噛むみたいなキス
はいりこむ熱
艶舞
目の前の幼顔が見る見る歪んでいくのを藤堂は遠く眺めていた。理由が飲み込めないから他人事だ。朝比奈が眼鏡をいじったり位置を直したりするのは気に障ることがあるからだと知っている。稽古中や戦闘中などどんなにずれても直さない。藤堂がそれは見えていないのではと気にして声をかけることをいつも逡巡する。身なりに構わないようでいて、朝比奈の前髪は俯くなりに線を描くように揃うし眼鏡の硝子もよく磨かれている。朝比奈はその執拗さを隠したりしない。特に悪いとも思ってないから藤堂も直せとは言わない。初手合わせの際に手加減なくぶちのめしたがその後でも朝比奈は事あるごとに食って掛かった。その食いつきの執拗さは年長になれば失われてしまうだろうたぐいのもので、だから特に気にもしなかった。そのツケをいま払っている気になった。
「藤堂さんさぁ」
道場で師範の位置にいる藤堂を朝比奈は師と言わない。敬称こそついているが気持ちとしてはただの呼び捨てに近い。衝突してから修復した関係で親しみがある。だがそこに過敏に反応するのは枢木スザクという少年で二人は頻繁に諍う。取っ組み合うこともしばしばで藤堂は二人まとめて道場から蹴りだしたこともある。仕置のつもりだったが増長させただけだった。
「…何をそんなに怒っている?」
「怒りますよ! 枢木スザクと立ち合ったって!」
スザクは年齢を感じさせない戦闘力の持ち主だ。力は使い方を知らねば道を誤る。藤堂はスザクに教えるために立ち合った。結果としては藤堂の勝利であったがスザクは会心の笑みを見せて満足気に稽古を切り上げて帰っていった。あの子は強いから知らねばならぬことは多いぞ。あのチビはどうでもいいんですって! 藤堂さんが、直に立ち合うってのが許せないんですよ! 何故?
「子供相手に大人げないということか。だがあの子は」
「違いますから!」
藤堂がなにか言うたびに朝比奈は喚きだしそうに髪を逆立てる。その声がまだ高いから悲鳴のようにギィギィと鳴る。首を傾げて要領を得ない藤堂に朝比奈は地団駄を踏んだ。他のものは帰してしまったから良きにつけ悪しきにつけ横槍が入らない。中断もされない。藤堂は肝心要をつかみそこねていることだけは判ったがそれがなんなのかも判らない。
「あんなチビはどうでもいいんです! ボッコボコにされたって再起不能になったっていいけど!」
それはやり過ぎだろうと思ったが言うと怒りそうなので藤堂はひたすら黙って拝聴する。
「藤堂さんの時間をあのチビに割いてやったっていうのが一番腹が立つんです!」
堂々めぐりしている。藤堂は精悍な顔で必死に疑問を押し隠す。スザクの力量を判じて教えることの何がいけないのか。早熟な子にはそれなりの教育が必要だし、時期を誤っては道も違えよう。
「藤堂さんが贔屓する!」
思ったそのままを短く言ったら子供の理屈を真正面からぶつけられた。そういえばスザクも時折そんな揶揄を受けているようでもある。お前は特別だもんな、藤堂先生の。スザクはその子供をさんざんぶちのめしてから何故だか藤堂に頭を下げた。藤堂の方でなにも思うところはないから気にするなと流した。
「…立ち合いたいのか?」
「え? あー…まぁ…うん」
朝比奈が煮え切らない。彼には珍しい失態だ。利口そうな容貌と同じように朝比奈は相手を言葉で攻撃するタイプだ。体つきもまだ華奢で破壊力が伴わない。
「ならば構わんが。今なら時間もある。この後の予定もないから」
