キミのいない時間
君と、儚く
頬をこする粗い敷布に卜部は自分の居場所を見失う。ところ狭しと並ぶ機械にようやく知る。ゼロの私室。ゼロという男の登場は突然で、その場に居合わせたわけではないが語りぐさになっているそれはもう神話だ。劣勢を覆すだけの実行力がなかった日本人の団体を並べてまとめ、テロリストから反政府勢力に押し上げた。散り散りだった日本解放戦線も吸収された。その事自体に不満はない。卜部が従うと決めたのは藤堂鏡志朗という男で、彼がまだ居る以上ついていくだけだ。疎かにするつもりはないが盲信するつもりもない。他のものに比べて卜部のこだわりは斜で薄い。イレヴンだと蔑称で呼ばれれば不快だが、だから直せと突き返す気概はない。腹に重くためるだけだ。
「起きたか」
まだ高さのとがる声。濡れ髪を拭いながら歩く彼の姿形はかなり好い。怜悧な美貌を前にして醜悪であるという人間はまずいない。細い黒髪と紫苑の双眸。眦は明瞭でおおぶり。通った鼻梁は彼の血統を匂わせた。ルルーシュ。名前だけ訊いた。ゼロが目の前で仮面を脱いだときは驚いたがその目的にはもっと驚いた。重なる呼び出しと及ぶ行為に緊張や構えは擦り切れた。
上着とってくれ。隠しに煙草がある。ルルーシュはその美貌をむっとしかめた。紅い唇がすぼまる。山形が薄いがそれを補う紅さに澄んだ口唇だ。
「喫煙は嫌いだ」
「俺が喫むだけだ」
乱暴に放られた上着の隠しから煙草を取り出す。灰皿も携帯する。吸い殻という痕跡を残すことを気にしない訳にはいかない位置にいたのだ。行儀悪く寝そべったままでもルルーシュは怒らない。そばへ腰を落ち着けて珍しげな目線を向けてくる。この間のと匂いが違う。そのへんのをくすねてンだよ。喫煙室は穴場だぜ。
「手癖の悪い女だ」
「盗られたって気づいてねぇならそりゃあ盗られてねぇンだよ」
「屁理屈」
華奢な肩を震わせてルルーシュが微笑った。屁理屈と詭弁で喧嘩売る奴に言われたかねぇな。まぁ、屁理屈も理屈だ。どっちがだよ。咥えて吸うと唇の隙間から紫煙を吐く。この団体は面白いな。男ばかりかと思ったら猫もいる。そんなもんだろ。藤堂は実のところどうなんだ? 両刀だろ。あの人ァ相手で変わるんだ。案外器用な人だろ。堅物に見えンのにな。指先で煙草を挟んでくっくっと笑う。
「あんたは女みたいだけど男なンだな」
「当たり前だ。向いてない」
ルルーシュは線の細いなりにそぐわず気が強い。意思も自負もあっておいそれと曲げたりしない。
「お前は初めてじゃない感じがする」
「前歴を問われない仕事って少ないだろ」
「体つきもイレヴンにしては四肢が長いな」
きょろりと向いた卜部の視線にルルーシュがはっと口を抑えた。唸ってから小声で謝る。すまない。日本人、だ。別にいい。卜部の視線はすでに戻っている。
「体ァ何もしてねぇンだけどな。身長ばっかり伸びるから面倒くさいぞ」
中佐みてェに幅もほしいけどな。卜部が藤堂のことを口に出すたびルルーシュの表情はなにか言いたげに歪んで震えた。卜部、お前はこの団体に参加したことを悔いていないか。しねぇ。即答する。だがその微妙な言い回しを聞き逃すほどルルーシュは鈍くない。
「卜部、お前は」
「しない。考えたこともねぇ」
「論点をずらすな」
卜部の口元が笑う。あんたは騙されてくれないんだな。あの男は逃したか。男の数なんか数えてねェし顔も覚えてねェよ。
「こんなのの何がイインだろうな」
腰を覆う毛布を引っ張るとルルーシュだけが不満そうだ。お前はイイ女だ。応えずに卜部の口の端だけがつり上がる。
「卜部、お前は言わないが。お前は、本当は」
赤い唇を指で抑えた。ルルーシュの高い声が途切れる。
「あんたも馬鹿だな。そういうのは墓場まで持って行くもんなンだよ」
手当がいるから寝るンだよ。好きな奴ができれば判る。
「オレはお前に顔と名前を明かしたことを悔やんでいない。悔やまない」
黙る卜部にルルーシュが言い募ろうと唇を開く。それでも音のひとひらさえももれずに戦慄いた。判っているように卜部は先をせいたりしない。
「卜部、お前はこれからもオレと寝て、くれる…?」
震える唇を眺めながら卜部は相槌を打った。アァ。紅く澄み切る唇は濡れて紅玉のように照る。
逢瀬を重ねる度に了解が生まれる。手順は同じだ。ルルーシュからのキス。撫で回す手付きが次第に激しくなって着衣を剥ぎ取ろうとする。卜部は自ら襟を開きベルトを緩めた。ルルーシュのキスが背中へ降るときもあれば鎖骨のくぼみへ吸い付く日もある。うぶに体を震わせるとルルーシュからは殺しきれない悦びが滲んだ。こんな美貌の、しかも辣腕の男が求めてくるのだと思うたびに歪んだ愉悦が卜部を満たす。要らないと嘯きながら遠ざかれば落ち込むだろう。警戒心の強い子猫との駆け引き。背中を向けているうちは大胆なほど卜部に近寄る。振り向いた瞬間には逃げ去ってもういない。何度か繰り返した。張り詰めるそれは卜部が欲しているのかルルーシュが欲しているのかを混同させる。
「卜部」
