ただ、進むのみ


   この愛情が嘘でも

 荒い呼吸に華奢ではない肩が上下した。暑くもないのにむやみに汗をかく。喉が渇いてひりひりと灼けた。唾液を呑むことすら難渋する。無意識的に探った隣は無人で藤堂は辺りを見回した。時計を見れば寝付く前の記憶より時もあまり経っていない。
「巧雪?」
下の名を恐る恐る呼んでも応えがない。体の方はすっかり後始末もされて小奇麗だ。それでも皮膚の上にまとわりつくような何かに藤堂は身震いした。浴場の方にも気配がない。敷布はすっかり冷めていて卜部の不在が長いのを教える。藤堂は自然と膝を抱えた。交渉の後に相手が消えるというのは思った以上に痛手を負った。こつんと膝に額を伏せる。女々しいと叱責を受けるだろうかと思いながら卜部の帰りを待った。卜部は目立たぬ動作が馴染んでいる。凡人ですからね、と自嘲する卜部の様子が浮かぶ。飄然として付き合いをこなすのはなかなか骨が折れるものだ。浅い付き合いしかないというのは楽なようでいて明確な自立が不可欠だ。他者によすがを求めずすべてを己の責任とするのはなかなか難しいのを藤堂は最近知った。深い付き合いは相手にも己にも多少なりとも負荷がかかる。
「こう、せつ」
 目の奥がジワリと揺れた。これが寂しいというものなのだと藤堂は久しぶりに知ったような気がした。藤堂の交渉相手は常に力及ばぬ位置で決められ藤堂は諾々と従うのみだった。拒否反応を示しかけた藤堂に男は言い放った。お前のところは粒ぞろいだ、お前に限る必要はないと。己の裁量で重荷を背負わせる恐怖に藤堂は戦慄した。藤堂はそれ以後、拒絶の言葉すら吐かなかった。
「中佐?」
扉が開いて痩躯の卜部が顔を覗かせた。ズボンに上着を引っかけた軽装で留め具も留めていない。良くも悪くも隙を見せない卜部にしては珍しい格好だ。卜部は諍いを嫌って大抵のことは呑みこむ。当人に問うと、面倒くさいからだと言われた。くだらない諍いに使うエネルギーはない、後々も考えれば面倒を起こす気はないと言ってのけた。そういう思考回路はよく似ていると藤堂は想う。同類なのだろう。我を通して衝突するくらいなら我慢する方を選ぶ、そういう性質なのだ。
 「…珍しいな、お前がそういう格好でいる、のは」
寝台から降りようとするのを卜部が仕草だけで制して扉を閉めた。明かりをつけると一気に闇が払拭される。卜部は長い手脚で器用に床の上の衣服を拾った。長身の者の独特の間があり藤堂よりそれは顕著だ。卜部は藤堂より背丈がある。衣服を手渡しながらしきりに体を見るよう示す。藤堂は目線を下げてから慌てて毛布をかぶった。一糸まとわぬままにこれまでを過ごしていたのを思い出せば頬が赤らむのを止められない。
「中佐も珍しいっすね。…気づかないなんて」
どさりと寝台に腰をおろして卜部がもっていた飲料を渡す。部屋に食物を貯蔵する備えはなく卜部がそれをどこから持ってきたのか判らずに藤堂は受け取りかねた。
「食堂から失敬しただけっすよ。ちゃんと帳面に記入しましたから」
だからあまり多くは持ち出せなかったとうそぶいて栓の開いていないボトルを手渡す。それを受け取った藤堂はむやみに手の平で転がすようにもてあそぶ。卜部の手元を茫洋と見つめた。
 力の入れ方が上手いのか、少ない動きで栓を開ける。必要な場所に必要な分の勢いと力を込める。そういえば朝比奈は栓を開ける際に肘を張る癖がある。卜部はそう言った癖もないようで簡単に動きをこなす。単純な筋力の問題なのか具合の巧さが違うのかは判らない。卜部の印象に残らない動作というのは徹底しているらしい。
「なンすか?」
藤堂の視線に不意に卜部の視線が絡んだ。唐突なそれに藤堂が身構える隙もない。面食らったように目を瞬かせて唇を引き結ぶので精一杯だ。卜部の口元が不意に吊り上る。
「力、入らない?」
