愛おしいそれら
愛し子
久しぶりに食堂で摂った昼食について語りながらスザクとセシルは研究室へ戻っていた。
「意外と量もありますよね、ここの食堂」
「私はもう少し甘味があってもいい味付けだと思うけど」
スザクは一瞬目を瞬かせたが口元を引き攣らせて小首を傾げるにとどまった。セシルの破壊力抜群の味覚は彼女の手製の差し入れからも窺い知れる。何も知らない頃何度かその餌食になっているスザクとしては一日でも早く彼女が真っ当な味覚を認識してほしいというだけだ。
「あら、子供?」
セシルの声に目線をやれば確かにまだ幼い足音がした。
「声、かけてきます」
スザクは素早く言うと幼い足音を追った。コンパスの違いもあってスザクはすぐにその人影に追いついた。
「君、どうしたの」
その華奢な肩を掴んで振り向かせれば、どこかで見たような薄氷色の瞳が煌めいた。視力に障害があるのか眼鏡をかけている。髪は肩へつく程度には長いのだろう、ひとつに結われていた。完全なる黒色ではなく、透けた感触のある黒褐色をした髪。この雰囲気も気配や所作の具合すら知っているような気がした。ついでにあり得るはずのないものが頭の上に鎮座していた。猫耳である。ご丁寧に尻尾まで付いている。
「…君、名前は?」
スザクは相手が少年だと見当をつけて訊いた。幼くまだ性的に未分化な状態にあるが選んでいる衣服が男の子のそれだ。個別の差こそあるが女性は女性として扱われるのを好む。相手が自分の性別を認していると気づけば幼い子はすぐに訂正してくる。
「…ギルバート。ギルバート・G・P・ギルフォードですけど。あなたは?」
呆気にとられて動けないスザクのもとへセシルが追い付いてきた。
「スザクくん、その子の身元判った?」
「あのう」
固まって動けないスザクにギルフォード少年は問うた。
「ロイド伯爵のいる場所、知りませんか。ぼく、ご飯がまだで」
「ロイドさんの居場所? ねぇ、スザクくん、この子は」
はぁーっと大きく息をついて深呼吸してからスザクはセシルの方をちろりと見た。
「ギルフォード卿です。ロイドさんが関係しているんでしょうね」
「ギルフォード卿?!」
セシルも開いた口がふさがらないと言った有様だ。耳をぺたりと伏せてギルフォード少年だけが困ったように二人を交互に見つめあげた。スザクはその小さな手を引いて歩きだした。かつて藤堂はこんなふうに自分を見ていたのだろうかと無為に想いを馳せた。
「連れて行ってあげるよ。俺たちもロイドさんの所へ行くところだったから」
「ありがとうございます」
ギルフォード少年のしつけは行き届いているらしく品のある様子で頭を下げた。
「戻りました、ロイドさん!」
セシルが駆けこみ、スザクもギルフォード少年を伴って研究室へ足を踏み入れた。
「なになぁに? 怒らないでよぅ、今集中しているのにー」
チチチチチと細かく連打するような微細な音をさせてコンピュータが計算しているのをロイドが難しい顔で睨んでいた。ギルフォード少年はスザクの手を振り払ってロイドのもとへ駆け寄る。尻尾が心なしか嬉しそうに揺れている。長い毛並みも見事な尻尾だ。黒絹の艶の耳や尻尾がパタパタ動く。
「あれあれ? ここまで来ちゃったのぅ? よくここが判ったねぇ」
ロイドは驚いた顔はしたがギルフォード少年の存在を知っていたと見えて動揺はしなかった。
「誰もぼくに気づいてくれなくて、ご飯、どうしたらいいかなって」
「あぁ、もうそんな時間」
ロイドの方はいたってのんきなものだ。ようやく時計に目をやって時刻を認識したらしい。
「ロイドさん、これはどういうことですか」
若干、語気を強めるスザクにロイドはにゃあと笑った。
「うふふ、ギルフォード卿ですよ? 正真正銘のね。ちょっとした実験薬の効果、これは」
「また何か作ったんですね」
セシルは心当たりがあるらしく嘆息している。セシルとロイドの関係はかなり長く続いているらしく、セシルはロイドの奇矯な振る舞いにも慣れている。
「実験薬?」
怪訝そうなスザクにロイドはぱぁっと花が綻ぶかのような笑顔を見せた。穏やかそうな顔立ちをしている所為か笑顔の良く似合う男だ。ギルフォード少年の頭をよしよしと撫でながら耳をピンとつまんで見せる。それにつられたのか尻尾までもがぴんと立った。