熱っぽい睦言。首筋へカプカプと噛み付くルルーシュの手はすでに下腹部で動き回っている。息の上がる卜部の体をルルーシュがもてあそぶ。
「ン…ッ…」
震えも上昇もルルーシュに伝わっている。ルルーシュは追い立てるように指や手を這わせる。濡れた舌が首筋をべろりと撫でた。絡みつく舌の感触に身震いする。ぞくぞくした震えが腰から脳へ疾走る。歯を食いしばる口元から垂れた一滴が頤を汚す。
「ふぁ…ッああ、ぁ、ああ……」
びくびく痙攣する四肢の先端を壁にぶつけても痛みさえない。熱が行き交う。領域が膨張の果てに境界を失う。一方的な睦言。耳朶をすべるそれから目を背けながら卜部は痙攣的に慄えた。唐突な侵入と圧迫に喘ぐ。その白い背中へ爪を立ててしまう。
「ば、か…いれ……ッ…――」
「お前の中が熱い。動いてるのが判るぞ」
耳元で囁かれて紅潮した。耳まで真っ赤になって口元を引き結ぶ。ルルーシュには見えていないと思うのに笑う吐息が耳に触れる。眇めた眦へ涙が浮かんだ。悲哀ではなく感情の高ぶりによるものだ。判っていても堪えきれない。
「あ、ぁう…――…」
腰を抜ける電撃にぶるりと身震いする。ルルーシュの細身へしがみつく。汚れた頤を拭われる。
「卜部、もっと」
体が拓かれていく。
卜部が身支度を整える隣でルルーシュは膝を抱えて丸まっていた。日本人にはない伸びを含めた四肢を窮屈そうに折りたたんでいる。膝頭へ顔を伏せている。黒絹の髪が流れて顔は見えない。仮面のことを問わないのはぎりぎりの理性だ。ゼロの正体が不明になっている以上、素顔のルルーシュにゼロとして対応するのはその秘密を暴くに等しい。
「卜部、お前は誰が好きなんだ」
「誰も好きじゃねェ」
ルルーシュの体はぎゅうっと縮こまる。爪先に力が入って桜色は白くなっている。
「オレも好きじゃないって、こと?」
返事をしない。ルルーシュには好意的だ。だが添い遂げたいとか常に一緒にいたいという気持ちは薄い。卜部はあらゆる意味での束縛を嫌う。縛るのも縛られるのも不得手だ。
「うらべ、オレは。オレはお前が、本当に」
君と一緒に居たかった。
一緒にいるなんて贅沢。
「あんたの位置なら適当な猫がすぐに見つかる」
身を引くなんて話ではないのだ。
俺は候補にすら上がれない。
「お前じゃないならいらない」
なんでもする。
なんでも?
「じゃあ、取引しようぜ。頼みがあるンだ」
「俺のこと、忘れて」
紫水晶は魅力的に潤んだままで凍りつく。
どうしてそんなことをいうの。
「…どう、して? 理由もなく嫌うなんて、できない」
震えるルルーシュの声は必死だ。
考えなおせ!
卜部が微笑った。
「忘れられる」
「この関係を精算するつもりか?」
「違うって言いてぇけど、多分結果的にはそうだ」
多分俺は、死ぬときはさっぱり逝きたいんだよ。
名残惜しくったっていないなら諦めるしかねぇだろ?
俺は誰も想わない。誰も俺を想わない。
ルルーシュの薔薇色の頬を幾筋もの涙が滑り落ちる。
「だって、そんなのひどい」
卜部が袖で乱暴に拭ってやる。
俺になんか引っかかるなよ。
汚ねぇなぁ。洟が垂れてるぞ。
ルルーシュの嗚咽がこみ上げる。
いいか、あんたに言っておく。
ずっと続くことなんてない。
――俺たちは皆、日本という国がずっと在ると思ってた
見開く紫水晶に目を奪われる。綺麗だな。
移ろうンだよ。好きとか嫌いとか。相性とか。過去とか。感情とか。未来とか。
同じものなんてないし、ずっと変わり続けてる。
俺は多分どこかで消える。
そういう分なのは判ってる。
頭を振るルルーシュに卜部は言葉を撤回したりしない。
「できれば中佐や朝比奈たちにも忘れて欲しいくらいだ」
四聖剣としての卜部の戦績は忘却するには派手すぎる。
「だって、嫌だ、そんなの。勝手だ」
「いなくなるお前はいいだろう。でも、残されるオレはどうしたらいいんだ」
お前はもうお前だけのものじゃないんだ!
「我儘言ってる自覚くらいは在るけどな。あんただからさ」
あんただから言うんだ。あんただから言えるんだ。
ルルーシュが啼いた。その震えが収まるまで卜部は隣に居た。二人の指や手が絡む。
「あんたが気に病む必要は、ねぇンだよ」
遠くを眺める卜部の小ぶりな茶水晶を、ルルーシュは涙でにじみがちな視界にとらえた。見据える。
見つめる。その横顔や額や縹藍の髪や馥郁とした唇や。
卜部の信条やつもりがそれなのだと。いつ死ぬかは判らないし。その瞬間まで多分判らねぇよ。
――俺たちはそういう世界で生きてる
「だから、なんでもないって面でいろよ」
涙と洟にまみれた美貌が卜部を見上げる。鼻梁は赤らみ、眦には涙が浮かぶ。目元が赤く腫れていた。
「だってオレはお前が。お前を忘れる、なんて」
「忘れるさ。忘れるときは案外あっさり忘れるもんだぜ」
卜部はその長い四肢を投げ出す。締まったベルトや襟元をルルーシュの視線が移ろう。
「忘れることを罪に思うなよ」
わらう。
ルルーシュはかけられたギアスで一年間忘却に埋もれた
《了》