きょとんとされて藤堂がきょとんとした。え、いいの? 敬語が消えているが藤堂も特に咎めない。言葉尻一つであげつらう性質ではない。剣道で構わないか? 防具と獲物は。防具なしの木刀で。朝比奈がふんと鼻息荒く指定する。痣はなかなか消えんぞ? オレ、負けるつもりないんで。藤堂はふっと笑うと備え付けの木刀を取った。
「後悔しても知らんぞ」
「藤堂さんこそ。一泡吹かせるからね」
気安く放るのを朝比奈も器用に受け取った。二人が道場の中央へ歩み寄る。かすれて消える印に位置を合わせて一礼する。刀さながらに木刀を構える藤堂に倣って朝比奈も両手できちんと握る。
二人の呼吸のリズムが解る。二人で同じ間をとった。外の微音さえ大きく聞こえる。静謐な時だった。目を眇める藤堂に朝比奈のほうが先手を取った。朝比奈は最上段から思い切り打ち込んでくる。裏で策を練るかと思えば杜撰なほどの大胆さを見せる。木刀の打ち合う音が殷々と響いた。何度か打ち合い、藤堂はそのまま流すようにして重心をずらした。とんと軽く床を蹴って退ると朝比奈がさらに踏み込んでくる。打ち下ろした木刀を勢いを殺さずに切り上げてくる。藤堂は首を傾げる要領で反らす。鳶色の髪が一房揺れて灼けた肌へチリリと焼きつく痛みが走る。それでも藤堂は最初から構えを崩さない。大胆な打ち下ろしと切り上げを繰り返しながらも朝比奈は藤堂の小手も狙う。そういう小狡い賢しさは好ましいと思う。藤堂は薄く笑むとそれを紙一重に避ける。大仰な振りは隙を生むだけだ。
「行くぞ」
矯めるように膝を曲げる。ぐ、と一拍おいてから藤堂は撥条のように飛び出した。一息で懐まで踏み込む。朝比奈が慌てて飛び退りながら防御姿勢を取る。そこへ立て続けに打ち下ろすと朝比奈の腕が震えているのが見えた。重みのある一撃を連続して受けた腕がしびれているのだ。慌てて逃げる脚が追いついていない。ともすればもつれそうなそのタイミングをはかって藤堂が横へ薙ぐ。気づいた朝比奈は体勢を崩しながらも鏡合わせに木刀をふるう。がぁん、と大きな音がこだまを残して震えた。空を切り裂く音の後、がらりと木刀が床へ落ちた。異様な震えと痛みに唾を飲んだ朝比奈が膝をついた。
「…まいりました」
藤堂は構えを解いて切っ先を下ろす。そのまま背中を見せずに退ってから一礼する。空気がふわりと解けた。
「大丈夫か」
「あーもう…絶対勝つと思ったのに…」
ぴらぴらと振るのは痺れをごまかそうとしているのか。朝比奈は体中から集めたものを吐くように嘆息した。失望の色が見えて藤堂がオロオロする。…やりすぎたか? 戦闘ごとになると手加減がうまくない自覚がある藤堂はいつも狼狽える。省悟、すまない。しおれて謝る藤堂の頭を朝比奈が思い切り叩いた。藤堂さんが謝ったら本気で挑んだオレが馬鹿でしょ? 藤堂さん、すぐ自分が悪いって思うのよくないよ。うぐ、と藤堂が押し黙る。いちいちその通りで藤堂には言い訳の言葉も無い。まぁいいけどさ。あのチビも藤堂さんにはかなわなかったし。藤堂は座り込む朝比奈のそばに膝をついた。端座するのを朝比奈も嫌がらない。
「…藤堂さんに勝ったら大手を振って抱かせろって言えると思ったのに」
