現在と過去と、そして
あなたと私
腐臭のする裏通りは妙な活気に満ちている。通路にまで領域を広げた飲食店や、肩や脚もあらわな女性と抱擁とささやきを繰り返す男。ここでものを言うのは現金と腕力で、家柄や階級は無意味でありそれどころか標的とすらなった。ギルフォードは口の端を引き結んで歩を進めた。立ち止まればどこからともなく伸びた手が体をさらなる裏道へ引っ張りこみ、そうなれば後はもうどうなるか判らない。貴族階級の出身であるギルフォードの根底を嗅ぎとった連中の胡散くさそうな視線がぴんと伸びた背筋に刺さる。衣服もなるべく量産品を選んだ。それでも染みついた気配までは消せず、ギルフォードは揶揄や侮蔑を含んだ挑発を受けた。それらすべてにギルフォードが勝利し、今こうして路地裏を歩いている。
待ち合わせ場所は開けていて、客待ちの娼婦や少年の姿が見えた。ヒビの入ったコンクリートの噴水が新鮮な水を循環させている。夜空の月明かりを反射して水はきらきらと輝いた。行き止まりの壁へ背を預けながらギルフォードは携帯を取り出した。着信履歴はめったにない名前を表示していた。付き合いも深くない間柄の彼からの着信は驚愕でしかなかった。彼が自分の番号を記憶していたらしいことにも驚く。同じブリタニア軍人として連絡機器の番号交換くらいはしただろうが、その後の付き合いはあまりなく忘れかけてすらいた。ボタンを押して画面を操作し携帯を隠しへ戻す。目を上げれば、目立つ人物が現れたのが一目で判った。
青磁色の髪は襟足を立たせてうなじもあらわにしている。人の好さそうなそれでいて頑固そうな瞳は琥珀色をしている。顔の半分をオレンジ色の仮面が覆い瞳に当たる部分はシャッターがおりているかのように冷たい灰色をしていた。服装の貴族趣味は相変わらずだが橙色の仮面は知らない。皮膚と癒着してでもいるのが留め具もなしに顔へ嵌まっている。彼が気付いてにやりと笑った。ギルフォードは口元を引き結んで眉を寄せた。
「オレンジ君」
「私の名前すらお忘れかな。ギルフォード卿」
ギルフォードは威嚇するかのようにジェレミアを睨みつけた。ジェレミアはさりげなくギルフォードの退路を断つ位置に立ち、ギルフォードを壁際へ追い詰めた。シュッと摩擦音をさせて右袖から刃が飛び出す。その切っ先はギルフォードの頬へ紅い線を引いて壁に突き立った。温い血液が頬を伝う感触にもギルフォードはひるまない。
「なるほど、お変わりないようだ」
ジェレミアはあっさりと刃を引き、袖の中へ刃が吸い込まれるように消えた。戯れに付き合う気のないギルフォードは簡潔に用件を述べた。
「オレンジ君、私に何の用だ。いまさら、私に声をかける利などないだろう」
「確かに、無い。私にとってあなたは憎みこそすれ…それでも忘れられないというのは恋に似ている」
「馬鹿馬鹿しいな。思想や感情を論じるつもりはない。用件はなんだと訊いている」
「冷たいな…」
ジェレミアの指先がギルフォードの細い頤を捕らえた。身長に大した違いはないが態度の大小が違った。多少なりとも萎縮を感じているギルフォードと違い、ジェレミアはこの路地裏でも変わらない態度をとった。物事を動かすのは自信と勢いだ。正誤は問題ではないし主義や主張など儚い概念にすぎない。それをギルフォードはここ数日で思い知らされていた。
「だがそれもまた魅力となりえる美貌だ」
唐突に重なった唇にギルフォードは立ち尽くした。薄氷色の目が眼鏡の奥で見開かれていく。重なった唇の間を割ってぬるつく舌先が侵入してくる。その時になって初めてギルフォードは口付けを自覚し、体が反応した。
「――ッ! や、めろ!」
肩を掴んで引き剥がす。ジェレミアは大した抵抗もせず離れていく。ギルフォードは肩で息をしながら唇を拭った。
「なぜ嫌がる。慣れている顔をして」
「ふざけるなッ!」
