波状攻撃と不意打ち


   もつれて絡んだ赤い糸


 ライは白い。名前も記憶もまっさらの新雪だ。名前はかろうじて思い出した。思いつきに近いのかも知れなかったが思い出したということにしておく。歓談しながら出て行く軍服の背中が見えなくなってからライはくるんと手首を回す。手品のように手のうちに燐寸と煙草が現れる。煙草の箱は擦り切れて明らかに草臥れている。燐寸も同様だ。煙草の中身は箱の銘柄と一致しない。足りなくなればちょろまかすのを繰り返す。消耗品でありながら残量が明確に把握されないから失敬してもバレにくい。ライとすれ違った後に相手は首を傾げる。その台詞は決まりきっている。もうこれしかないのか。人気のない喫煙室でライは紫煙を吐いた。
 ため息が聞こえてライは首を傾がせる。肩を落とした藤堂がそこに居た。
「中佐」
階級を呼びながら尊敬はおろか緊張感さえもない。藤堂が気づかないわけはないと思うが藤堂にそのことで叱られたことはない。
「具合を悪くしても知らないぞ」
「大丈夫っぽいですけど。息切れもしないし」
体が作られるのが阻害されるだろう。もう作りませんよたぶん。熟れたふうに煙草を揺らして咥えたままで会話する。言葉の合間に抜いたり咥えたりを繰り返す。肺まで吸っている証のように一拍おいて吹き出す煙を目で追う。
 藤堂がとなりへどかりと座る。荒っぽい仕草をしても粗野が目立たないのは藤堂の人徳だ。虚ろに眺めるライの隙をついて藤堂は箱を奪うと一本抜く。薄く開いた唇へ挟むと燐寸を擦る。音を立てて明るさが変わり、揺らぐようにして藤堂の精悍な美貌が映える。火が先端へつくなり手首の返しで消火し燃え殻は灰皿へ沈んでいく。中佐こそ息切れしたって知りませんよ。黙っていても切れてくる頃合いだから構わない。しれっと返されてライの体がズルズル滑った。藤堂中佐は好きな人とかいないんですか。人というからには道ならぬ恋も含まれるのかな。動揺させるつもりがそのまま反撃された。僕はそこまで日本語に厳密じゃないですけど。どうかな。藤堂は意味ありげに口元を弛ませる。揶揄するような笑みでライはむっと口元を引き結ぶ。どういうものかを知っていれば扱いに差が出る。曖昧で抽象的だがライを黙らせるには十分だった。抱きたい人に自分より親密な人がいたらどうしたらいいですか? 藤堂の灰蒼が胡乱に空を眺めてから肩をすくめる。諦めるのも挑戦するのも本人次第だ。退き際の見定めは難しいが退くばかりでは誰も懐かない。
 「まぁそういう事情で藤堂中佐から見た卜部さんの情報がほしいです」
「居直ったな…」
白くて細い指が煙草を挟んでゆらゆら揺らす。藤堂は呆れとも楽しみともつかない笑みを浮かべた。ライも判っていて嵩にかかる。ライのような新参で揺らぐほど藤堂は脆弱ではない。私が知っている程度の情報ならデータベースをあたればすぐに出る。食べ物の好き嫌いとかは出ないです。甘いものが好きなんだろうな。どうして? 藤堂が煙草を面白がるように揺らした。目玉焼きに醤油ではなく蜜をかけると聞いたからな。美味いのかどうかは判らないが。辛党なのに? どちらもいけるのではないか。ザルなのかな。それは藤堂中佐だって聞いてますけど。酒を持ち込む輩を返り討ちにした話は何パターンも聞いてますよ。脚色されているよ。
「中佐ァ?」
抜けるような声が聞こえて藤堂が振り向く。座る位置がずれてライの存在が見えていないのだ。藤堂は面白そうに目を眇める。流し見るその冷える色気は一級だと思う。噂をすれば影だな。ウワッ、少尉もいるのかよ。ダメですか? 薔薇色の頬をふくらませると卜部が脱力したように肩を落とした。未成年じゃねぇかよ。ガキが煙草吸うなよ。年齢は不問です。ライは短くなった煙草を灰皿で潰した。中佐も注意してくださいよ。私は生活監督ではないから。ガキの喫煙はぶん殴ってくださいよ。
 藤堂と卜部の間でやりとりがある。ライには窺い知れない符牒がいくつも発せられて、しかも卜部や藤堂はそれを了解しているのだ。新参者だってこういう時に思い知る。暗黙の了解が読めない疎外感は傍目以上に気をくじく。また二人で諍ってますよ。特に朝比奈の奴は閨まで暴露しようとしてますけど。そ、それは止めて欲しいんだが。俺が言って聞くなら殴りますがね。売り言葉に買い言葉であれもうただの中佐の暴露合戦になってますけど。一応耳に入れておこうかと思って。私のところへ来る前に二人を止めて欲しいんだが。繰り返しますけど俺にあれは荷が勝ちますって。びきっとこわばる藤堂はなんだかかわいい。中佐もこういう顔するんだ。真摯を気負いすぎて近寄りがたい気がしたのに藤堂はただの奥手だ。見かけによらないっていうかある意味では予想通りなんだけど。
 「少尉」
はい、と言おうとして開いた口へ煙草を突っ込まれた。藤堂が吸った喫み口を咥えたままでライは目を瞬かせた。それは君に任せる。慌ただしくファイルや書類を抱えて藤堂がかけて行く。その背中を見送る卜部のうなじばかりをライはむやみに見据える。白い手が伸びて卜部の腰を掴んだ。腰骨の尖りは粗い生地の軍服の上からでも何とか推し量れる。叩き折ってやりたい。卜部が一瞬怯んだ顔を見せる。その直後に煙草を奪われて灰皿へ放られた。ガキが粋がって喫むんじゃねぇ。