そうか、と相槌を打とうとして引っかかる。抱く? だって藤堂さんはアイドルだから。アイドルの定義が曖昧な藤堂だが相槌が打てない。鋭敏な触覚が朝比奈に対して危険信号を発する。藤堂は思わず自身をかえりみた。髪は鳶色に硬く、伸ばせばうねるだけでまとまりもしないので短くする。性別と職業柄齟齬は生じなかった。肌も焼けて浅黒く、朝比奈のほうがよほど白皙の美貌だと思う。目つきは鋭いだけで相手に与えるのは威圧感ととっつきにくさだけだ。初対面で藤堂はほぼ敬遠される。頑なな気質がさらにそこを固めてしまう。まかり間違ってもアイドルなどというものにはならない。体躯も目方も戦闘のために鍛えただけで観賞用ではない。
藤堂が朝比奈に確かめる。私を抱く? だって藤堂さんは猫だから。しれっと言われてしかも朝比奈の方に齟齬はないようで当然のような顔をする。私は猫じゃないが。猫でしょ。やっとの思いの反撃はあっさり覆される。別に藤堂は猫の耳や尻尾が生えているわけでもなくまして男だ。多少の逸脱が許されるのは女性であって、しかも年も長けた藤堂のような男にはまず適応されない。飲み込めない藤堂に朝比奈はくふっと笑った。半眼の眼差しは緑柱石の煌めきを見せる。定規を当てたように揃う前髪がさらりと揺れて緑の黒髪が映える。かわいいネコ。その眼差しは藤堂を責めているようにも見えて居心地悪く身じろいだ。衿元から藤堂の鎖骨や胸部が覗く。朝比奈との立ち合いで着付けが弛んでいる。亜麻色の道着と冴え冴えとした紺袴は裾が長い。いざるように歩きながら藤堂はその裾をうまくさばいた。袖や裾も踏まず踏ませない。
「藤堂さん、お腹見えてますよ」
慌てて手を這わせて顔を向けるところへ朝比奈が突っ込んだ。そのまま二人して倒れこむ。朝比奈が藤堂を仰臥させるとその上からのしかかる。
「ごめんなさい、嘘。あーでも鎖骨は見えてましたから半分だけ嘘」
ふわりと朝比奈が好む洗浄剤の香りがする。朝比奈の髪が藤堂の頬を撫でるほど近い。
「キスしていいよね?」
藤堂の応えを待たずに朝比奈の唇が吸い付く。答えようと開く歯列をさらに開かせて朝比奈の舌が潜り込む。豊潤に濡れた舌が藤堂の舌へ絡んでは吸い上げる。同時に流し込まれるものを藤堂は嚥下するしかない。噎せないことが唯一の救いだった。ごく、と藤堂の喉仏が動く度に朝比奈の目が嗜虐と満足とが入り混じって濡れた。
「あは、藤堂さん、大変なことになってる」
乱暴に衿を開かれる。あらわになる胸部や鎖骨のくぼみへ朝比奈は舌を乗せてくる。詰まらせるように圧されて藤堂が顔をしかめる。朝比奈のやわい舌先が鎖骨のくぼみを押す。それだけで藤堂の喉が詰まった。運動で火照った体は汗をかき、疲労で領域はすぐに弛んだ。同じように高い体温の朝比奈の指が同化する。腹の中までかき混ぜられそうな恐怖と同時に踏み出す禁忌の魅力が誘う。
「かわいい…きれい。藤堂さんは色っぽいよね…」
じゅるじゅる吸われて藤堂の体が逃げを打つ。身じろいでずり上がるぶん道着が脱げた。あらわになる肩の丸みや鎖骨の先端を朝比奈は容赦なく食み、すする。中途半端に脱げた道着がかえって藤堂の動きを抑制する。ゆるい枷は思わぬ位置で藤堂の動きを制限し、朝比奈の好きにさせる。
もがく脚の間に朝比奈の体が割り込んでいる。袴をたくし上げられて腰紐へその繊手が伸びるのを見て藤堂は焦った。しょう、ご。オレ今怒ってるんです。だからいうことは聞いてあげられない。鏡志朗さんは悪い子だな。袴の裾をたくしあげて入り込む手が藤堂の脚の間を掴んだ。無造作なつかみは同時に容赦もない。抜き身が瀕した危機に藤堂は体を仰け反らせて震えた。脚長いね。しかも結構色っぽい。袴で隠れるからいいけどさ。オレ以外に見せたらひどいんだからね?