その意味するところに気づいた藤堂は紅くなった頬のままそっぽを向いた。なんでもないという意思を示そうとするがうまくゆかない。指先が妙に滑って力が作用しない。卜部はそれを横目にボトルを呷る。動く喉仏に目を奪われているうちに唇が重なった。無防備な藤堂の唇を割って冷たい飲料が流し込まれる。逃げを打つ藤堂を追って卜部は唇を重ねてくる。口腔の飲料を流し込みながら舌を絡める。藤堂がこらえきれずに咳きこむとようやく離れた。
「こ、う…せつ!」
「ふゥん、律儀…っすねぇ」
揶揄するように言い捨てて肩を震わせる。藤堂は言い返したいのをこらえて呼吸を整えた。
 藤堂は口元を拭いながら卜部を窺った。
「巧雪、お前は何故…なんで私を、抱くんだ」
刹那、卜部の眼差しが鋭さを増したような気がした。その刺すような眼差しに覚えがある。藤堂が踏み間違えた瞬間のゲンブの眼差しと同じだ。赦さず、拒む。藤堂の喉がごくりと鳴った。指先が震えて飲料のボトルをもっていられない。目の前にいるのは卜部だと知っていながら背後に枢木ゲンブの影を見る。
「中佐?」
「ぅあ…」
藤堂の手が顔を覆う。
 逃れたはずだった。解放されたはずだった。日本再建のために己が身一つで済むならと差し出す青臭い正義感をゲンブは根こそぎにした。最後の一筋すら断ち切ろうと刃が振り下ろされる。一筋の光すら、血潮の雫ほども赦さず。ゲンブが求めたのは完全なる従順と屈服だった。藤堂の頭がふられる。膝を抱えるように立てて背を丸める。肩を抱く指先が震えた。嫌がるように頭をふる藤堂に卜部の指先が触れた。弾かれるように藤堂はそれをはじき返した。その時になって藤堂は初めて卜部を見た。
「ぁ、わたし、は」
卜部が痛むように藤堂を見る。落ちたボトルがゴトンと重い音を立てた。卜部は呑みさしのそれに蓋をしてから時間をかけて藤堂に触れた。
「中佐、俺は卜部ですよ。卜部巧雪。あんたもよく知っている、でしょう」
血の気を失った頬に触れて卜部がにやりと笑んで見せる。
「うら、べ。こうせ、つ」
「そうっすよ。間違えないでくださいね、後々厄介なんで。朝比奈あたりに知れたら、俺は殺されかねませんよ」
「あさ、ひな」
目蓋の裏に朗らかに笑う青年が浮かんだ。それだけで。それだけで戻ってくる日常。震える吐息を吐く藤堂に卜部は微笑した。独占に重きを感じさせない度量に嘆息する。卜部は強い、そうとても強くて。だからこそ魅入られる。その強さはきっと腕力だとか言った直接的なものではないのだ。
「こうせ、つ」
藤堂は差し伸べた腕ももどかしいと言わんばかりに抱きついた。卜部は痛いほどの拘束を甘んじて受ける。
「巧雪、私は」
「悪い夢です。起きぬけには悪夢をよく見るんだってあんたが言ったんですよ、悪夢の続きっすよ。ほら目を閉じて」
卜部の腕が藤堂の体を横たえる。藤堂の体もそれに逆らわなかった。なすがままなのは藤堂の気質にも通じた。与えられるものは受ける、それが負の要素を含んでいても。
 「目を閉じて。悲しいことなんてないっすよ。寝てください」
「私は…私の、過去は」
「過去はあるだけでいいんです。気負うのも必要以上に意識するのも大変っすよ。忘れないだけで、いいんです」
藤堂の閉じられた目の淵から雫が伝った。卜部はそれを見ないふりをする。気づかないふりを通す。抱擁してやれば藤堂の体は震えて応えた。藤堂の唇がわななく。
「口を利く必要はないっすよ」
先を見越したような言葉に藤堂は息を呑んだ。乾いた唇を舌先が巡って湿す。何気ない仕草が目を惹いた。卜部はその唇へ吸い付きたくなるのを必死にこらえた。
 藤堂はその所作が目を惹く。いまどき珍しいような一本気の日本男児のありようは同性すら魅了する。エリア11と名を変えても変わらない本質があるのだと安心させる。藤堂自身が旗印となるにはそれなりの理由があった。
「中佐、落ち着いて。寝てください。隣に、いますから」
藤堂の指先が不安がるように寝台に爪を立てる。関節が白くなるほどの力の入りようが藤堂のありようを示した。