 食堂でライは盆を前にため息をついた。一汁一菜というほど質素ではないが日本食ってこういうものなのかな? おかずを細切れにしながらライは嘆息した。食べられないものはない。アレルギーで困った覚えもない。それでもライの箸は遅々として進まず、飯粒を少しずつ口へ押し込む。
「少尉、いい?」
正面に腰を下ろすのは朝比奈だ。いいかと訊きながら退く気は全く見えない。席へつくなり醤油差しを取ると半分ほどを一気に空ける。健康診断で再検査って言われませんか。血圧が高いだけだから大丈夫。腹上死できるなら本望だよ。誰の腹の上で死ぬつもりなのかはあえて聞かない。そうなんですか? 直後にゴン、と軽くて丈夫な盆が朝比奈を揺れるほど叩いた。飯時に持ち出す話題じゃねぇよそれ。ずれた眼鏡を直しながら膨れる朝比奈を物ともしないのは卜部だ。朝比奈とは構成内容が違う。献立は数種類から選ぶから所属が同じでもこういうことがある。
「いったいなぁ!」
「お前の脳細胞は少し死滅した方がいいぜ」
朝比奈はぶぅぶぅ言いながらも矛を収める。卜部も承知したようにそれ以上の深追いはしない。献立を消化していく二人を眺めてライは大きなため息をついた。藤堂のように知らぬふりもできないし朝比奈のように譲歩することもできない。僕が好きなことって迷惑でしかないのかな。

