サラリと消えたりなんかしない
口当たりの良い
読み込みに唸る微音にうるさげに首を傾げる。人型の戦闘機は思った以上に維持管理に手間がかかった。短期決戦に持ち込まれたのもうなずける。同時にそれを常用するブリタニアという国の基盤さえも見せつけられる気になった。整備担当と言葉を交わしながら自分用に調節する。乗り手を選ぶ戦闘機であるからそのあたりの融通に無理がきく。表示画面と手応えを交互に見据えて文句を飛ばす。何度かそれを繰り返してから降りた。その拍子に藤堂のそばへ絡む長身を見つける。藤堂は卜部の直接的な上司で、解放戦線という軍属時代から世話になっている。切りつける鋭さと親しくなりたい要望を奇妙に成立させる男だ。上背のある藤堂に負けない長身と金髪の長い髪。一つにくくる所為か長さは気にならないがその髪の艶は錆と艶を同時に落としたようにくすむ。だが当人はいたって無頓着で気にするでもない。気にしているのかもしれないが素振りには出ていない。名前を思い出しながら聞きかじりの情報を引き出す。ディートハルト・リート。白人種にありがちな頤とくぼむ眼。鼻筋が高いせいだと思うのに眼差しに憂いを感じ取ってしまうのは見慣れないからか。凹凸のしっかりした顔立ちや言動に出身国を隠す気はない。ディートハルトは日本をねじ伏せたブリタニア人だ。彼が祖国に弓引く団体に所属を決めた理由は知らないし興味もない。団体を統べるゼロという男に執心しているのは見ていなくても判る。隠すつもりもないようだ。団体の情報戦には時折公共の電波をジャックする必要に迫られることがある。その辺りをこの男はうまくこなすようでいつの間にかゼロや藤堂といった高位のものとともにいる。
よく動く口元と流暢な日本語。卜部は違和感と同時に原因に思い当たる。ガムだ。卜部はガムが苦手だ。味がなくなっても消えないアレを捨てる機をいつも逃す。ただの無害な樹脂だと思う。印象としてしきりに何かを噛んでいる姿があるから口元を空にしているディートハルトが意外に思える。そういえばディートハルトは常に何かを口に入れることもないようで、飛沫が飛んだりするのを見ない。先入観は罪が重い。なんでもないことに驚く。ぼんやりと藤堂に話しかけるディートハルトを見つめてしまう。藤堂を気にするつもりで投げた目線がいつの間にかずれている。ディートハルトが半身を開く。身振り手振りを言葉に添える辺りはブリタニア人だと思う。その男くさい顔がふぅと笑んだ。青い目が卜部を見て眇められる。目線をそらすような殊勝さは持ち合わせないから睨み返す。藤堂に良からぬことをするなら排除するつもりだった。コン、と軽くて硬いものが卜部を小突く。ふわりと香る苦味にそれが煙管だと気づく。早くスーツ着てきて。時間が惜しいの。見つめ合ってんじゃないわヨ。冗談だろ。言い返す尻を蹴り飛ばされた。あんたのソレはただの嫉妬よ。どっちに妬いてんだか知らないケドォ。卜部は早々に退散した。
卜部は重たく凝る息を吐いた。戦闘機に乗る際のスーツは専用で密着する生地であるから着るだけで息が詰まる。脱いだ時に思わずため息が漏れるのは当たり前だ。着替えの名残として襟や裾を調節する。隠しを探って煙草を取り出しながら喫煙室を覗いた。幸運だ、誰もいない。後発的な参加であっても卜部たち四聖剣はそれなりの厚遇で迎えられているから何かと気を張る。酒が入っても醜態を見せられない気負いは案外厄介だ。咥えると燐寸を擦った。ライターでもいいのだが流体燃料を持ち歩く勇気がない。長椅子へ腰を下ろして紫煙を吐くと一気に体が弛緩した。卜部の痩躯は丈ばかりある。四肢が長いのか衣食住の衣に困ってばかりいる。灰皿の位置は動かさない。蹴り飛ばしてひっくり返っても始末が大変なだけだ。
「おや」
驚くような言葉を吐きながら表情は全く動じていない。目線だけを向ける卜部にディートハルトは不快になるでもない。藤堂だったら拳骨くらいは飛んでくる。厳しい人であるから横着は赦さない。無表情に目線を外した途端に隣へどかっと座られた。
「ハァ?」
卜部の唸りさえ気に留めないディートハルトはあっさり燐寸を奪う。ライターではないんですね。左で火をつける。右手で押さえる煙草を吸う。両利きらしかった。