「猫化と幼児化は同時に起こり得るか。またそういう効能のある薬を作り得るか?」
「時間と経費の無駄じゃないですか」
ずばりと切り捨てるスザクにロイドがぶぅーと頬を膨らませた。
「だってさぁ、風の噂でラクシャータが藤堂っていう被験者で実験したって聞いたんだもん。僕だってやってみたいよぅ」
「藤堂さんが、子供化…猫化!」
そういえばそんなことを聞いてランスロットで黒の騎士団本部へ文字通り突っ込んだのはこの枢木スザクだ。
「うふふふ、かわいいでしょー? 記憶はなくなっちゃったみたいなんだけどねぇ、その分素直みたいでいいかなぁって」
「ごはんは?」
ぐぅーと間抜けた腹の虫の声に一同の視線がギルフォード少年へ集中した。白い肌を真っ赤にしてうつむいてしまう。尻尾が恥ずかしげにくるんと巻いた。
「私が何か作りましょうか?」
「いや、それはちょっと」
「いえいえいえ僕と食堂に行きますからぁ」
思わず身を案じたスザクとロイドはセシルの申し出を丁重に固辞した。なにも知らないギルフォード少年だけがぽかんと三人を見ている。
「一緒にお風呂とかいうのに入ろうと思いましてねぇ、うふふっふ。シャワーじゃなくてバスタブにつかるんですよねぇ? 一緒に入りましょうね、ちゃんと今夜の予定は予約してあるんですからぁ」
「あぁ…俺も藤堂さんとお風呂入りたいな…」
いささか現実逃避を起こしているスザクをよそにロイドはその白い頬をこすりつけて抱きしめる。セシルは優しげに尻尾や耳を撫でていたが遠慮なく抱きつくロイドが羨ましそうだ。女性というのは往々にして小動物を愛する。
「本当にギルフォード卿なんですか?」
「当たり前じゃないですかぁ、僕が一服盛ったんですから」
平然とロイドが宣言する。
「朝、目が覚めたら、だぼだぼの寝巻と覗く鎖骨。可愛らしかったですよう、しかも猫耳と尻尾つきでぇ」
うっとりと語るロイドに毒されたのかセシルは羨ましそうにギルフォード少年の頭を撫でた。彼も不快ではないらしく好きにさせている。スザクはぶつぶつと何か呟いていた。
「藤堂さんの猫化…子供化…次に連絡着たら絶対一番乗りしてやる…」
「藤堂ってだぁれ」
「うーん、今戦ってる相手の幹部、とでも言っておこうかしら」
耳ざといギルフォード少年にセシルが困ったように応えた。猫化によって聴力など身体能力に影響が出ているようだ。張り付いたままのロイドを重そうに揺すって床へ座り込む。セシルが察して引き剥がそうとするがロイドが聞き入れない。セシルが困ったように息をついた。
「ごはんは? おなかすいたんですけど…」
「あは、はいはい、一緒に食堂行きましょーね」
「やっぱり私が何か」
「いやいやいやいや、本当に大丈夫ですからぁ」
嫌な汗をかきながらロイドはあくまでも固辞する。それでもセシルとスザクが食堂まで付いてきた。お目付け役というのは言い訳で実のところギルフォード少年に興味があるからにすぎない。
背丈こそスザクやロイドの半分か三分の二ほどしかないが楽しそうに尻尾を揺らして食事の品定めをする様は完全に猫だ。周りは一瞬どよめいたが、ロイドの連れということもあって付け耳などと決着を見たらしく深い追及は受けなかった。スザクがはぁーと息をついて揺れる耳をつついた。
「藤堂さん、また猫化とかしないかな…してくれたら俺が絶対引き取って育てるのに」
「スザクくんも根本はロイドさんと同じなのね…」
セシルがひきつり笑いを浮かべていったが、当のスザクとロイドは毛ほども気に留めない。
「でも確かに可愛いわね…」
辺りを窺うレーダーのように耳をぴくぴくさせながら行儀よく食事している。猫舌なのかふゥふゥといちいち冷ましているのが可愛らしい。
「ほっぺ、ついてますよぅ」
チュッとロイドが口付ける。ギルフォードはくすぐったそうに身をよじってキスされた箇所を拭った。
「傷つくぅそれぇ」
ほぇんとしたギルフォード少年の顔にセシルは笑いをこらえるのが必死だった。
「ロイド! 貴様、ギルフォードに何か一服盛ったと」
声高らかに食堂に怒鳴りこんできたのは神聖ブリタニア帝国の皇女であり、ギルフォードの本当の主であるコーネリアだ。セシルがさっと顔を青ざめさせたがロイドは平然としているし、スザクに至っては現実逃避で意識がそぞろだ。