「…藤堂さんと結婚しようかなぁ…」

ブゥ! と朝比奈が飯粒を噴出した。鼻腔にまで達したようで激しくむせている。卜部は卜部で味噌汁にむせ返る。喉がゼイゼイと引き攣っている。ライはテーブルへ伏せたまま言葉を続ける。
「その方がいい気がする…だって気づいてももらえないなんて辛いし…判ってくれるの藤堂さんだけだし…判ってくれる人と一緒になればいい気がする…」
ごぼごぼと濁音混じりの音を吐いて朝比奈が何かを訴える。あいにくライはテーブルに臥せって見ていない。卜部だけが味噌汁を椀と口で循環させる。ごぼぼぼと泡立つような音がするのをライは知らぬふりをした。藤堂さんのこと下の名前で読んだらダメかな。
「ダメ! 鏡志朗さんはオレのなの!」
箸を放り出してかけ出す朝比奈の後ろ姿を卜部だけが見送った。口元から味噌汁が垂れた。ごくん、と呑んで卜部が深呼吸する。少尉、それ、どういう意味?
「どういうって。僕が藤堂中佐をお嫁さんにしようかなって。あんなに気の付く人っていないですし」
「男同士で結婚はできないぜ」
ブリタニアの法に照らしてもそんな項目はない。卜部が胡乱な知識を総動員するのをライは鼻で笑う。
「だったら国籍を変えるまでです。もともと僕の情報なんてないに等しいし。藤堂中佐は…まぁ多少のゴタゴタは僕が何とかするつもりです」
僕には秘密の力があるんです。秘密があるって言ってる時点で半分くらいその意味合い損なってるぞ。だってしょうがないんです! ライの箸がぶすっと飯茶碗を貫く。見かねた卜部が指摘する。飯に箸立てるなよ。仏前じゃねぇんだからさ。
 「それとも卜部さんが僕と結婚してくれますか?」
多量の水気を孕んだ青色が卜部を見上げる。その蒼は淡いかと思えば群青かと思うほど深みを増す。瞳の色さえ揺らぐそれに卜部の気持ちが揺らいだ。ライは自分がどういう見た目をしているかくらい知っている。どういうふうにすれば効果的かもたぶん知ってる。瞬く睫毛の長さや唇の紅さ。白皙の肌は粗い生地を引き立て役に澄み切った。白とも銀とも言えない髪は照明の具合で白銀から鼈甲にまで色合いを変化させる。先端へ行くほど細る髪は蜜色に透き通って人造を否定する。天然でしかありえず成し得ない。予め持っているという価値を加えた美貌をライは振りかざす。
「卜部さん、僕と、結婚して」
「…少尉、酒でも呑んでんのか?」
「本気ですよ。素面だし。卜部さんが駄目なら藤堂中佐に頼むからいいもん」
藤堂だけを階級で呼ぶのは卜部たちの影響だ。並べてしまえば新参のライだけは一段低い。それなのに藤堂はライを見くびらないし、卜部たちも殊更それをあげつらうこともない。
 ライの指が卜部の手や指に絡む。長いくせに節が目立つのは卜部の変遷の証だ。特に体液は皮膚の水分を奪っていく。その指を絡めるように手を這わせる。引っ張ればつんのめる卜部にライはぶつけるようにキスをした。噛み付くつもりであったから衝突くらいなんでもない。それでも互いの歯列は肉を裂くでもなく穏便に唇が重なる。卜部の方で勢いを加減している。空いた手がライの頬や頤を側面から抑えて減速させる。
「卜部さん、結婚しませんか」
「…馬鹿言ってんな」
「指輪がいるんだっけ。カレンが言ってた。男が指輪を見せるんだって。それが結婚の申し込みになるって。僕の手当じゃ買うのに少しかかるけど」
「俺は受けると入ってないぜ」
「でも受け取ってくれるんでしょ?」
ちゅ、と唇が離れる。朱唇から透明な糸を引いて卜部の唇へつながる。ライがべろりと舐めた。
「少尉は中佐と懇意にしてるって聞いてんだけど」
「ガセです」
さらっと流すのを卜部が苦々し気に目を眇めた。喫み差しを吸ってたじゃねぇかよ。だって藤堂中佐が寄越すから。そういえば卜部さんは煙草吸わないんですか? 喫むけど。人がいない時に行くんだよ。どうして? 面倒だからに決まってんだろ。
「僕、面倒がられても卜部さんが好きなんです」
だから面倒なんだよ。ライは目を瞬かせた。白銀の毛先が上下して、その奥で青い瞳が潤むように揺らぐ。俺もあんたが嫌いじゃないから困るんだよ。卜部の荒れた手のひらが滑らかなライの頤を捕らえる。ざらりとした痛みは快感のようにライの体を貫く。汚れ仕事ばっかりやるから肌が荒れてるだろ。でも僕は嫌いじゃあないですよ。ぬかすな。ライはもう一度食むように卜部の唇をついばむ。食堂の喧騒に二人が埋もれる。性別に偏りがある団体であるから目こぼしの基準が緩い。キスくらいでは誰も驚かない。
 は、ふ、と熱い息を吐いてライはうっとりとつぶやいた。あなたを抱きたい。食堂で言うな。苦々しげな卜部の頬が紅い。ライは絹のような手のひらを卜部の頬に這わせる。
「耳まで真っ赤なんですけど」
「言う、な!」
ライはむさぼるつもりで唇を合わせた。盆を蹴り退けてテーブルに乗り上げる。注目の的になろうがそんなことはどうでもいい。年少だから多少杜撰でも目こぼしされる。ハズ。
「卜部さん。抱かせて?」
あぁ、もう。愛してるなんかじゃ足りない。あなたのすべてを食らって喰らわれてあなたに埋まりたい。
「巧雪」
ライは卜部の長駆を押し倒す。椅子まで転げて派手な音をたてる。卜部に殴られた。腫れた頬のままでライは笑いながら謝ってその耳朶へ囁く。

