だってどうせって
君が言ったんだ
眠る酔漢
美貌の上官は多忙だ。卜部は茫洋と思った。卜部を直接的に管理する位置にいる藤堂鏡志朗は美貌だ。男だが女のようなのとは違う。彼はどこまでも男でしかないし、戦士として精悍なくらいだ。髪は短く背丈は高く、軍属に恥じない鍛えられた体躯をしている。武道を嗜むと言われれば納得するほどしゃんと伸びた背筋や姿勢の良さ。長い裾でさえうまくさばくと思うほど敏捷だが落ち着きが無いわけではない。緊急時でも的確な指示と行動ができる人物だ。戦闘機乗りとしても上級。戦闘機を使っても白兵戦で向かい合っても卜部が藤堂に勝つ確率は低い。清廉で清冽で綺麗な人だと思う。藤堂のもとに集った輩がいつの間にか四聖剣と呼ばれて気がついたら軍を抜いた。四聖剣の末席を汚す身としては藤堂に夢中になってついていった結果、周りが居なかった。
ブラブラと路地裏を歩きまわる。卜部も参加した戦争に日本は負けて、だから日本人の階級は著しく損なわれた。もともと上級ではなかったがさらに底辺を這った。非合法のやり取りは子供の頃に覚えたしそれは現在も継続中だ。支配に屈する結果として日本は名前と権利とありとあらゆる自由を失った。日本人であるだけで生活水準はかなり低くなる。殴られることを覚悟して庇護のもとに入るか野良生活をおくるかは個々人の判断に委ねられている。卜部は卜部の判断でテロリスト呼ばわりの解放戦線に身を投じた。大雑把にくくれば日本に味方するだけで締め付けはきつくなる。
「…よくもまぁ、こう連日なァ」
権利と建前という鎧うものを剥がされた日本人の実情は露骨だ。勝ち目がなければ切り捨てられる。物資やら資金やらの調達には階級を問わずに顔を出したり使い走りをしたりする。卜部の位置では行動と結果が明示されない場合も多い。
無法の界隈では抱擁する相手が異性ではないことくらい当然のように流される。年を経ようが子供だろうが買い手がいれば商売として成り立つ。真っ当な配給の締め付けがきつくなるほど路地裏はゆるやかに放たれていく。進行方向に車が停まる。黒塗りだ。いいご身分がなんでこんな。職業柄、そつのない動きで壁へ体を寄せる。吸い殻を捨てるように放られたのは長駆だ。服は着てる。放られたそれは身じろぎもせず、車は身軽に去っていく。周辺を窺いながら卜部はそれに近づいて仰天した。
「と、うど」
すんでのところで階級を飲み込む。路地裏で下手なことを口にすれば何処へ何が流れるかを追うのは不可能だ。
鳶色の固い短髪。灼けた肌は日本人の証として色が付いている。いつもであれば隙なく引き締まっている表情は目蓋を閉じて唇を薄く開いている。頬に赤みの気配を見つけて卜部は藤堂の口元へ鼻先を寄せた。酒精。舌打ちしてあたりを睥睨する。何かがズルリと引き下がる気配がした。
「藤堂」
肩を揺すっても藤堂からの反応は薄い。呼吸と鼓動を確かめる。泥酔して眠気が勝っているのだ。印象さえ残さないほどきびきびと動く四肢が今は重たげに放り出されている。
「冗談だろ…」
放っておくわけにはいかなかった。路地裏で無言は消極的な合意とみなされる。掏摸や刃傷沙汰も多い。死体が転がるならまだマシだ。卜部は腕を掴んで腋下から腕を回し藤堂を担いだ。腰のあたりを支えながら歩く。藤堂は完全に眠っているから卜部が多少よろけても不自然にはならない。背丈は卜部のほうがあっても腕力などは藤堂のほうがあるので厄介だ。警戒しながら、なんとかたどり着いた扉を蹴り開ける。卜部が自分で開拓した隠れ処だ。軍属になって提供された寝床に卜部はおさまっていられなかった。路地裏のほうが性質にあっているのかもしれない。簡素だが清潔な寝台に藤堂の体を投げた。息をついて肩を落としてから靴を脱がせたり襟を緩めたりする。