間の抜けた空気が流れて卜部は咥えたままの煙草を外す。あんたってガム噛まないの。ディートハルトは鷹揚に目線を向ける。目だけを動かすのが大仰に見えるのは欧州文化圏ではありがちな仕草だ。私はキスも上手いですよ。黙りこむ卜部はやりとりを反芻する。誰もそんな話はしてねぇだろうが。口臭も大丈夫だと思いますよ。なんでそっちへ話を向けるンだよ。ディートハルトが顔を向ける。真面目ぶった顔をすると案外知的な顔になる。一房たれた髪まで長い。前触れのない真面目な表情に卜部がびくっとはねた。
「チェリーの枝を舌で結ぶんでしたっけ? キスの上手さを証明するなんて」
「都市伝説だぜそれ。だから俺はただあんたの」
口元は隙なく引き締まっている。瞬間に卜部が淀んだ。何を言うつもりだったのか。たじろいで怯む卜部が言葉を詰まらせる。ディートハルトの口角が上がっている。卜部の失態はしれているに違いなかった。気恥ずかしいような怒りに似たもどかしさで仕草が乱暴になる。
「くそったれ」
喫み差しを灰皿へ投げると新しく咥えた。それを眺めるディートハルトの目線は予想に反して穏やかだ。論って揶揄するつもりもないらしい。
「ここまで匂わせておいてやめるなんて罪な人だ。キスして欲しいんですか?」
煙草を吹き出した。火をつけていなかったのを幸いにそのまま捨て置く。おい。振り向く前に頤を掴まれた。ディートハルトの手や力は想像以上に強い。頤を固定される。そのまま唇が重なった。ディートハルトの口元からいつの間にか煙草がない。重たく湿るように蠢く舌が退いたのは卜部がその熱を覚えてからだ。煙草を潰したり服を脱いだりするのに時間がかかるのは野暮ですよ。知らぬ間に済ませなくては。当然のように語られた。だからそれは俺を相手にすることじゃねぇんだよ。あなたも藤堂中佐と同じですね。自分に矛先が向くなどと考えもしない。しかも無根拠。落ち度を指摘されて苦く唸る。言い返そうとして開く唇を吸われた。
煙草の味がする舌が苦い。ディートハルトの舌は鼻をつまませるまでもなく自然に卜部の歯列を開かせる。催促もされないのに卜部の口が開く。手馴れているに違いないのに不躾や厚かましいわけでもない。ディートハルトは長い垂れをさばくように卜部をあしらう。無理をしているような気配もないし不具合も生じない。泰然としたその流れは当然のように居座る。
好きにされるのは口の中だけのはずだが裸身を晒している気になった。息もできるし拘束もされていない。そのくせ抑えられた頤はびくともしない。ディートハルトが飽きるのを無為に待った。意に反してディートハルトが飽きない。面白がるように食まれて歯列はなぶられ舌を吸われる。口の中を刺激されて唾液ばかりがあふれる。ディートハルトは呑んだぶんを流し込む。卜部の喉がゴクリと動いた。震えてしまう唇をなだめるように重ねては食んだり吸ったりする。文化を基盤とした経験値が違いすぎるのだと悟ったのがすでに遅い。卜部は唇だけで体中を弄られている。抜き身さえその手中にあるのだと錯覚する。
「…――でぃ…」
名前さえ呼べずに食われる。馥郁とした唇ですね。小難しい言葉を使うのはわざとだ。卜部が意味を探る間に好き放題荒らして回る。吐き出す息が濡れる。爪を立てているのがどこかさえ判らない。自分がどんな体勢をしているかさえ曖昧だ。ディートハルトが発する熱さえ感じ取れる気がした。ディートハルトが卜部の舌を舐る。音を立てて吸われて身震いする。
「その気になりましたか」
離れた口元にうそぶかれて卜部の腕がしなう。その手首を掴まれ逆に抑えこまれた。藤堂中佐とは違って人が好いですね。御しやすい。軍服の硬い襟をディートハルトは片手だけで引き開けた。留め具の壊れた気配がする。首筋をねっとりと舐めあげられる。筋肉の筋や組み合わさって生まれた虚を探り当てられて舐られる。卜部が痙攣的に跳ねてもディートハルトの手は手首を抑えたままだ。
卜部の体から力が抜ける。喧嘩や諍いに慣れているぶん見切りが早い。ディートハルトははからずも藤堂と同じ部類の力強さを秘めている。要するにかなわない。ディートハルトは大げさに驚いてみせる。肩をすくめそうなそれは日本人では持ち得ない表現力だ。
「まったく、日本人の粋とは難しいものですね。無理やりしているのに許されるような気になる」