ごめんなさい
抱かせて

位置取りは卜部の脚の間で、抜かりはなかった。卜部からの拒絶も、なかった。その日のうちにライは卜部の個室の解除キィを教えてもらった。公衆の面前で抱かれる気はねぇからな。個室ならいいの? ライの問いにたじろぐ卜部が愛しかった。食んだ。



 ばたばたばた、とかけてくる足音が部屋の前で停まるのを藤堂は何ともなしに聞いた。感覚を研ぎ澄ませば足音の目的が自分か否かくらいは判別できた。奇跡を冠する呼び名の藤堂は相手からと同じ程度の畏怖を味方にも植え付けている。強くて頼りになるけど日常的に接するのは難しい。それが藤堂に与えられた評価だ。読みさしの文庫本を閉じたところで扉が解錠された。キィを知っている人物か。思った瞬間に飛びかかられて思考が真っ白になった。そのまま押し倒されて目を瞬く。藤堂にのしかかるようにして洟を垂らした朝比奈がぐずっていた。どういう、こと?
 「藤堂さん、少尉と結婚するんですか?」
なんだか話題の飛躍が激しい。同性間の姻戚は認められているのだろうかと首を傾げる藤堂に朝比奈がぐずぐずいう。少尉。ライくんか。
「…あんな子供に何を強いるんだ」
藤堂からの意識としては守ってやらなければ以外の感情が起こらない。少尉の戦闘力を見くびるつもりはないが、それでも年齢を考えると年長である自分が盾にならないといけないぐらいの気持ちがある。
「だって、少尉が結婚するって」
「結婚? 誰と?」
あの年若さで婚姻を考える相手がいるのか。いや、若いから考えが婚姻まで行くのか。だがそうであれば祝福してやらなければならない。まだ年若い少尉であれば、年長の後押しが入用だろう。気負う藤堂に向かって朝比奈がべそべそ泣いた。
「オレは嫌です!」
「朝比奈! 嫌などと言ってはいけない」
歳若いなりに考えた末であろうから頭ごなしに否定してはいけない。伴侶を定めたなら二人を祝福してやらなければ。知己であった期間が短ろうが少尉が決めた人であれば周りがとやかくいうことではない。つらつらと言い聞かせる藤堂に朝比奈が呆けたがブルブルと首を振った。
 「あの年若さで伴侶が決まるとは少尉はすごいな」
感心する藤堂の後ろで朝比奈がブルブル首を振る。藤堂は見てない。
「相手も年少なのだろうか。そうであれば余計に年長者のアドバイスがいるだろう。私は未婚であるから具合がわからないな…千葉あたりに訊いたほうがいいのだろうか」
「殺されるからやめてください」
「そうなのか? 女性の妬気は恐ろしいというからな…年長というなら仙波に訊くことも出来るか」
「殺されますから」
私よりよほど良い助言ができるだろうな。キラキラして話を進める藤堂の後ろで朝比奈がくずおれる。オレはあなたと結婚したいです。言いたいのに言えない台詞に熱い涙があふれる。
「祝い膳を整えるべきだろうか」
朝比奈は脱力と同時に意識さえも手放した。



《了》

みんなあほの子っぽいな…               2014年3月9日UP

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