藤堂がこれほどまでに施されても目覚めないのは珍しい。気配に敏く寝顔を他人にほとんど見せない。ぼんやりしていても人が近づけばすぐに気付くし、気のおけない間柄で集まっても眠らない。酒にも強く潰そうとした朝比奈を返り討った話は卜部も知っている。襟を緩める卜部の手が止まる。眉を寄せて釦を一つ多く開いた。噛み締めた歯が軋んだ。シャツ一枚の体躯には無残な裂傷や殴打の痕がある。軍服は襟も詰まって肌の露出が少ない。藤堂の体を刻む傷跡は一つや二つではなく抉れて古いものから血が滲んで紅い新しいものまである。今まさにつけられたばかりのように赤く腫れる傷跡は熱を持っていた。触れても目覚めない。胴部に集中するそれの陰湿さと周到さは根深い。
卜部が服をそのままにして上にかぶさった。ベルトを弛めても起きない。
「鏡志朗」
普段呼ばぬ名で呼んでみる。相手が眠っていると思えばこそのちょっとした暴挙だ。藤堂は卜部より階級も戦闘力も上で、常であれば階級か名字で呼ぶ。藤堂もそれに慣れている。藤堂の肌はきちんと息づく健康的な色艶だ。酒精で赤みの混じった肌は匂い立つようだった。紅潮が顕著に現れないがちょっとした仕草が気を惹く。髪を梳くように撫でてやる。睫毛が意外と長い。通った鼻梁と薄くて暗い虚の覗く口元は艶めいた。喉元へ手を当てればしっとり馴染む。その意味を卜部は識っている。
「抱かれ慣れてるって」
温もりで緊張は解ける。意識というより体がそういうものなのだ。その落差に冷静でいられるだけの経験を藤堂は積んでいる。藤堂の体は凝固しているか弛緩しているかのどちらかに偏った。
吐息が触れると思うほど近づく。唇が触れる寸前でつぶやいた。キスしますよ。熱の接近を嗅ぎとった藤堂の口元が反射的に弛む。わずかに開く唇は妖しく男を誘う。唇を重ねた。ゆっくりとした拍動に合わせるように体温が上昇と下降を繰り返す。手脚が火照るほど熱を帯びるかと思えば思わぬ冷たさに驚く。舌が喉を塞いでいないのを確認してから卜部が離れた。瞬間に攣るような痙攣が走って目蓋が震える。卜部はわざとのしかかったままで藤堂の目覚めを眺めた。何度か瞬いた灰蒼の双眸の焦点はなかなか合わない。
「飲まされたか?」
ぞんざいな言葉遣いも咎められない。首を傾げるように巡らせて周りを眺めているが、藤堂にそれを認識した気配はない。手順としてこなしている色合いが強い動作だった。
「………だ、れ」
卜部は黙って外気にさらされている喉首に手を当てた。肌へ馴染む感触は温もりさえ移動するように錯覚する。切れ長の眦はうっとりとろける。
「何をしてたンだよ、あんたは」
ずいぶん雑に捨てられてたぜ。……酒を含んだ。のんきなこったな、薬が入ってるぜきっと。うつろな藤堂の声音に危機意識がない。藤堂は良きにつけ悪しきにつけ自らを軽んじる。相手の無理な注文にも応えようとする。しかも容易に従わぬようななりと佇まいであるから見世物のように踏みにじられる。奥の内へ呼ばれるのは藤堂の聡明さと同時に性質のわるい習慣だ。高位にいるものほど藤堂を額ずかせたがる。ステイタスの一環として藤堂は犠牲になっている。奇跡の二つ名を冠してから回数が増えた。
俺が誰だか判ってンのか。藤堂は沈黙した。こういう体勢であることについてなンか言うことないンですか。ないとも言わない。慎重で冷静であろうとする努力が見て取れる。…卜部? なんかずれるな、あんた。四肢がみじろいで敷布に畝を作る。弛んだベルトや襟元に関しても質問がない。卜部のほうが焦れてしまった。沈黙ばかり強いられる結果として藤堂は悲鳴さえあげない。怪我をしても言わないのはよしてほしい。体調が悪いのも言わない。限界を迎えていきなり倒れる。駆けつける医療スタッフに四聖剣がしぼられるのは毎度同じだ。