ギルフォードの腕がしなってジェレミアの頬へ平手を炸裂させた。仮面ではない肉体部分への打撃はそれなりのダメージがあるらしく赤黒く腫れていく。成人男子の容赦も手加減もない一撃だ。それでもジェレミアは楽しげに笑んだままだった。もう一度振りあげた手を今度は振り下ろされる前にジェレミアが抑えた。体格と腕力はジェレミアに劣るギルフォードが悔しげに歯軋りしてジェレミアを睨んだ。ギルフォードは軍人としては細身の性質で力押しは不得手な方だ。その彼が今の地位にいるのはナイトメアフレームを操るのに必要なのは腕力ではなくスペックの高さに応用できるかどうかだからだ。その適応能力は過不足なく順応しなければいけない。ギルフォードの能力はそれらの課題に応え、指揮官機体を与えられるまでに至っている。
「君と慣れ合う気はない。用事がないなら帰らせてもらう」
ギルフォードは乱暴にジェレミアの腕を振りほどくと立ち去ろうとした。その目前へジェレミアは立ちはだかる。体格と腕力ではおそらく後れをとるだろう体格差だ。できればそちらへ事を運びたくなかった。ギルフォードは辛抱強くジェレミアが退くのを待った。ジェレミアは人を小馬鹿にしたような笑みを見せて片手を壁について体を傾がせた。そうすると顔が近づき口づけるかのように見える。ジェレミアの体躯に邪魔されてギルフォードは立ち去ることもできない。行き止まりに居場所を求めた浅慮を呪っても遅い。
「言ったはずだ、慣れ合う気はない! そして君と交渉を持つ気もない」
「本当に冷たい人だ…私はこんなにも焦がれているのに…それとも色でのし上がる性質か? シュナイゼル殿下の御元には通うというのに」
猫が威嚇するかのようにギルフォードは全身の毛が逆立つのを感じた。怒りに拳が震える。握りしめた爪先が皮膚を裂いてぎりっと生々しい音をさせる。隙間からぽとぽとと紅い体液が滴った。
「オレンジ!」
一閃する右手を今度はジェレミアは身軽く避けた。同時にギルフォードの脚がジェレミアの体躯を蹴りどける。ジェレミアの体躯がその衝撃に後ずさる。体を反転させながら着地してギルフォードが驚きに目を見開いた。薄氷色の瞳が収束してジェレミアを見た。
「そ、の…体は」
足に感じた手ごたえは温く血の通う肉体ではなく冷たい機械の感触だった。おそらく刃物も歯が立たないだろうそれにギルフォードはただ驚愕した。視認できる顔などは血の通う肉体であることは間違いない。重ねた唇は温く境界線を融かした。それでいて貴族趣味あふれる衣服の下は冷たく硬い機械の手応え。
「安心し給え」
ギルフォードが意識する以上の速さでジェレミアはギルフォードの胸元を掴みあげて冷たい路地裏へ投げ込んだ。ゴミや腐臭のもとへ体躯を叩き込まれる。沼からもがき出るかのように体を起こしたギルフォードのもとへジェレミアは微笑しながら歩み寄った。
「生殖器官は正常反応する。機能的にも使用形態的にも問題はない。――君を」
逃れ出ようとするギルフォードの長い髪をジェレミアの指先がからめとった。ぐんと強く引かれて冷たい通路へ押し倒される。
「ぐ、ゥッ…!」
髪を乱暴に引っ張られた衝撃は思いのほか痛い。結い紐が千切れて落ちた。幕のように黒褐色の髪が広がる。ジェレミアの体躯にその時初めて畏怖を感じた。所属上の付き合いがあった時や牢で相対したとき以上に威圧的で絶対的なそれに戦慄する。乱暴な扱いを補うかのようにジェレミアの指先が優しく長い髪を梳く。
「君を抱ける。それだけでも、私は」
重ねる唇にギルフォードは明確な拒否を示した。柔らかな唇が吸いつくのを嫌って噛みつく。裂けた皮膚から紅い体液が伝い、ジェレミアの体のすべてが機械ではないのだと立証した。
「ふん、見た目どおりだ。素直に受ける性質じゃない」