言葉に敏感なのは報道関係としての習い性だろう。報道の表現で白も黒になる。ゼロに力があるのはその綱渡りが異常に上手いからだ。蒼い双眸がずいと卜部を覗きこむ。…なンだよ、瞳孔は黒いンだな。呆れたような卜部の感想にもたじろぎもしない。細身なんですね。けれど貧弱でもない。手首の関節の溝を抉られて卜部の顔が引きつる。くつろげた襟の奥へディートハルトが鼻先を埋めるようにする。逃げようとよじる体の駆動域がほぼないことに気づいた。ディートハルトの用意周到に唾を吐く。そういうところは藤堂中佐とは違いますね。抜けてるっていいたいのかクソ野郎。そんなことを言うと舌が腐りますよ。くちづけというより食まれた。絡み取られて吸われた舌を思いっきり噛まれて卜部の痩躯は断続的に跳ね上がる。口の中に唾液が溢れて口の端から情けなく垂れ流す。痛みに麻痺したのは感覚だけではなく動きもだ。眼球の裏で燐光が燃えて思考は白光に塗りつぶされた。
「こういう隙があるところが。藤堂中佐でしたら私の舌が噛みちぎられているでしょうな」
衝撃に震える卜部の舌先をディートハルトが口へ押し込む。うむ、とこもった音をさせてすぐ吸い上げる。痛みに振りきれた卜部の舌の感覚はまだ戻らない。されるままに唾液を呑み、舌の感覚が戻るのを待つしかない。藤堂中佐から聞いていますよ、あなたは優しい性質だそうで。ディートハルトの指が卜部の舌を摘んだ。感覚が少しだけある。ぁが、とだらしないのを楽しげに笑われた。
「舌を噛みちぎる自殺方法が浸透しているせいか日本人を相手にするとキスのハードルが高くて困りますね」
キスはガムと同じですよ。ディートハルトはしれっと一席ぶった。口さみしいから咥えるだけ。口にするのは煙草や飴やガムや人の唇といったバリエーションが豊富なだけで。その感覚は卜部にはわからない。べぇっと舌を出すとディートハルトは愉快そうに声を立てて笑った。
ディートハルトの指が愛でるように卜部の唇を撫でた。他の場所へは驚くほど肉がつかない卜部だが唇だけが薄くなりもせず厚みを保つ。ふくりとした柔い感触を確かめるようにディートハルトの指先が押したり引いたりこね回す。唇に厚みがあるとはなかなか艶っぽいですね。舌の感覚が戻ってきた。奥歯を強く噛む手応えもある。ディートハルトの指でも噛んでやろうかと開いた瞬間に唇を奪われる。日に何度も繰り返されて、しかもそれが自分の甘い見立てから来るのだと思えば情けない。舌を噛み千切ってやると意気込むのと同じくらい絡めて吸われる朧な快感に逆らえずに酔いしれる。ぢゅう、と口の中の水気をすべて持っていかれるほどの強さで吸い上げられた。離れた折にはちゅぱ、と艶めく水音さえする。忘れていた呼吸が乱れる。はふ、と濡れた息を吐く卜部の蒼い黒髪を梳かれた。
「あなたは艶かしい」
ディートハルトの唇がちゅ、と触れるだけの口づけを卜部の額に残して去った。一服して行動を再開すると言いたげな動作で違和感さえない。抜き身まで翻弄された卜部としては納得がいかないがその分禁忌のような快楽に酔いしれた負い目があった。あとは追わない。ディートハルトも振り向かなかった。堂々と喫煙室を去る背中は用が済んだと言わんばかりに薄情だ。辛子色の髪がふさりと尻尾のように揺れる。
「これからもよろしく。猫様」
仰々しい一礼をするディートハルトはきびきびとした動きで背を向ける。名残を惜しむでもない。執着すると思うのに退き際は驚くほど淡白だ。
力の抜ける卜部の体がズルズル滑った。四肢を投げ出すから余計に行儀が悪く見える。不意に隣へ置かれている煙草入れに気づいた。見かけない装飾や作りである。ディートハルトの忘れ物だ。確かめるつもりで中身を探れば煙草の包がそのまま煙草入れに突っ込まれているようだ。杜撰なのか念入りなのか判断が難しい。卜部の知らない銘柄だ。一本抜き出すと咥える。放置されっぱなしの燐寸を探り当てて擦ると火をつけた。知らない苦味がじわりと口の中へしみる。食まれた舌は傷がついたか吸う度にじわりじわりとした痺れの感覚がある。紙包みと煙草入れの間に挟まる紙片を抜き取る。記してあるのはアルファベットと数字の羅列だ。走り書きの署名まである。
「…ばっかじゃねぇの」
もし藤堂であれば間違いなく気づかず突き返す。気づいても知らぬふりを通す。だが卜部は藤堂ほど清廉潔白でも聖人君子でもない。携帯機器の設定を絞り込んでから通信を開始する。つながった瞬間に卜部は悪態をついた。煙草もらっちまうからな。返せって言ったって返せねぇからそのつもりでいろよ、このボケナス。
『あなたの身体と棒引きにしますか?』
卜部はさんざん悪態をついた。藤堂が聞いたら間違いなく平手や拳が見舞われる。卜部がクックッと喉を震わせて笑った。煙草を深く吸う。知らない味だ。吐き出す煙の色さえ違って見えた。口の端がつり上がる。
《了》