「あんたさ、もう少し思ったことを言えよ」
「意識をなくすほど飲んだ記憶はないが」
「もう少し慎重に飲み食いしてくれ。あんたはすすめられるままに食うだろうが毒でも」
不満そうに口元を引き結ぶ藤堂だが反論がない。図星か。嫌な的中だった。
藤堂の表情がむっとしかめられる。珍しくも不服に拗ねている。藤堂の懐や器は深くて広いから大抵のことが済む。酒精でその抑圧が取り外れつつある。
「なぁあんたさ、初めてじゃねェだろう。襟を緩めただけでこれじゃあ先が思いやられるぜ」
藤堂は卜部の予想に反して妖しく微笑うと挑戦的に唇を開いた。
「見なかったのか? 人が好い」
断りを入れるのも暴かないのもお前が初めてだ。言われた内容に卜部のほうが面食らう。傷を見た時から不穏さは感じていたが事態は想像以上だ。苦々しい顔をするのを藤堂が苦笑でなだめようとする。どうせ慣れてる。たいしたことではない。
卜部は藤堂の上から退かなかった。藤堂は仰臥したままで所在なげに視線をうつろわせてから、卜部の胸を軽く押す。退けと言われていると判っていて退かなかった。卜部。卜部? 卜部。藤堂が呼ぶ名前の声音が変わる。傲慢と疑問と焦りとで余韻の変わるそれに口元が緩みそうになる。
「眠っている相手でも楽しめる奴がいるってのは、知ってる?」
ますます険しくなる藤堂の表情に卜部は喉を鳴らして嗤った。だからあんたは気を抜きすぎだぜ。それとも。
自分なんかどうでもいいって言うか
飴色琥珀が藤堂の灰蒼を差し貫く。あんたがあんたを一番軽んじてるよな。四聖剣の面子にもそれは浸透していて酒が入るたびにどうにかならんかどうにかしたいという話が溢れる。尊重したい藤堂の意思が藤堂を突き放す二律背反に部下たちは悩んでいる。欠けて困らぬものなら好きにさせる。藤堂は欠けては困るのだ。その価値と背徳が密接に絡んだ歪んだ発露の犠牲に藤堂はなっている。
「酒に溺れてェ気持ちは判りますがね」
卜部の手がひたりと頬を覆った。酒精と眠りで火照りと発散を行き交った体は朧に温い。藤堂は触れても弛まない。叱責や悪辣な罵声の後でも藤堂に変化はない。気遣って飛びつく朝比奈がひっそりとこぼしていた。涙こぼすくらい弛んでくれたらいいのにさ。
卜部の目が眇められる。藤堂の切れ上がった眦が揺らがない。酒精で潤んだそこはひっそりと息づいて慄える。卜部の手が動きまわっても怯まない。胸のなだらかな丘を撫で下腹部へ滑り込む。脚の間を握りこんでも藤堂の反応はない。息遣いの音さえもない静寂が重たく満ちた。緊張を断ち切るように卜部はふっと息を吐いて口元を弛めた。
「やめとく。あんた酒で馬鹿になってるンだよ」
しどけなく乱れたままで藤堂は恥じらいもしない。卜部が退こうとする動きを目で追ってからゆるゆると手を伸ばす。腕が掴まれた。驚く卜部に藤堂は体を起こした。歯列がぶつかるほど稚拙でぞんざいなキス。互いの舌が行き来する。怯んで退けば追ってくる。ねっとり絡むような湿った吐息が肌をくすぐる。ちゅう、と離れた舌先を透明な糸がつないでぷつんと切れた。
「私を優しく抱くものは夢の中でしか知らない」
濡れた唇の蠢くのを卜部の舌が一掃するように舐めた。
「じゃあ夢だよ」
藤堂の体を横たえて釦を外す。弛めた場所をくつろげて鼻先を押し付ける。藤堂は虚ろに天井を眺めた。卜部の腕にしがみつく指先にはくっきりと跡が残るほどの力がこもっていた。
「全部、酒の見せる夢だから」
忘れちまえよ
卜部は藤堂の膕を抑える。抵抗はなかった。酒精は色香のように匂い立って麝香のように染み付いた。
《了》