振りあげられたジェレミアの右手が一閃した。裏拳を見舞われてギルフォードの白い肌が紅紫に痛々しく腫れていく。平手にするような慈悲は持ち合わせていないらしく、一撃にも手加減はなかった。きちんとした訓練の成果が如実に表れている。体術や打撃、力押しではジェレミアにかなわなかった。ギルフォードは子供が駄々をこねるように悪あがきをした。
「あなたは」
「私は君をパートナーにする気はない! 冗談はやめて離し」
再度ジェレミアの右手が一閃した。相次いで与えられた打撃に腫れが追い付かない。痛みの感覚すら遅れ、ギルフォードは殴られたのだと認識するのに少々の間を要した。
「あなたにはずいぶん世話になったな…その借りを今、返そう」
「下衆野郎…!」
明らかな目的をもった指先の動きに体を震わせながらギルフォードが罵る。量産品の軽装で来たことが後悔を誘う。歪んだ襟や裾の狭間からジェレミアの指先は容赦なく侵入を果たした。同時に施される愛撫にギルフォードは冷静さを奪われていく。
「や、め…!」
「あなたの怜悧な容貌は破壊衝動を呼び起こす…あなたを壊してみたい」
眼鏡を奪われ視界が滲んだ。放り捨てる金属音と重なる唇の感触が同調した。仰け反る喉へ噛みつくように舌を這わせる。それは肉食獣が獲物を食むさまに似た。ギルフォードの体が震えた。留め具は一つ一つ外されていく。ゆっくりとしたそれにギルフォードは制止もできずただ享受した。逆らったところで何が変わるわけでもない無力感と反対することすら億劫な気がする倦怠感。こうして男に身を任せるのがもう何度目なのかギルフォードには判らない。シュナイゼルやロイドやジェレミアに抱かれる間にどんな違いがあろうか。
「う…ッうぅあ、あぁ…わたし、は私は――!」
堕ちた身を想えば涙が溢れた。純粋に正義を持って軍に籍を入れたはずだった。その正義は打ち砕かれただ世界は私情の塊でしかないのだと思い知らされ涙すら許されず。ギルフォードの根底を覆した彼らは後始末すらしない。涙するなど何年振りだろうか。ギルフォードは涙を失った年すら忘れるほどに。
「ギルフォード卿…」
細い手首に続く手がギルフォードの怜悧な顔を覆った。指の隙間から溢れる温い涙がギルフォードの現状を殊更に示した。それがジェレミアの意識をかき乱した。純血派を気取るほどに真っ正直な気性がむせび泣くギルフォードを放っておくなとジェレミアを動かした。
「ギルバート…!」
ジェレミアの手が力強くギルフォードの両手をどけた。涙に濡れ、嗚咽を繰り返す白い喉が際立って見えた。殴り腫れさせた頬の上を透明な涙が滑り落ちていく。
「あ、あぅ…うあぁあ…ッ」
ひくひくとしゃくりあげるギルフォードにジェレミアは盲目的に口付けた。重ねた唇は火照ったような熱さで境界線を曖昧にする。濡れた涙の液体感覚が機械の部分を惑わし、生体部分を蠱惑的に誘う。
「ギルバート…!」
ギルフォードの唇が震えた。わななくようなそれは歌うように音を、紡ぐ。
「オ、レンジ…オレンジ、――ジェレミア!」
「呼べ! 私の名を、貴様の声で、音で!」
抑えきれない高揚にジェレミアは身震いした。ギルフォードの怜悧な容貌が歪み泣き出すかのように自身の名を紡ぐ、その歓喜。
「私の名を呼べ、ギルバート!」
伸ばされた白い腕がジェレミアの首筋に絡んだ。傷一つない綺麗な肌理の皮膚。その指先が耐えるかのようにジェレミアの背に爪を甘く立てた。
「ジェレミア、ジェレ、ミア――」
蠱惑的に誘うギルフォードの体躯。長い脚がジェレミアの腰に絡んだ。ただ無心に求める腕にジェレミアは体をゆだねた。このまま心臓を突き刺されても後悔はしない、それほどに枯渇したそこをギルフォードが潤した。
君が私の名を紡ぐ、その声だけで、言葉だけで
きみがすきです
きみがすきです
潤んだ薄氷色の瞳は無心にジェレミアの琥珀色の瞳と青磁色の髪を映した。癒着した仮面ごと受け入れるそこへジェレミアは体を投げ出した。裏切りなどおそるるに足らず。
ただ、きみがため
《了》