きっと、ちょっとした
理由なんてないんだよ
藤堂は足早に人気の絶えた倉庫へ向かった。足音がこつこつと軽快に響くのを聞きながら、それを聞きつけた誰かに引き留められるのを危惧した。藤堂は愛想こそよくないが基本的に相手を邪険に扱ったりはしない。その性質が災いしてか、藤堂の一人になる時間というものが極端に減った。初めの頃は黒の騎士団に部下である四聖剣達がとけ込む切欠を作れるならと容認したが現在では多少状況が変わりつつあり、苦笑を禁じ得ない。邪険にされるよりはましだと思うが時折、放っておいて欲しいと嘆息するようになってしまった。落ち着いた構えの藤堂には本来の仕事である戦闘に関する質問から人生相談までもが持ち込まれる。それぞれに応えてあしらううちに、藤堂は直属の部下であった卜部の所へ足しげく通うようになった。
卜部はどんな非常識な時間帯でも嫌な顔をせず藤堂を迎えてくれた。無駄口をきかない性質の男二人では歓談とはいかず沈黙のままある程度の時を過ごすこともあった。けれどそれが気まずくなることもなく、藤堂が頻繁に訪おうが間を空けようが卜部は態度を変えなかった。何より卜部は藤堂の手を煩わせることがない。朝比奈などは親しいものとしての権利を主張して藤堂を構うが、卜部はこの気まぐれな会合の外で藤堂を支配する権利など謳わない。藤堂が訪ったときは受け入れるが呼びこみはしない。それは少し野良猫に似ているなと藤堂は詮無く思った。餌をしつこくねだらずくれるならば貰おうという凛とした気構えが見える。事実卜部は人付き合いこそこなすが親しくするものの数はそう多くない。その中の一人になれたことに藤堂の心が浮き立った。
そうこうして胸の内をさらすうち、藤堂が卜部を特別視するようになったのは時間の問題だっただろう。卜部と藤堂の付き合いもけして短くはないし、互いの弱味も知っている。見せてきたのも見てきたのも綺麗なところだけではない。藤堂は数日間かけて答えを出してそれを卜部に告げた。肉体関係を伴う感情としての好意だと決死で告げた藤堂に卜部はいつも通りの表情で俺もですと答えた。それから二人は互いに仕事を終えれば逢瀬を重ねた。逢瀬はほぼ人気のない場所で示し合わせたかのように前約束もなく落ちあう。連絡など入れないし、待ちぼうけを食うこともあれば食わせたこともある。だが卜部は肉欲を伴うと明言したわりに手を出さない。かといって受け入れるのかと思えばそうではないらしい。卜部は女役に回る気はないと明言こそしたが性交渉を持とうとしない。朝比奈などの隙あらばわけいらんとする様を見ていると自分にはこういった魅力が欠けているのかもしれないなどという懸念すらわいた。あばたもえくぼとはよく言ったものだがその逆もまた良くあることだ。
走る速度を落として藤堂は息を整えた。ひょろりとした長身を壁に預けてぼんやり虚空を眺める卜部が見えた。そうしているとまるで約束を反故にされた間抜けな男のようだが、卜部はそう言った評判を気にせず放置している。
「卜部」
声をかけると絵画のようだったその光景が動きを得た。卜部は微笑して藤堂を迎えた。
「何かあったんすか?」
「…なぜ、そう思う」
藤堂の乾いた声が震えたが、卜部はそれを言及せずに笑った。卜部の長い指が眉間を示す。
「いつも以上にしわが、寄ってます」
それを見て顔をしかめる藤堂の様子に卜部は愉しげに笑んだ。振り払うように頭をふって藤堂が向き直る。いつにない真剣な様子に卜部も微笑を引っ込めた。藤堂の喉がごくりと鳴った。
「卜部、私は…私は――役に立っているか?」
「はぁ、役?」
卜部が何度か目を瞬かせてから問い返した。真意を掴み損ねたと言いたげだが藤堂を気遣っているのがありありと判る。必要ならば笑ってすます覚悟があるのが窺える。
「あの、役って何の?」
しばらくの沈黙の後に卜部は問い返すことを選んだ。真意のつかめぬまま返答は出来ぬという優しさが見えて藤堂は目を伏せた。卜部は目を惹かないがその分実直だ。派手さはないが堅実性はある。彼には相手と向き合う時間を惜しまないだけの余裕があった。
「…私が、訊きたいが。お前に好きだと告げてから、しばらく経つがお前は交渉を持たんし。私に飽いたのならそう言ってくれて構わないが」
言いながら藤堂の気分が激しく滅入った。言葉にしてしまうとそれが事実のようで自分の気持ちは独りよがりだったのではないかという不安が去来した。卜部の態度を信じたい気持ちと疑念とが複雑に絡む。
「…中佐はいるだけで役に立ってますけど。それに今頃抜けるなんて周りが赦さないんじゃないっすかね」
「お前はどう思うと訊いているんだが。卜部巧雪が、私をどう思って、いるか、が!」
言葉を紡ぐうちに激昂した藤堂の唇を卜部の指先がツンとつついた。藤堂はその指先を払うとそっぽを向いた。