「――…ギ、ギルフォード、か?」
猫耳をぴくぴくさせて長い尻尾をくるんと巻く。黒絹の艶を持つ毛並みである。加えてまだ半ズボンをはく年頃の背の小ささと元来顔立ちが整っているのだと証明した可愛らしさ。よく美人は幼いころは逆の性別にみられるという俗信がある。まさにそれを地で行った可愛らしさだ。コーネリアも言葉がない。
「皇女殿下、渡しませんよぅ。今は僕のものなんですから。それに記憶もないから何か言ったって無駄無駄」
周りが恐縮して敬礼しているのにロイドは平然と食事を続ける。
「ず、ずいぶん変わるものだな…ねこ、みみ?」
恐る恐るコーネリアが耳を撫でてやればギルフォード少年はごろごろと喉を鳴らした。
「うふふふ、欲しくなったかな?」
「戯言を! わ、私はこんな!」
「だぁれ」
「コーネリア皇女殿下です、ギルフォード卿」
スプーンを咥えたまま「う?」と小首をかしげる様子に辺り一帯が撃沈された。可愛らしいのだ、文句なしに。
「ギルフォードは本来私に所有権が」
「今この状態で騎士だって言って通じると思いますぅ? 僕の実験体ッて言った方が筋が通りますよーぅ」
ぎりぎりとコーネリアとロイドがにらみ合う。コーネリアも分をわきまえてはいるが元より上流階級育ちだ。思うままにならなかったことの方が少ないくらいだ。対するロイドも奇矯な振る舞いで我を通してきた歴戦のつわものだ。元々退いてやる気など欠片もない。それにロイドは皇帝すらどこか嘲った眼差しを向けるほどだ。皇女という位の威光など毛ほども感じない。
渦中のギルフォードはスプーンを咥えたままうつらうつらしている。腹がいっぱいになって眠いのだろう。察したセシルがそっと椅子のスペースを空けてやりそこへ寝るように導いた。上に上着をかけてやる。スプーンを握りしめたままギルフォードは穏やかな寝息を立て始めてしまった。
「あぁ!」
気づいたロイドの声をセシルが塞ぐ。
「ロイドさん、静かに」
「なんだ寝てしまったのか…か、可愛いな、寝顔が」
コーネリアが頬を染めて覗きこむと呟いた。スザクは平然と「藤堂さんの方が可愛いです」などとのたまうが誰も聞いちゃいない。
「あぁ! 駄目だ我慢できない気になる! 藤堂さん、待ってて! 枢木スザクが今行きます!」
スザクの宣言にセシルだけがびくりと反応した。
「ランスロット、出撃します!」
「は? 出撃?!」
言い放って食堂を飛び出していくスザクにセシルとコーネリアの目が釘付けだ。その隙をついてロイドはギルフォード少年を抱えて食堂を飛び出した。痩躯で腕力もあまりないが子供一人抱えるくらいならわけない。
「ロイド?! どこへ消えたあのマッドサイエンティスト?!」
セシルだけがため息をついて放置されている食事をお盆ごと片づけ始めた。
後日になってコーネリアは元に戻ったギルフォードを私室へ呼び出した。
「…な、なんというか、何か変わったこととかはないか」
「変わったこと、ですか?」
うーんとしばらく小首をかしげるが不意にギルフォードがその頬を赤らめた。
「あるんだな」
コーネリアの内部でふつふつとマグマがたぎる。
「い、いえ、些事です。大したことではないのですが」
「何でもいい、言ってみろ」
ギルフォードの紅い舌先が紅い唇をぺろりと舐めてから恥ずかしげに切り出した。
「ろ、ロイド伯爵がその…私のほくろの位置をすべて知っていまして」
ガダーンとけたたましい音をさせてコーネリアは椅子を蹴り捨て部屋を飛び出してロイドのいる研究室へ怒鳴りこんだ。ギルフォードはわけもわからずそれを追う。
「ひ、姫様?! ですから、大したことではないと」
「考えを巡らせろギルフォード、ほくろの位置などを考えろ! おのれあのマッドサイエンティスト! ギルフォードに何をしたッ?!」
扉を蹴破るコーネリアにロイドは傲然と勝ち誇った笑みを浮かべた。
「色んなことしましたよぅ、うふふふ」
ギルフォードは羞恥のあまり耳まで真っ赤になってうずくまってしまうし、コーネリアは怒りに顔を歪ませて怒鳴りこむしで研究室が騒然とした。涙目のギルフォードを訳知り顔のスザクがポンポンと肩を叩いて慰めた。
《了》