた。
何気ない日々の中にこそ
《了》