「私が要らないならそう言ってくれなければ私もどうすることもできんし」
「…なンか妙に卑屈っすね」
冷静な卜部の言葉に藤堂の頭に血が上る。ぐんと卜部の胸倉をつかむと茶水晶の瞳を睨みつける。藤堂の灰蒼の瞳は冷徹な刃のようで睨まれると怖いという評判がたっていたのを、藤堂は激昂する気持ちの裏側で思いだした。それでも卜部はひるみもしない。
「お前、は…」
藤堂の手が震えた。卜部は抱き寄せることはなかったが突き放しもしない。藤堂の顔がうつむいて自然と手を離した。馬鹿馬鹿しいような、それでいてこの態度にかすかな望みをつなぐ浅ましさとやるせなさが藤堂の体を埋めた。
「お前にとって、私はなんだ? いる価値が、いるだけが価値なのか? 存在だけでいいなら私は木偶にも等しい…」
卜部の片眉だけぴくりと跳ねる。卜部のそうした仕草は何か言いたいのをこらえているからだと最近気づいたことを思い出す。卜部は呑みこむことに慣れている。藤堂もいい加減、我慢強いにもほどがあると言われたが卜部はその我慢すら悟らせない。藤堂のように我を主張して関係を断絶するのではなく相手への影響を考えて卜部は振る舞う。たいていのものはそうした何の不具合もない関係が卜部の堪え性で成り立つことに気づきすらしない。
「わたしは、おまえ、と」
ふぅっと耳朶を温い空気が流れた。かすめたそれが吐息なのだと気づいて顔をあげたところで卜部が唇を重ねた。
「ひょっとして、抱かれたかったんすか?」
見るみる藤堂の顔が紅くなっていく。耳や喉まで真っ赤にして藤堂は思いつくままに言葉を連ねた。
「べ、つにそういうわけでは! 私は、ただ…! お前が、その、抱かないから…別に抱かれたいとは…だが」
卜部の口元が震えて笑いをこらえるが藤堂は気付かず取り繕うのに必死だ。
「つ、付き合うというかそういう関係性を持つ必然性がな…! 要らぬのではないかと、負担になるならばよそうと思って、私は、別に」
自身をかえりみない癖のある藤堂の必死の自己防衛は微笑ましく、卜部は笑いをこらえきれなかった。自己防衛の状況にまで卜部を引き合いに出す藤堂の人の好さは愛らしい。稀有なその性質はそれ故に人目を惹く。
「か、からかったのかッ?」
ヒィヒィと笑っている卜部にようやく気づいた藤堂が悲鳴のように叫んだ。普段から落ち着いてどちらかといえば人をなだめる方が多い藤堂のうろたえや激昂は物珍しい。卜部は謝りながらも笑いをおさめることができずにいた。藤堂がどんな立場にいてどう見られているのかはよく承知しているつもりだ。選ぼうと思えば選べる立場上、藤堂がいつでも縁を切れるよう深入りを避けていたのだがそれが仇になったのだと卜部はようやく悟った。藤堂が求めていたのは後腐れのない淡白な関係ではなくもっと無様で直接的に触れることのできるものだった。
「すんません、馬鹿にしてるわけじゃあないンすけど。奇跡の藤堂が俺なんかでおたおたしてると思ったら、嬉しいンだかおかしいんだか」
「…私はそんな、思われているほど高潔ではないんだが」
「それがよっく判りましたよ。中佐にも性欲、あったんすね」
「…人並みではないのか? 過剰でも少なくもないと思うんだが」
戯言にまともに返答する藤堂の顔は本気で卜部はさらに笑った。
「お前こそ仙人のようななりをして」
「そうっすかね。そりゃあ失礼しまして」
笑いながら片手間に謝罪する卜部が藤堂を茶化しているのは目に見えて判る。藤堂はふんとそっぽを向いた。子供の拗ねたような仕草に卜部は口の端をつり上げた。藤堂はあれで公私の境界はきっちりしていてわきまえを知っている。こんな困らせる仕草も気心の知れた仲だからだと思えば愛しさも増す。紅い頬のまま唸っていた藤堂が不意に手を伸ばした。その勢いのまま口付ける。がちりと互いの歯がぶつかる衝撃もものともしない。かえってそれだけの激しさがあるのだと気分を暴走させた。藤堂の熱くぬめる舌先が卜部の口腔を犯す。
「…言っただろう、私は聖人君子ではない。それなりに、欲もある…!」
卜部の指先が離れようとする藤堂を引きとめて、さらに深く犯した。互いの舌先が絡みついて吸い上げる。一線を越えた付き合いを自覚してから初めての激しい行為に藤堂がとろけた眼差しを向ける。灰蒼は蠱惑的に潤んでトロンとする。
「うら、べ?」
「…こうなるって判ってたから我慢したンすけどね…本気で反則だ、その目…」
藤堂がぎゅうと抱きつく。瞬発力もある程度に筋力も有する腕の拘束に卜部が笑った。藤堂の甘える仕草など滅多に見れるものではない。硬い鳶色の髪を梳くようにして頭を撫でる。
「どうします、部屋ぁ行きますか?」
藤堂は笑って頷くと卜部の首筋へ吸いついた。交渉の跡でも残して困らせてやれという悪戯心に気づかぬ卜部が藤堂を部屋へ連れてゆく。卜部は交渉を行うにあたって藤堂が不平等を感じるほどに、藤堂の体へ跡を残した。
《了》