「――ぁ、あ! …つか…ま…そ、こ、…は!」
「えー? わからないよ。鏡志朗さん、もっとはっきり指定してよ」
「ふぁ、あぁ、あ…ぁ…――…」
ぐりゅぐりゅと脚の間で朝比奈の手が抜き身を乱暴に扱う。下穿きさえ障りにしないその暴挙は藤堂を縛るばかりだった。腰が揺らいで四肢が跳ねる。むずがるように首をすくめたり巡らせたりする。唇がしっとり濡れて熱い息を吐く。閉じきれない口元が妖艶に弛む。
そんなさぁ。朝比奈の声が不意に冷えたような気がして藤堂は潤んだ目を向けた。そんな誘われてるのに嫌だって泣かれてもさ。誘ってるのはそっちでしょ? 藤堂は恥じるように目を伏せた。
「オレが嫌なら本気で殺しにかかってよ。オレ、生きている限り追うからね。諦めは悪いほうだし足掻くほうなんだ。ぎりぎりまでねばる。だから賭け事には手を出さないし。次は当たるかもしれないって夢を見ちゃうからさ」
藤堂の首筋へ朝比奈が歯を立てた。体を震わせる藤堂に朝比奈は口を当てたままで嗤った。衿を乱して片脚をさらす上に朝比奈はうっとりと覆いかぶさる。たまらない。藤堂鏡志朗をねじ伏せるなんて。ゾクゾクする。虚ろな灰蒼の双眸は浮かれる朝比奈を映す。朝比奈の手は衿の深くまで及んで藤堂の胸部をさらす。弛んだ着付けで腹まで覗きそうだ。紺色の腰紐を解こうとする。結び目は深く固めるように結ばれていて朝比奈の思うとおりには解けない。口元だけで藤堂が笑んだ。朝比奈の幼稚さが不似合いに微笑ましい。
「固いか」
「厳重すぎるんだよ!」
子供っぽい不平に藤堂は吹き出した。ほら。結び目を解く前に何結びか定めてから解け。手順が違う。藤堂は器用に固い結び目を解く。着衣は脱ぎ着が基本だから、解けなくなるような結び目は少ないぞ。藤堂の爪先や指先が蠢くだけで堅牢な檻は解かれていく。しゅるりと滑る腰紐は解けて袴の前当てだけが藤堂の下腹部を覆った。尖った膝から紺の布地が滑った。朝比奈の手が大腿部さえあらわにする。
「鏡志朗さん、きれい」
朝比奈の唇が内股を食むように吸い上げる。針の刺さるような疼痛と糸をひく唾液。開かれた内股へ朝比奈はいくつも痕を残す。
藤堂はもどかし気に朝比奈の頭を抑えた。藤堂の脚の間で朝比奈がうむと唸る。藤堂の抜き身は徐々に熱を帯びている。
「省悟、もっと」
上目遣いの睥睨はいたずらっぽく藤堂を笑う。
もっとして、いいんだ?
藤堂の脚は朝比奈を巻き込むように絡む。朝比奈の手が乱暴に袴を下穿きごと取り去った。
「あ、ァ――…!」
直に感じる熱とぬめりに藤堂は身震いして嬌声を上げた。声は堪えきれなかった。ビクビクと跳ねる体を朝比奈は恍惚として抱擁した。二人の体は融けるように同化する。藤堂も朝比奈も互いの領域を識別できない。からみ合って溢れかえる。どろりとした蜜が幾筋も垂れて床へあとを残した。落滴を朝比奈の膝が踏み潰して押し開く。藤堂の腰から新たな雫が垂れた。
布地を半ば纏いながら密やかに躍動した。
《了》