「中佐」
言いつのって初めて藤堂は意識が行ったとばかりに指先から力を抜いた。代わりに呼吸がせわしなくなる。藤堂の安定をここまで崩す存在に卜部は唾を吐きかけてやりたくなった。己の力量など己が一番よく知っている。できることなど高が知れている。目を覆うように手の平をかぶせて寝かしつけるだけが精一杯だ。根本を癒すことなどできない。それは己がよく知っている。藤堂の傷は深く。その傷の原因の一員が己の所為だと卜部は多分知っている。
 「寝てください。それがきっと…一番、いいから」
卜部はただ忘却を促すので精一杯だ。ふさぐことはできず、癒すことなどなおできず。ただ麻薬のように痛みを忘れさせるのが限界だと知っている。
「鏡志朗」
耳朶で甘く囁けば藤堂の体はくたりと力を失う。そのうちに穏やかな寝息を立てるのを聞いて卜部はようやく安堵する。手の平で目の辺りを覆う不自然な姿勢のまま卜部がこらえた。そのまま寄り添うようにそばにいる。
「…鏡志朗」
閉じた目蓋。睫毛が思いのほかある。それでいて存在を主張することもなくうまくおさまっている。濡れた睫毛に卜部は眉根を寄せたが何も言わなかった。かぶせていた指の股あたりの湿り気に卜部はやるせなさを感じる。藤堂の涙するような鬱積を抱えきれていないのは明らかだった。
「俺なんかで、いいんですか」
藤堂の自責の念は今に始まったことではない。時代遅れの戦闘機を駆っていた頃から藤堂にはそのきらいがあった。何か機会があれば己をおろそかにする上官を気遣うのは卜部だけではない。朝比奈などはあからさまに言葉にして藤堂の戦死を防ぐ。藤堂は如何も己を疎かにする傾向がある。
 「きょう、しろう」
藤堂の眠りは深く少しばかり揺すったところで目覚めはしない。そうと知って卜部は声をかけている。藤堂が深い眠りにつくのは限られた人間のところだけだと知っているのが、そういう不条理を起こさせた。気づかれないと知って声をかける。そこに意味はない。気づかれないことや答えがないのは百も承知だ。それが当たり前として問いかけている。返事があったらそれこそ驚く。
「…あんたはそういう人っすよね」
不満げな言葉尻とは反対に卜部は満足げに笑んだ。卜部が体の交渉を含めた付き合いをほのめかしたとき、藤堂は構わないと答えた。酒の席だったこともあって冗談としてい受け取っていた卜部だったが、藤堂にとってそれは冗談なんかではないのだと知った時に何かが変わった。藤堂の体は男を知っている。抱けばそれは判る。だが藤堂はその相手の情報も漏らさなかったし卜部の方でも訊かなかった。過去を聞いても詮無いと卜部は個人的に思っている。取り戻せない過去を嘆くより現在を生きた方がよほどいいと思っている。卜部のそういう思考を藤堂は若いなと言って微笑した。その笑みは痛いような苦しいようなそれでいて求めているような気がして、卜部は声すら立てられなかった。
 「俺のこともそうして覚えていてくれますか」
耳朶に吐息とともにささやいてから卜部は笑った。藤堂は目蓋を震わせたがついには目覚めなかった。震える目蓋を見ながら卜部は濡れた頬を撫でてやった。
「まったく、嘘ばっかりだ」
卜部は笑って藤堂に口付けた。誓いの口付けだった。

君を慕う
君を好む

ついた嘘に退路を断たれても


《了》

…なんていう話を書いたか忘れた(待て)
ちょっと話を挟んだらもうわかんねぇでやんの! 馬鹿! 馬鹿!(じたばた)
似たような話をもう一本書くつもりです。(懲りない)
笑ってやってください。誤字脱字も笑ってやってください。(最低ライン)
卜部さんが激しくキィパーソンです。本当に誤字脱字ないといいな…!         02/22/2009UP

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